黒き血潮(下)
虎封の剣は婦好の胸の防具を打った。
銅製の防具が、ばきり、と割れる。
「虎封よ。商の技術は、虎方と同じではない」
虎封は手応えを確かに感じた。
しかし婦好の皮膚に届く前に虎封の剣が砕ける。
懐に入った虎封に、婦好は巨大な鉞を落とす。
どう、と肉を裂く音が鳴った。
婦好は虎封の耳許でささやきながら、ぎりぎりと力を加える。
「力はそなたのほうが強いかもしれない。経験も、互角だろう。では何が勝敗を分けたか」
虎封の身体から血が噴き出て、二つに割れた。
「虎封。そなたを商の神の贄に」
総大将の大きな体躯がどさりと倒れ、血の泉が溢れた。
虎方最強の男を滅ぼし、戦場の絶対的な支配者となった婦好は、捕虜に意識を移した。
「虎譚はどこだ」
虎譚は一度気絶したのち、部下にかかえられて逃げ出していた。
「捕縛されている味方を探せ! わたしは天に血を捧げよう」
婦好はまるでやり場のない怒りを封じるかのように、逃げ惑う敵を殺し続けた。
「婦好さま、おやめください。戦はもう、収まったのです」
リツの叫びは、婦好の耳に届かなかい。
黄金の鉞は、無邪気に命を狩り続けた。
サクが戦場に到着したのはそんなときであった。
「リツさま!」
サクの戦車は、戦場の端に居たリツの馬車に近寄る。
「サク! 生きてたのか」
死したと敵から聞いていた軍師がひょっこりと現れ、リツは安堵する。
「無事でよかった。サク。婦好さまを止められるのは、もはやサクしか居ない」
「どういうことでしょう」
「サクとセキが死んだと言われ、怒りで敵を殺し続けているんだ。こんなこと、いままでになかった」
「……!」
「婦好さまのもとへ、急げ!」
サクは婦好の姿を探した。
婦好の紅色の衣。
いつもなら、草原に咲く1輪の花のようであるその服の色は、いまは足元にひしめく敵の骸の色と同じである。
サクの戦車は逃げ惑う敵の流れに逆らうようにして進む。
婦好は朱で満たされた戦場に佇んでいた。
その影に、サクは『伐』という文字を想った。
『伐』は戈をもって人を斬るかたちである。
──否。もう一つの文字がサクの脳裏に浮かんだ。
『殲』である。
『殲』は、複数人を斬るかたちである。
サクはひゅっと息をのむと、膝が無意識に震えた。
これ以上ない、殺戮。
──怖い。
しかし、一歩を踏み出さねばならない。
サクが婦好と目指しているのは、『武』であるのだから。
『武』とは、『戈』を止める『足』のかたちである。
サクは婦好の『戈』に対しては『足』になると、決意していた。
「婦好さま……!」
意を決したサクは戦車を降りて婦好に近づく。
「いいのです。もう、戦は終わったのです」
サクは婦好を背中から抱きしめる。細い腰を包む革製の防具は、血に塗れていた。
「サク、か」
「はい……、わたしはここに居ります」
サクが目を合わせると、婦好は心身が一瞬で凍りつくような冷たい瞳をしていた。
サクは初めてぞくり、と言いようのない恐怖を感じた。
「セキは、どうした?」
「わかりません。わたしもセキさまを追って、ここまで来ました」
よく見ると、婦好は左腕に傷を負っている。
「婦好さま。怪我をしております」
怪我に構うことなく、婦好は両腕でサクを強く抱き締めた。
「サクの香りだ」
サクの身体は震えた。いつもであれば喜びがまさっていただろう。しかしそのときは。
──華の香りがしない。血と肉の匂い。
恐怖。畏怖。
この場の生死の簒奪権は、この美しい女性が握っている。
圧倒的な強者と弱者の差を見せつけられ、本能的に逃れたいと願った。
それでも、逃げようとする心を抑えるように、サクは主人の背に手をまわして強く抱きしめた。
「婦好、さま……」
婦好はサクの髪に顔を埋めて、深く呼吸をした。
「取り乱すとは。わたしもまだまだ、だ」
総大将を討ち取るという勝利である。しかし。
──戦争の落とし所としては、どうか。
おそらく恨みを買うであろう。
否。悪として伝説となるかもしれない。
敵方に禍根の残る殺戮。
味方でさえ青ざめるほどの──。
このような、暴力。
正義であるはずがない。
どこで間違ってしまったのか。
しかしサクはその言葉を飲み込んだ。
おそらく、主人が一番わかっていることだ。
この場でサクが発するべき台詞を、やっと絞り出した。
「……婦好さまが、ご無事でなによりです」
それは本心であり、本心ではない。
己だけ、味方だけ、助かれば良いのか。
サクは防具を失った柔らかな胸に顔を埋めた。
サクの髪に、頬に、黒い体液がどろりとつく。
誰の血か、何名の血かわからない。
虎方の征討という目的は果たした。
敵はしばらくは再起できないだろう。
婦好軍の圧倒的な勝利である。
しかし本当の勝利と呼べるのか。
サクはその光景を、決して後世に残したくないと願った。




