黒き血潮(上)
「セキを、サクを、死後に辱めたというのか」
戦場の気が変化する。
夏だというのに、冷たい風が吹くようであった。
紅の衣が翻る。
婦好は戦車の縁に片足をかけ、黄金色に光る人面の鉞を右手に握りしめた。
天に三度円を描く。
「天よ。この鉞に刻まれた首を祀ろう」
先の戦で作られた銅製の鉞は婦好の手に良くなじんだ。
太陽を反射する武器には、人間の禍々しい笑みが飾られている。
「駆けるぞ」
婦好が馬の背を鞭で叩く。
足元で銅の武器が擦れ、がらら、という音をたてた。
馬の速さは、敵にとっては脅威であった。
山と川の多い南方に戦車という文化はほとんどない。
ゆえに、前方から迫る未知の塊に対しては恐れ慄いた。
虎譚を守る兵の身体が、次々と飛ぶ。
婦好は武器の重さと戦車の速さを用いて、複数人の骨ごと断った。
誰のものかわからない首が、腕が、臓器が宙に舞う。
「婦好さま……!」
味方ですらその姿に戦慄するほど、まさに鬼神のようであった。
いつの間にか婦好は虎譚の眼前に移動していた。
「愚かですねぇ、大将自ら敵本陣に突入して来るなんて」
「虎譚よ。頼みの援軍なら来ることはないぞ。どうやら影の戦も、我々が勝ったようだ」
虎譚の片眉が上がる。
「なんのことでしょうか」
「わたしの部下は優秀でな。この地が激戦となることも予測していた。ここは比較的平地。我が参謀はそこまで読んでいたようだ。おかげで馬の力を発揮できる」
婦好は続けて、虎譚に問う。
「その参謀の、遺骸を辱めた、とはどういうことか?」
婦好は笑みを浮かべながら、虎譚の部下を左手に掴み、首を落とし、
「このように行うことか?」
と挑発した。
虎譚も負けまいと、
「ふふ。そうですよ。それよりもっと惨いことです。教えてさしあげ」
言い終わらないうちに、婦好は鉞で虎譚の左肩を抉った。
「すまないが、手加減できそうにない」
「……! 首を残していただけるのは、ありがたいですよ。彼女の最後を語らせていただけるのですから」
「そなたは殺さずにおく」と淡々と述べた後に、鉞の背面で虎譚の身体を叩いた。
虎譚の意識ががくん、と落ちる。
婦好は単騎、敵の総大将まで迫った。
後方でリツの諫める声が響くが、全く届かない。
「我が名は婦好。将軍虎封、とお見受けする」
黒衣を纏い、仮面を被った虎封が、ゆらり、と立ち上がる。
その時点で、婦好の紅の衣は血を浴びて褐色となっていた。
緑色の平原を舞台に、それぞれが別色の黒衣を纏う。
「愚カダ、ナ」
「この場に居るものは皆、神の供物となってもらおうか」
「ソレハオマエダ」
婦好の鉞と虎封の剣が交わる。
重たい音が天に響いた。
その一撃は、お互いが岩を穿つほどの威力である。
虎封の膂力は婦好を上回った。
一度武器を合わせたことで、婦好自身も悟る。
「ははっ! これほどの相手と手を合わせたのはいつ以来だろうか。女は男よりも弱いという忌々しい呪いを今ここで断ち切ろう!」
婦好は、戦車を一度旋回させた。
馬車の勢いと速さで渾身の攻撃を放つ。
「ムゥ……!」
婦好の振るった銅の武器は、虎封の剣と仮面を割る。
すかさず、虎封は大きな二本目の剣を引き、婦好を襲った。
婦好の紅の衣が、ざくり、と音を立てて斬られた。
「ほう」
次は外さぬ、と虎封は自らの邑の言葉で呟いた。
重さのある攻撃が次々と婦好を襲った。
攻めているようで、危うい。
婦好の側近のリツでさえ、婦好の命が一瞬で失われる可能性があることを案じる。
「婦好さま! お待ちください!」
とリツが悲痛な声で叫ぶ。
「リツよ。虎方随一の将軍と相対しているのだ! これほど楽しいことなどはない!」
リツの背から汗が流れた。
『もはや婦好さまを止められるものはいない』
その場に居る婦好軍の誰もがそのように思った。
まるで遊ぶかのように、お互いの総大将は武器を交えた。
婦好は虎封の刃を巨大な鉞で受け続ける。
ある瞬間、虎封の剣がキン、と高い音を立てた。
「確かに、そなたの膂力は強い。しかし、剣にそのような負担をかければ、刃も脆くなろう」
婦好は、す、と防備を解き、虎封に隙をみせた。
「婦好さま!」婦好の危機に、リツが叫ぶ。
「婦好、死ネ!」




