楼邑の棺
祭壇の間で、婁聿と彼の側近、婦好、婁泯、サク、リツが座した。
婦好が母と面会を求めるも、婁聿は顔を顰めた。
「無理な話です。主君は祭祀に忙しいのです」
婦好が首を傾げて瞬きをする。
「わたしは間もなくここを立たねばならない。この地を踏むことは二度とないだろう。最期の機会である。お願いできないだろうか」
婁聿は、ぐっとこらえた様子で、敷物に指先をつけて伏せた。
「お気の毒ですが、しきたりなのです。申し訳ありません」
婦好は婁聿を優しく見つめる。
サクはすっと立ち上がり、婦好の半歩後ろに座った。
「恐れながら申し上げます」
サクの声が祭壇の間に反響する。
「わたくしの戯言を聞いてはくださいませんか。その上で、誤りがあれば正していただきたいのです」
サクは立ち上がって、小さく呼吸をした。
まるで『史』を唄うように言う。
「邑には姫がおりました。邑の継承権は女系にあり、支配者になるはずの姫です。やがて、恋に落ちました。敵とする勢力の男です。姫は邑を継ぐことなく敵国の長との子を設けました」
ここまでは婁泯から得た情報だ。
続いて、サクは仮説を立てた。
「しかし、出産の際に命を落としたのです」
婦好の誕生である。
「王位継承者の居なくなった神官は提案しました。敵の勢力に、主の躯と、己の赤子の交換を申し出たのです。リツさま。その耳飾りをお借りできますか」
サクはリツの耳飾りを預かる。
「みなさま、これをご覧ください」
示すかのようにして、みなに見せた。
その場に居た者は婁聿の耳に揺れる石を比較する。
「継承者の母と子は死別してしまいましたが、配下の父と子は再会を果たすのです」
「何を言い出すのかと思いきや……は、は、は、なかなか面白いお話でした」
サクの歌うような話が終わるやいなや、婁聿はカラカラとした乾いた笑いを響かせた。
「……そのお話と我が邑に間の関係が?」
婁聿は、肩を落として細く長く息を吐く。
婦好が問う。
「婁聿。どうなのだ?」
婁聿は婦好の琥珀のような瞳を見る。
彼の主に似た婦好が、一言問うだけで彼の心をほぐすには十分だった。
彼は己に似た黒髪の女性──リツを見た。
「……名は、なんと呼ばれておりますか」
「リツです」
「リツ殿……そうか。リツ……」
おそらくリツの名の音は、婁聿に由来するであろうことは、サクにも想像できた。
「リツ殿は婦好さまに長くお仕えしているのか」
「はい。わたしは婦好さまに忠誠を誓い、命を捧げる者です。それが使命です。確かにわたしは親を知りません。幼少より婦好さまと野山を駆けて育ちました。子を想う親であれば、わたしの生き方に何も言わないはずです」
「リツ殿は、幸せか」
「はい。婦好さまのそばに居られることが幸せです。父も心に決めた方のそばに仕えることの幸せを知る人だと思います」
「……そうか」
婦好は語る。まるで母を演じるかのように。
「リツはわたしの腹心である。リツをわたしの側におけることを、天に感謝している。母も、部下に対しては同じ気持ちだっただろう」
サクの主は頬にまで落ちるまつ毛を揺らして、母の部下を見つめた。
「長年の苦労、そなたに感謝する」
婁聿が婦好の視線に、感極まったように項垂れた。
「本当に、似ておられる……ああ……」
彼はかつての己の主の姿に婦好を重ねているのだ。
婦好は婁聿の肩をぽんと、包んだ。
「母と会いたい。案内してくれないか」
男は震えるような音を発する。
「地下の、神殿に」
婁聿の指先に、扉がある。
その奥に地下への階段があった。
婁聿を先頭に、婦好、リツ、サク、婁泯の順で入る。
松明を掲げても暗く、気を抜けば足が闇に引きずり込まれそうである。
階段の終わった先に、赤煉瓦の小部屋があった。
棺が横たわる。
「棺か」
「開けますか」
婦好は首を横に振った。
「顔を見ずともわかる。わたしを生んだ母はここにいる。我々の出生の秘密を知った。それで十分だ。それ以上に、わたしが得られて喜ばしく思うのは、婁聿。そなたと友になれたことだ。母も嬉しく思っているだろう」
「ここは本来、あなたが統べるべき地です。統治をお願いできませんか」
「婁聿よ。ここはわたしが居るべき地ではない。そなたを慕う者たちと思うままに統べよ。わたしは人々と馬と羊たちの安寧を願う。ただ」
「間もなく大きな戦となるだろう。遠方となるが協力してほしい」
「この地は本来、あなたが継承すべきものでした。我々も当然、協力は惜しみませんので、必ずお声かけください」
婁聿は頭を垂れた。
サクはつつと婦好に寄り添い、子明の銅を手に添えた。
「こちらを供えてもよろしいでしょうか。子明さまから預かったものです」
「見せなさい」
「銅……か」
「子明さまは、わたしに問いを出しました。この銅をしかるべき場所に捧げて欲しいと。ここが終着点です。この銅がここまで導いてくれたのです」
サクは子明からの銅を、絹とともに、棺の上に丁寧に置いた。
目を閉じて、棺の死者が安らかなることを願う。
祈りののち、内部を見渡した。
「失礼いたします。松明を分けてくださいませんか」
サクは部屋の隅々をゆらめく炎で観察する。
「サク、なにをしている」
「無礼であれば申し訳ありません。文字を探していたのです」
「文字を、か」
「はい。わたしたちが死者を理解するには、どうしても、関係された方から間接的に知る事しかできません。もし文字があれば、もっと知ることができたでしょう」
「死者は語らない。それが天の理だ」
ここで知れたことのすべては誰かの言である。
本人に聞かなければ真実までには永遠にたどり着けない。
「それでも直接、死者の心の内をお聞きしたいと、そのように願わずにはいられなかったのです」
「文字があれば……か。サクらしい考えだ」
婦好はサクの頭をぽん、と撫でる。
「直接言葉を交わさなくても、わかることもある。それが人というものだろう」
「必要な旅だったのだな」
サクの主の、まるで宝石のような深い神秘性を持つ瞳が揺らめく。
「サク、連れてきてくれてありがとう」
婦好はふわりと、華のような笑顔をみせた。
「わたしも、婦好さまとリツさまのことを知ることができてよかったです」
【第六章 好邑の華の時代考証について】
作中の他の邑(沚邑、倉邑、望邑)は出土した甲骨文に根拠がありますが、婁邑は架空の集落です。
そのモデルは楼蘭。桜蘭は現在の新疆ウイグル地区にあった都市です。
桜蘭といえば、「桜蘭の美女」という推定紀元前十九世紀のミイラが発見されており、そのDNAを調査したところ、7割ほどアーリア人(インド=ヨーロッパ語系諸族の一派)の血が混じっていたそうです。
とはいえ、婦好の時代の紀元前十三世紀とは数百年の隔たりがあり、地理的にも移動は不可能な距離。
ゆえに、婁邑は桜蘭系の派生集団として、数百年をかけて東へ東へ居を移してきたという設定にしています。
婦好の母のモデルであり、物語の婦好が長身に加えて色素の薄い髪と瞳をしているのはここに由来します。
また、作中では青銅の技術を西アジア起源とし、シルクロードを通って中国に入ってきたという説を採用しています。
婦好の時代以前にも東西の文化交流があった点と、婦好の生まれ持つ容姿の由来を描きたかったことから、この章が誕生しました。




