羊神判◇
サクの進言は、神の信託である羊神判にかけられた。
羊神判とは、羊をつかって神の意志を問う儀式である。
その方法は、審判にかけられるふたりが、それぞれに羊を殺す。
羊が騒ぐことなく絶命すれば、神の意にそうものとされ、吉とよむ。
羊が猛り狂えば、凶とよむ。
この吉凶によって勝敗をさだめる。
婦好による沚馘への歓迎の席に、祭壇と二頭の羊が用意された。
弓臤が、言った。
「まずは俺からだ」
弓臤は慣れた手つきで、羊に剣を突きさした。
弓臤が羊の首もとに剣をすうと入れると、羊はほとんど音を伴わずに、絶命した。
少し祭壇に血が滴っただけだった。
占いの結果としては、これ以上ない吉兆である。
弓臤は体を後ろに反らして、サクをひと目みた。
サクは困惑した。
弓臤よりもよい兆候を得ないと、己の命はない。
しかし、サクはこれまで羊を殺したことなど一度もなかった。弓臤よりも手際よく儀式をすませることは、とうてい無理だ。
弓臤に殺された羊の命に、サクは己の命運を重ねた。
サクの目の前にも、生きた羊が差し出された。
生臭い獣の匂いが、サクの鼻をかすめる。
サクは剣を羊の喉元にたてた。
手に力をいれる。しかし、
──殺せない。
サクは、おのれの発言によって招かれた、己の死を覚悟した。
そのとき、婦好の手がふわりと、サクの肩をつつんだ。
婦好の栗色の髪が、サクの頰に落ちた。
「なぜ、サクが羊神判をおこなう? サクを賭けに、羊神判をおこなうのはわたしだ」
そういうなり、婦好は黄金の剣で、羊を机ごと断じた。
婦好の剣は羊の心の臓をめがけて、まっすぐにつきたてられた。
切り口は羊皮と木材が隙間なく埋まっていて、祭壇に羊の血が流れることはなかった。
「ほほう、見事」
婦好の太刀筋を沚馘が讃えた。
弓臤は頭を掻いた。
羊神判による神の祝福は、だれが見ても婦好に与えられた。
「さすがは婦好さまじゃ、ほぁっはっは! 婦好さまの、神からの愛されぶりにはかなわぬ」
「沚馘どの。そして、弓臤よ。どうやら、神は我が軍の巫女、サクのお言葉を求めているようです」
「ほぁっはっは! いいでしょうとも。いやいや、あしたはなんとも楽しみですな! 愉快、愉快!」
婦好は、サクへ言った。
「サクよ、神の信託を発するのも良いが、なにかをするときは、まずはわたしに相談せよ。……と言いたいところだが、神は制御できるものではない。だからこそ、面白い。なにがあっても、わたしが責を負う。今後も、おのれを信じて好きにせよ」
「贔屓が過ぎぬか」
婦好の言葉に、弓臤が噛みついた。
婦好がゆったりと笑った。
「はははは。サクだけではない。わたしの乙女たちは、みな自由だ」
「ほぁっはっは! こわい乙女ですな、ほぁっはっは!」
婦好と沚馘が談笑をはじめたとき、沚馘の隣にいた弓臤が、サクに問うた。
「おまえ、婦好の助けがなかったらどうするつもりだった?」
「羊を殺めることはできぬと、お伝えするところでした」
「ふん、甘いな」
弓臤は、軽蔑の眼差しをサクに投げた。
つづけて、弓臤は問うた。
「おまえが戦場に立つ理由は、なんだ?」
サクは、言葉に窮した。
サクが婦好の軍にいるのは、文字をおぼえた罪をつぐなうためである。
サクの様子に、弓臤は甘い言葉で惑わせた。
「もしおまえが戦場から降りるなら、おれが商王に、王の禁忌を知った罪を赦してもらうよう進言しよう」
「え?」
王からゆるしを受けたら、サクは婦好軍にいる意味はない。しかし、この男はなぜ、サクの問題に介入するのか。サクは警戒した。
「なぜ、そこまでして、わたしを排除したがるのですか」
「おまえが婦好に気に入られているのはわかった。しかし、戦いは遊びではない。ひとりの弱さが味方の大敗につながる。軍師という立場ならなおさらだ」
弓臤は一呼吸おいて、はっきりと言った。
「つまり、おれは、おまえを認めない」
弓臤の断言に、サクの胸のうちから、弓臤に対する反発心がめばえた。
──戦う理由は、まだ、よくわからない。けれど。
サクは左手で、右肩を掴んだ。婦好の手から伝わったぬくもりが、まだじんわりとサクの肌に残っていた。
サクはいちど、目を閉じた。
──自分を信じてくれた、婦好さまに報いたい。
「わたしは、戦います。そして」
弓臤の片側の目を見つめた。
「あなたに、勝ちます」
「ふん。おれが、負けるわけがない」
弓臤の片方だけの瞳が、奥底に暗さを秘めて瞬いた。
***
翌朝、婦好軍と沚馘軍は、それぞれ陣を組んだ。
サクの進言が通り、両軍の兵士が矛に布を巻いた。そして、布に動物の血を染み込ませる。
鎧の半分以上に血がついたら、退場することとなった。
両軍の旗が掲げられる。
相手の旗を損なったら、勝ちである。
サクの乗る婦好の馬車に、紅の旗がたなびく。
太陽を背にして、婦好の上衣が風にゆれた。
「婦好軍は十隊で構成される。一から九までの隊と、婦好隊。今回の訓練には一から七の隊が参加する」
婦好がサクと向き合った。
「わたしとサクで、兵を動かすのだ」
婦好の力強い声に、サクの鼓動は速まった。
──弓臤が指揮する、沚馘軍に、勝つ。
サクは、覚悟を決めた。
【古代中国の豆知識】
『婦好戦記』をお読みいただき、ありがとうございます。
『婦好戦記』では、文字のかたちの起源についてたびたび触れておりますが、すべて故・白川静先生の学説を採用しています。(参考文献はのちほど公開します)
第十話にでてくる羊の神判は、『法』となり現代に伝わっています。
大事な争いがあると、作中のように羊による神判をおこないます。負けた者は、殺されて水に流されます。このときの水が『氵』、負けた方の被告人と無効となった祝詞が『去』となって表されています。
さらに、敗訴したほうの羊は馬の皮で包み込んで川に流します。この風習は、のちの時代に孔子や伍子胥の説話につながるのですが、それはまた別のお話…。
『婦好戦記』では、これからも漢字の起源もからめてストーリーを綴ってゆきます。




