紅珊瑚の耳飾り
「リツよ。サクに余計なことを吹きこまなかったか」
婦好はサクとリツの対面に座った。
手には新しい酒を持っている。
「今と変わりませんという話をしたところです。特に熊の話をしていました」
「峠の主の話か。懐かしいな」
婦好の背から、従弟である子明が顔を覗かせた。
「そのとおりです! 婦好さまはむかしから強くお美しくて俺の憧れでした!」
サクは子明とは初対面のために挨拶をする。
「はじめまして、子明さま。わたくしはサクと申します」
「ややっ! サク殿。もちろん、存じております! 婦好さまの数々の戦を勝利に導いた巫女と伺っております。お目に書かれて光栄です!」
子明は漆黒の黒髪を頭巾で束ね、紅色の縞模様を着ている。
どこか姉の婦好さまに似ている、とサクは思い、微笑んだ。
「以後、よろしくお願いいたします」
「そのときの熊は大の男ほどの背丈で、本当におおきかったんですよ! その時は好邑もその話でもちきりでしたよ!」
子明は身振りで大きさを表現する。言動は幼いが、どこか憎めない男だ。
「まだまだ未熟な身だったから、死地にあったように思う。なかなかない心地であった。限界を超えた経験だ」
婦好の死。
これまでサクは何度も考えたことである。戦場では、参謀としての最悪の結末だ。
「死地とは、どのような感覚となるのでしょうか」
「そうだな。手足がしびれ、空と一体となるような。しかし、感覚は研ぎ澄まされて、己の限界を超える瞬間だ。ひさしくそのような感覚はない」
ほのかに顔を赤らめながら、酒杯に口をつける主人は色っぽくも、どこか少年のようだ。
「ふふ。故郷に帰ったのだ。ひさしぶりに狩りに出ようか」
「ぜひぜひ! 熊狩りの再開です! いまの婦好さまなら、一撃で倒せるでしょうとも!」
酔っぱらった子明がこぶしを突き出して声を上げる。
「ははは! 確かに。いまの膂力と鉞があれば、一撃で倒せるだろう」
「婦好さま。振り回される身にもなってください。もう一介の姫の立場ではないのですよ」と、リツが諫める。
宴の終わり、紅の衣を翻しながら、好邑の居城を歩いた。
サクは飲んだ酒のせいか、ふわふわとした心地でいる。
「神事として明日は狩りに出でる。今日は早く休もうか」
「すこし、のみすぎました」
「サク、わたしの部屋に案内しよう」
「婦好さまの?」
「子どものころからの部屋だ」
まるで迷宮のような薄暗い回廊を歩む。
通された婦好の部屋は簡素なものだった。
婦好軍の幕舎に近い。普段、軍で使っているものと同じように、白い綿でできた布は一級品である。
「子どもの頃を、わたしはここで過ごした」
サクは寝台に腰かけた。
「広い寝台ですね。お姉さまもご一緒されたことはあるのですか?」
「夜によく、語り合った。このように。天井の木目を見つめながら」
婦好はぽすり、とやわらかな寝具に横たわった。
主人の傍らで、サクはすべてを酒に責任を転じるつもりで問うた。
「恋人同士、だったのですか」
「まさか。姉だぞ」
炎に照らされた紅色の耳飾りが揺れる。
その輝きは出会った頃から色褪せることはない。まるで持ち主の美貌に寄り添うようである。
ふと、サクは耳飾りに文字を見つけた気がした。しかし、暗くてよく見えない。
もっと、知りたい、とサクは思うものの、問の時間は長くはなかった。
「明日は早い。さあ、寝よう」
婦好は蝋台に灯された光に、ふっと息を吹きかける。
神聖を帯びた横顔は、暗闇となってしまった。
◇◇◇
翌朝、狩りに出る。
その日は、熊や虎は現れなかった。兎と鳥を数頭射抜き、獲物とした。
婦好はゆったりと語る。
「住居の付近に猛獣の出でないことはいいことだ。邑がよく治まっている証だ」
帰り道、婦好は戦車の縁に身体を預けて休む。サクもまた倣った。
「婦好さま。耳飾りをよく見せていただけませんか」
揺れ動く戦車のなかで、サクは昨晩から気になっていた紋様の正体を探る。
婦好の耳元に近づいた。
装飾品は陽光に照らされて煌めく。
文字ではない、部族のしるしが書かれていた。
「これは紅珊瑚というものだそうだ。赤子のときからともにある」
「紅珊瑚……。綺麗ですね。このように紅い石を見たことがありません」
「どうかしたか?」
「描かれている紋様を、目に焼き付けております」
サクは婦好に告げる。
「わたしは知りたいのです。婦好さまの原点を」
死を同じくするかという問に、即答できなかった己を顧みた。
生きざまを刻む使命を、サクは胸に秘めていた。




