表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
108/164

黒き血潮(下)

 虎封の剣は婦好の胸の防具を打った。

 銅製の防具が、ばきり、と割れる。


「虎封よ。商の技術は、虎方と同じではない」


 虎封は手応えを確かに感じた。


 しかし婦好の皮膚に届く前に虎封の剣が砕ける。


 懐に入った虎封に、婦好は巨大な鉞を落とす。


 どう、と肉を裂く音が鳴った。


 婦好は虎封の耳許でささやきながら、ぎりぎりと力を加える。


「力はそなたのほうが強いかもしれない。経験も、互角だろう。では何が勝敗を分けたか」


 虎封の身体から血が噴き出て、二つに割れた。


「虎封。そなたを商の神の贄に」


 総大将の大きな体躯がどさりと倒れ、血の泉が溢れた。




 虎方最強の男を滅ぼし、戦場の絶対的な支配者となった婦好は、捕虜に意識を移した。


「虎譚はどこだ」

 虎譚は一度気絶したのち、部下にかかえられて逃げ出していた。


「捕縛されている味方を探せ! わたしは天に血を捧げよう」


 婦好はまるでやり場のない怒りを封じるかのように、逃げ惑う敵を殺し続けた。


「婦好さま、おやめください。戦はもう、収まったのです」


 リツの叫びは、婦好の耳に届かなかい。

 黄金の鉞は、無邪気に命を狩り続けた。



 サクが戦場に到着したのはそんなときであった。


「リツさま!」

 サクの戦車は、戦場の端に居たリツの馬車に近寄る。


「サク! 生きてたのか」

 死したと敵から聞いていた軍師がひょっこりと現れ、リツは安堵する。


「無事でよかった。サク。婦好さまを止められるのは、もはやサクしか居ない」

「どういうことでしょう」


「サクとセキが死んだと言われ、怒りで敵を殺し続けているんだ。こんなこと、いままでになかった」

「……!」


「婦好さまのもとへ、急げ!」





 サクは婦好の姿を探した。

 婦好の紅色の衣。


 いつもなら、草原に咲く1輪の花のようであるその服の色は、いまは足元にひしめく敵の骸の色と同じである。


 サクの戦車は逃げ惑う敵の流れに逆らうようにして進む。


 婦好は朱で満たされた戦場に佇んでいた。



 その影に、サクは『伐』という文字を想った。


挿絵(By みてみん)


 『伐』は戈をもって人を斬るかたちである。


 ──否。もう一つの文字がサクの脳裏に浮かんだ。

 『殲』である。


挿絵(By みてみん)


 『殲』は、複数人を斬るかたちである。



 サクはひゅっと息をのむと、膝が無意識に震えた。

 これ以上ない、殺戮。


 ──怖い。

 しかし、一歩を踏み出さねばならない。

 サクが婦好と目指しているのは、『武』であるのだから。


挿絵(By みてみん)


 『武』とは、『戈』を止める『足』のかたちである。


 サクは婦好の『戈』に対しては『足』になると、決意していた。



「婦好さま……!」

 意を決したサクは戦車を降りて婦好に近づく。


「いいのです。もう、戦は終わったのです」


 サクは婦好を背中から抱きしめる。細い腰を包む革製の防具は、血に塗れていた。


「サク、か」

「はい……、わたしはここに居ります」


 サクが目を合わせると、婦好は心身が一瞬で凍りつくような冷たい瞳をしていた。

 サクは初めてぞくり、と言いようのない恐怖を感じた。


「セキは、どうした?」

「わかりません。わたしもセキさまを追って、ここまで来ました」


 よく見ると、婦好は左腕に傷を負っている。

「婦好さま。怪我をしております」


 怪我に構うことなく、婦好は両腕でサクを強く抱き締めた。


「サクの香りだ」


 サクの身体は震えた。いつもであれば喜びがまさっていただろう。しかしそのときは。


 ──華の香りがしない。血と肉の匂い。


 恐怖。畏怖。

 この場の生死の簒奪権は、この美しい女性が握っている。

 圧倒的な強者と弱者の差を見せつけられ、本能的に逃れたいと願った。


 それでも、逃げようとする心を抑えるように、サクは主人の背に手をまわして強く抱きしめた。


「婦好、さま……」


 婦好はサクの髪に顔を埋めて、深く呼吸をした。


「取り乱すとは。わたしもまだまだ、だ」



 総大将を討ち取るという勝利である。しかし。


 ──戦争の落とし所としては、どうか。

 おそらく恨みを買うであろう。

 否。悪として伝説となるかもしれない。


 敵方に禍根の残る殺戮。

 味方でさえ青ざめるほどの──。


 このような、暴力。

 正義であるはずがない。

 どこで間違ってしまったのか。


 しかしサクはその言葉を飲み込んだ。

 おそらく、主人が一番わかっていることだ。


 この場でサクが発するべき台詞を、やっと絞り出した。


「……婦好さまが、ご無事でなによりです」


 それは本心であり、本心ではない。

 己だけ、味方だけ、助かれば良いのか。


 サクは防具を失った柔らかな胸に顔を埋めた。


 サクの髪に、頬に、黒い体液がどろりとつく。

 誰の血か、何名の血かわからない。


 虎方の征討という目的は果たした。

 敵はしばらくは再起できないだろう。

 婦好軍の圧倒的な勝利である。


 しかし本当の勝利と呼べるのか。



 サクはその光景を、決して後世に残したくないと願った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ