幼馴染の言
好邑は安陽の北西に位置する。
婦好軍は数日をかけて移動し、サクの目はやっと好邑をとらえた。
戦闘中と聞いていた好邑は静かである。
かつて戦をしていた沚馘や望邑とは比べ物にならない。
「婦好さま、敵の姿がありません」
「戦いは終わっているかもしれない。よい、そのまま邑に入るぞ」
婦好が戦車の上で冷静に判断する。
事前の情報では戦闘中とのことだったが、情報は距離とともに時間差が生ずる。戦況は変わることのほうが常である。
好邑に到着すると、精悍な若者がひとり跳躍するように婦好を出迎えた。
「婦好さま!」
「子明か」
「やーーー! おひさしゅうございます! 相変わらずお美しい!」
「元気だったか。敵の襲来を受けたと聞いたが」
「ややっ。心配していただいたのでしょうか。心配ありませんっ! すでに撃退しました!」
「大義だった」
子明と呼ばれた若者は顔を赤らめて深く礼をする。
「さあさあ、ちょうど戦勝の宴の準備をしておりますれば!」
「まあ、いい機会だ。ゆるりとしよう」
婦好の帰還には、盛大な歓迎を受けた。
サクは好邑を見渡した。
豊かな土地である。水と草木が潤う。
北の乾いた土地ではなく、南の湿った気でもない。
栄えている、とサクは思った。
異国の、芳醇な香りがする。婦好の香の由来を知る。
この邑で婦好さまは育ったのだと、サクも納得する風土がある。
サクは好邑の兵士の顔ぶれを観察する。
かつて大邑商の援軍などを見たが、あまりかわるところはない。商の服装が白色と黒色に対して、好邑は紅色が多いだけである。
「意外と、男性が多いのですね」
「サク。サクはわたしの故郷を、女だけが生まれる邑とでも思っていたか」
「婦好軍が女性だけでしたので……」
「あははは。無理もない。婦好軍に女性を配しているために、男どもに邑を守らせているのだ」
「そうだったのですね」
「はじめは婦好軍も男女が混じっていたのだが、なにかと都合が悪くてな。王都からの遠征は女、近隣の守備は男と、役割を分けたのだ」
夕刻に宴が執り行われた。
材料は質素ながらも調理法が豊かである。
婦好軍の兵士もどこか楽しそうだ。
サクにとっては知らない土地のはずなのに、『帰ってきた』という感覚が伝わり、なぜか安心する。
サクも酒を飲んだ。決して強くはないことを知っているから、控え目に飲むことを覚えている。
宴の最中、サクは婦好とリツに問う。
「おふたりは、ここでどのような子供時代を過ごされたのですか?」
「サクには、どこまで話したか」
「おふたりは幼馴染で、婦好さまが微王に求婚された話はお伺いしました」
「サク。好邑に到着した良い機会だ、と言いたいところだが……」
子明が遠くで婦好を呼ぶ声がする。
「少し子明と話をする必要がありそうだ」
リツが提案する。
「それでは、わたしから話してもよろしいですか、婦好さま」
「ああ。リツよ、頼む」
そう言って婦好は席を立った。
「さあ、サクよ。なにから話そうか。ひさしぶりの故郷は心地が良いものだ」
「せっかくの故郷の夜に質問などをしてしまいましたが、リツさまはよろしいのでしょうか」
「問題ない。わたしの親類や友人はほとんど死した」
「それは……、申し訳ありません」
「よいのだ。わたしも話したい気分だったから。さあ。サクも酒は飲めるか。婦好さまはこの野山で育ったのだ」
リツは濁り酒を飲み始めながら、語った。
「婦好さまは、先代の好邑領主の娘だ。それは、サクも知っているな」
「ええ」
「先代は五年前に病死した。いまの好邑領主は実質的に、ふたりの婦好さまだ。王都での政治を姉の婦好さま、軍務を婦好さまが担っている」
「いま、好邑を守るのは先ほどの子明さまと言う方でしょうか」
「ああ。子明は、婦好さまの義理の従弟に当たる」
「姉の婦好さまは、正妃の娘だった。我々の婦好さまは、先代の領主が戦の帰りに連れてきた子だ。輝く髪、薄茶色の瞳。まるで太陽のような赤子だったという。母の姿はなかったが、先代の娘であることを誰も疑うものはいなかった。先代とそっくりだったから」
「それでは、婦好さまの母上のことを、好邑のみなさまはご存知ではないということでしょうか」
サクの問に、リツは頷く。
サクは赤子だった婦好を想像した。
きっと輝くような子どもだったのだろう。
「わたしの母は、婦好さまの乳母となった。わたしも幼いながら、赤子の頃の婦好さまの美しさには驚いたものだ。以来、わたしと婦好さまはまるで姉妹のように過ごした」
「赤子の頃の婦好さまを知っているということは……、リツさまのほうが年上だったのですね」とサクは驚いた。
「そうだ。サクよ。知らなかったか。なにも驚くことはあるまい」
リツは続ける。
「婦好さまの子ども時代は、とにかく野山を駆けていた。驚異的な運動能力だったように思う。六を過ぎたことから、暇さえあれば獣を狩りへ行った。婦好さまは生まれながらにして太陽のような性格であった。そしてどこか、いつも遠くを見つめていた」
「いまと、あまり変わっておりませんね」
とサクはくすりと笑うと、
「それもそうだ」とリツも微笑んだ。
サクは座してリツの話をじっと聞く。
サクの知らない婦好の過去を知るのは不思議な心地だ。
「婦好さまの転機は、八か九の頃だっただろうか。突然、わたしの母が倒れた。婦好さまは医者を呼ぶために夜の峠を馬車で駆けた」
「夜の峠を」
「そのとき、婦好さまは熊と対峙して死にかけた」
「えっ」
「婦好さまは血だらけで帰ってきた。熊の骸と医者を背負って」
「どのくらいの大きさの熊だったのでしょう」
「大の大人と同じくらいはあったはずだ。熊の毛皮を、いまでも羽織っているだろう?」
「はい、いつもの紅の衣についております」
「あれはそのときの獲物だ」
見慣れた服装に、そのような過去があったのかと改めて発見する。
サクにはまだまだ知らないことは多い。
「リツさまのお母様は」
「それから数日後に死んだよ」
「傷を負った婦好さまは、姉から献身的な看病を受けた。その頃からだ。婦好さまの天と神に対する信仰のはじまりは。儀礼的なものに傾倒するようになった。姉への異常なる執着もそこからだ」
リツは、ふう、とため息をつく。
吐息の先で炎が揺らめく。炎はいつでも心を映すようである。
「そうだ。あの頃のあのお方は、ちょうど出会った頃のサクにそっくりだ」
「婦好さまの、お姉さま……」
「まっすぐな黒髪にすべてを映す大きな瞳。婦好さまはあの頃のあのお方をサクのなかに見つけているのかもしれない」
婦好がサクの姿を通じて姉を見ていることを、サクは以前より気づいていた。
婦好の姉に対しては羨むような、諦めのような気持ちもある。
そしてリツのやり場のない嫉妬心もまた知っている。
複雑な感情の絡まりが自身にあることを、サクは認めざるを得なかった。




