天蓋の道
好邑から少なくない月日をかけて、婁邑に辿り着く。
安陽からは遥か遠い地である。
馬車の轍に、土埃が舞う。
天から釣り下がるように山脈が並び、草原にはぽつぽつと、遊牧民の簡易住居があった。
山の尾根に点在する羊の群れは、まるで綿雲のようである。
婦好の旅には、サク、リツ、御者のラクと数名の武芸に秀でたものが付き添うばかりだ。
異なる民の間にあっても、サクは危険を厭わなくなってしまった。
婦好の膂力と人を虜にする力をもってすれば、どんな難が襲おうとも乗り越えられると思っている。
「楽観が過ぎるでしょうか」
サクの独り言に、リツが問う。
「どうしたサク」
「婦好さまの強さを想っておりました」
リツは、「なにをいまさら」と笑う。
婦好は風と戯れるように穏やかに微笑み、サクに問いかけた。
「サク、強さとはなにか」
「わかりやすいのは膂力です。本来人というものは己よりも弱い人には従わないものです。人を御すことのできる力はまず人を従わせる裏付けとして必要です。しかし、力を使わずとも強い場合があります。人を動かす力のあることです」
「サクはこれまでの旅路でどのように人を動かすと学んだか」
「他者の欲するところを判断し、己の与えられるものや欲するところと折り合いをつけることでしょうか」
「他者の欲するところを知るためにはどうするか」
「対話と観察が肝要です」
「己の与えられるもののうち、他者が欲するものとは」
「約束できる影響力。たとえば、動かせる人と物の数などです」
車上では決まって問答が繰り返される。
こういうときの婦好さまは恐ろしくもある。
「それで、対話と観察を踏まえ、サクはわたしに何を与えようとしているのか」
「お助けしているに過ぎません。この旅は、やがて大きな力となることでしょう」
サクははっきりと断言してみせた。
「巫女の予言か」
婦好が頭を傾けた。サクもまた不安でないわけではない。
無駄な時を過ごすことになるかもしれない。
山は馬車を見下ろし、北風がリツの黒髪を撫でた。
「それにしても、婦好さま、この地は来たことがありませんか」
そのように問うリツの耳に黒曜石が揺れる。
「いや。わたしの記憶にはないが」
「そうですか……いや、気のせいでしょう。このような土地は戦場によくある景色です」
婦好軍の戦いは商の力の及ぶ境界で行われるため、山々に囲まれた平地であることが多い。
リツと婦好の会話に、サクも交わる。
「この地は、わたしが婦好さまと出会った場所に似ている気がします」
「懐かしい。山脈の間でサクとであったのであったな」
サクは婦好の横顔を見た。
出会った頃の婦好は、危うさを持っていた。
それから数年の月日が経ち、主は悠然とした雰囲気を纏うようになった。
その美しさは変わらない。
気品と寛容さが増している。
──己もまた、無知なる乙女では居られなくなった。
遠くまできた、とサクは思う。
羊の群れが馬車の近くを通りすぎた。
羊飼いの女は婦好の耳飾りに、はっと肩をすくめた。
彼女は歓喜の叫びを上げ、異国の言葉を言いながら馬車に近づく。
「ごめんなさい。言葉はわからないのです」
己の言葉で堂々とすれば通ずることもある。サクは毅然として接した。
言葉の及ぶところは、王の影響の及ぶ広さと同じであることもまた理解している。
羊飼いは両手を握って跪いた。
その瞳には涙が溜まる。
婦好に会えたことを歓喜しているようだ。
婦好が優しく微笑んで老婆の肩に、ぽんと手を添える。
「そなたと会えたこと、嬉しく思う」
羊飼いの女は婦好の手を握りしめたのち、嬉しそうに去った。
「これはどういうことでしょう」
と、リツが不思議そうに言った。
サクは答えた。
「この地は商の支配の外にあります。婦好さまを認識しているわけではないでしょう。婦好さま自身を知らないとすれば、婦好さまと似ている方と勘違いをなさっていることが考えられます」
「そうかもしれない。いずれにせよ、我々は先を進むだけだ」
しばらくまた旅路をゆくと、約束の地にハツネが現れた。
「婦好さま、サクさま。お待ちしておりました」
「ハツネ。すこし痩せましたか」
「食事が合わないようです。しかしご心配には及びません」
「また無理をさせてしまいました」
サクが俯くと、ハツネはニコリと笑う。
「いえ。依頼は難しいほど楽しいものです」
案内されたのは移動式の簡易住居であった。
木材を簡単に組み合わせた柱に皮を張っている。
飾られた布は刺繍で色鮮やかだ。
一人の男が赤と白の絨毯に座して待っていた。
男のやや焼けた肌は、草原の日差しに由来する。
髭が腹部にまで届き、白髪が混じっている。
歳の頃は五十を過ぎたあたりにサクには見えた。
身に着けている衣服は羊毛の新しいもので、決して卑しい身分ではないことを物語る。
「お待ちしておりました」
男は床の上に手を置き、深々と頭を下げた。
商の最敬礼と同等である。
顔を上げ、婦好のもつ栗毛色の髪に薄茶色の瞳を見た瞬間。
その男は感嘆の息を漏らした。
「その髪の色。瞳の色。まさか、そんな……、ああ。本当にお会いできる日がくるとは」




