救うもの賭けるもの
沚馘軍は、弓臤の来訪から三日後に北の邑へ駐屯した。
サクは二日間、第九隊としての任務にあたっていた。
第九隊は戦いのときには防衛を司る部隊である。
ゆえに、沚馘軍との訓練には参加しない。
他の隊が高揚するなか、第九隊だけは、まるで戦いなど無縁のように日々が過ぎさっていた。
演習の前日の朝、第九隊隊長のセキがサクへ言った。
「サク。婦好さまは第九隊のなかでサクだけを沚馘軍との訓練に参加させよと仰せだ。そして、今日からは婦好隊のひとりとして、婦好さまの馬車に乗れとのことだ。なんでも、サクに作戦を考える役を与えると言っていた」
ついにきたか、とサクは手に汗をにじませた。
「婦好さまはあいかわらず、無茶をいう。でも、あたしもあんたを信じてるよ、サク! あんたは弱い。けど、発想力と実行力がある。そして、なかなか肝がすわっている。頑張るんだよ!」
「ありがとうございます、セキさま」
サクに軍略の師はいない。
サクの父がときどき独り言のように語っていた兵術。その記憶だけが頼りだ。
しかしサクは、婦好が寄せてくれる期待にはこたえよう、と覚悟を決めた。
セキと話を終えたサクは、シュウに訓練に参加することを打ちあけた。シュウは、朝食のための鶏肉と山菜をくつくつと煮詰めている。
「あら、サクちゃんも訓練に参加するの? あらあら。沚馘軍との演習は、怪我による死者が多いから、心配だわ」
「怪我による死者?」
「訓練に限ったことではないけど、軽傷だと思っていた兵士が、数日後に息が荒くなって死んでしまうことがあるの」
「軽傷でも?」
「ええ。弓なりにのけぞって、苦しんで死ぬの。みんなは、相手の神の呪いだと言うけれど。サクちゃんも、気をつけてね」
シュウのあつかう大きな陶器から湯気がたちこめる。陶器のなかで、なんどもまわる緑色を、サクはぼんやりと目で追いかけた。
「そうなってしまう共通点はありますか」
「そうねえ、息が荒げて死ぬひとは、相手の武器によって傷を受けていることが多いかしら」
「傷」
傷口から悪い気が入り、数日後に獣のようになり死にいたる病を、サクも聞いたことがあった。
「傷をふせぐにはどうしたらよいでしょう」
「難しい質問だわ。武器を使わないことかしら。そんなこと、無理だけど」
シュウは陶器のなかに塩を加えて味見をしていた。
サクは思案した。
なんとかして、武器を使わない訓練はできないものだろうか、と。
そのとき、婦好の馬車が第九隊に現れた。
紅の婦好旗が馬車の後部で、炎がゆらめくようにはためく。
「サク!」
婦好の凜とした声が第九隊に響きわたる。
ひさしぶりにみる婦好は、サクの目には眩しい。
婦好は、つねに太陽の光を背負っているようにサクは感じた。
「シュウよ、サクを借りていくぞ」
シュウの近くで思考していたサクは、婦好によって、またたくまに攫われた。
「いってらっしゃいませ」
シュウの声が馬車の車輪の音に、かき消された。
サクはまるで猫の子どものように婦好に持ち上げられ、婦好の馬車に乗せられた。
サクは、馭者をしていたリツと目が合い、会釈した。
「サク。沚馘軍を出迎えにゆこう」
婦好が楽しそうに言った。
***
婦好の馬車が悠々と北の門をでた。
黄色い砂土のうえで、沚馘軍百余人が婦好陣営を目指していた。
いちばん先頭を歩く兵士が、矛の先に人の首をぶらさげてあるいている。
沚馘軍の進軍をぼんやりと眺めるサクは、道という字を想った。
道という文字は、人首を携えて路をゆく形である。
異族の首をもって、異族の呪いを祓う、まじないの術である。
沚馘軍は、婦好陣営の領域を侵さない距離で進軍をやめた。そして、高い統率力で素早く陣をつくりあげた。
沚馘軍の中央から、一台の馬車だけが婦好の馬車に接近した。
もっとも煌びやかに装飾している馬車に、初老の男と弓臤が乗っていた。
「やあやあ、沚馘どの。よくお越しくださった!」
婦好が馬車をひらりと跨ぐと、沚馘と呼ばれた初老の男も馬車を降りた。
婦好は沚馘の手をとった。
沚馘は婦好よりも身長が低く、白髪と黒髪が混ざった髪を冠でまとめている。沚馘はやわらかな表情だが、そのたたずまいはどこか、狡猾さがにじみでていた。
沚馘は婦好の鍛えあげられた腕を手のひらで包んだ。
「ほぁっはっは! 婦好さまも元気そうでなにより。ははあ、また、たくましゅうなられた」
「毎日鍛えておるのでな。沚馘どのの若い頃にもひけをとらぬつもりだ」
「ほぁっはっは! 好邑の姫君は血気さかんで、こわいこわい。しかし、たのもしい」
「わたしを姫と呼ぶなど、もう沚馘どのくらいなものだ」
「ほぁっはっは! もう誰も、婦好さまを淑女とおもっておるものはおらぬ。大邑商の英傑だ。すっかり立派になられた」
「母の胎内に大事なものを置いてきたと、よく言われる」
「ほぁっはっは! そのとおり! ほぁっはっは!」
婦好の冗談に、沚馘の高笑いが続いた。
「さて、沚馘どの。鬼方と土方が結託して攻めてくるとのことだが」
「なあに、相手は烏合の集。鍛錬あるのみですな。さてさて、明日は実戦での訓練といたしましょうや、ほぁっはっは!」
──実戦。
提言するなら、今しかない、とサクは感じた。サクはおそれる心をふりはらって、声をあげた。
「あの! 大変おそれながら、もうしあげたいことが、あります」
「どうした、サク」
婦好が馬車に乗っているサクのほうをみた。サクは、あわてて馬車からおりて、跪いた。
「今回の訓練ですが、武器を使わずにおこなうのはいかがでしょうか」
渾身の力を言葉にこめて、サクは進言した。
「サク、どういう意味だ」
婦好が、サクを見つめた。
対して、サクはできる限りはっきりと言葉をえらんだ。
「前回の訓練では、十数名の死者がでたとお聞きしました。いたずらに兵を犠牲にするのは、得策ではありません」
サクは、婦好の馬車から、矛と白い布を取りだした。
「今回は布を巻いた武器で、訓練を行ってはいかがでしょうか。こう、矛の先に布を巻き、動物の血のつけます。布の矛で戦い、鎧に動物の血がついた兵は、負傷したとみなして、退場するのです」
サクはつづけて、馬車のうしろで風にゆれる婦好旗を指さした。
「そして勝敗は、相手の旗を取るか、破るか、で決めます。つまり、相手の旗を損なったほうが勝ちです」
サクの提案に対して、弓臤が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なんだ、その児戯は。子どもではないのだぞ。ふざけるな」
「沚馘どの」
婦好は、弓臤を制した。
そして、まっすぐと沚馘を見つめた。
「わが軍のおんなは、みな巫女です。つまり、神の言葉を発することができます。いまの言葉、こどものようにきこえはするが、天の意思かもしれない。羊神判をおこない、あらためて神に問うのはいかがか」
婦好が、堂々と言い放った。
サクには、それがとても頼もしかった。
沚馘も、婦好の口上を柔らかな瞳でみつめて言った。
「ほぁっはっは。それはおもしろい。余興余興。訓練はどのみち明日。羊神判をおこなってから、訓練とするのは悪くない。どうだ、弓臤」
弓臤は爪を噛んだ。
「沚馘どのは甘すぎる。では、婦好よ。神の言葉と言うならば、賭けてもらおう」
「弓臤は、わたしになにを賭けよ、と申すか」
婦好が首をすこしかしげた。
弓臤が言った。
「この娘の、命だ」
弓臤は、サクが持っていた矛を奪い、サクの首元に突きつけた。
そして、片方だけの目で、まっすぐと、サクの瞳を刺した。
「神の信託を受ける乙女ならば、かならず生きのこるであろう。神の信託を誤る乙女ならば、かならず殺さねばならない」
婦好は静かに笑った。そして、
「いいだろう」
と受諾した。
サクはうまく息ができなかった。
サクの進言は、サクの命のうえに、賭けることをゆるされた。




