こころ
セキは戦車を駆り、門を出でた。
「きましたねぇ、鼠が」
虎譚は笑みを浮かべた。
虎譚が右手を挙げると、人質に対する悪虐が止む。
「あたしは第九隊隊長のセキ。さあ、取引だよ!」
「ふふ。いまさらなにと取引するというのでしょう」
「あたしはこの城の責任者さ。もとより狙いはあたしのような者だろう?」
「あははは! 実に愚かですね、セキさん。われわれにもあなたの情報は入っていました。そうです、われらはあなたを待っていた」
「それはよかった」
「子らの命などこれ以上、使い道はありません。あなたに免じて、望みのとおり、解放してあげましょう」
人質が磔から降ろされる。
セキは指の爪をはがされた子たちをに乗せた。行きは一人のみであった戦車に、九名の小さな身体が収まる。
セキは二頭の馬の頬を撫でて「頼んだよ」と囁いた。
「さあ、子どもたちよ! その馬は帰り道を知っているから、行きな!」
セキが馬の背を叩くと、子を乗せた二頭は城へ還る。
「ふふ。第九隊隊長のセキさん。馬車もなく丸腰ですね。その命、奪ってさしあげましょう」
「そうさ。どうせあんたたちに殺されるんだ。最期に話そうか」
セキは懐から、瓜をひとつ虎譚へ放り投げる。
「毒なんて入ってないよ」
そしてその場にどかりと座り、瓜をむしゃ、と食べ始めた。
「あたしゃ、あんたに聞きたかったんだよ。商の言葉が上手だけど、もしかして望邑の出身だったりしないかい?」
「ふふふ。そうです。わたしはここの邑の出身です。先の戦の孤児でした。虎方に拾われてからは、つらいことばかりでしたねぇ」
「良い大人に出会えなかったんだね。察するよ」
「望邑はわたしを見捨てた。望邑に味方するあなたがたが憎くてしょうがないのですよ」
セキは両手を広げて、満面の笑みを浮かべた。
「大丈夫さ。いまからでも遅くはない。帰ってくる気はないかい?」
「なにをおっしゃいますか?」
虎譚は怒気を含む。
「この胸に抱いてやるから、帰っておいでって言ってるのさ」
「わたしはそうした偽善者が大嫌いなのです」
「あたしなら、婦好さまなら、受け入れられるよ! あんたのような者もね」
「黙りなさい!」
虎譚は激昂して、部下に弓射を命じた。
セキが地中に埋められた縄を足先で引っ張り上げると、木の板が出現する。
矢は板に刺さり、セキを守った。
「これでも、城の責任者。第九隊隊長さ!」
◇◇◇
サクの部下が、セキが単騎で人質を助けに出たことを報告する。
「セキさまが……!」
サクはレイを呼び寄せた。
「レイさま! 急ぎ、セキさまのもとへ駆けつけます!」
サクが暗殺者に狙われたくらいである。
セキが標的となるのも想定できた。
婦好とセキ。
婦好軍の太陽と満月のようであり、婦好軍はふたりがいないと成り立たない。
サクはその大きな存在に憧れたのだった。
『心』
これを損なえば、人間の機能は停止する。
心の文字は、心臓の形である。
そして、婦好軍の心臓は――。
「セキさま……! 間に合って……!」
サクは遠くに婦好の旗を見つけた。
「婦好さま……!」
敵への包囲網の完成は近い。
「城よ、天よ! セキさまを守って!」
サクは祈った。
◇◇◇
望白は部下の制止を振り切り、馬車を出した。
冷静なる望白の理性はその歩を止めようとする。なにをこんなに焦っているのだろうか、と。命の駆け引きなど、戦では日常のことであると。
しかし、身体が動いてしまう。理屈ではない。
救えるのは、自分だけだ、と彼女は思う。
望邑の長子たる人生において、このようなことは初めてだと望白は振り返る。
「だからといってなにか不都合はありますか? 僕は変わりそうです。その理由だけで、十分です」
と、呟いた。
望白は最前線に駆けつける。
セキはひとり戦っていた。
セキは攻防のための装置を駆使して、防壁や柵を次々と繰り出した。
しかし一方的な防戦。
追い詰められるのは、時間の問題であった。
望白の戦車は矢を受けながら、セキの隣へ旋回する。
「セキさん!」
望白はセキへ木製の盾を投げる。
「盾を受け取ってください!」
「望白! どうして来たんだい?」
「帰りますよ! 当たり前じゃないですか」
望白は右手を差し出した。セキはその手を握る。
「わかった、一緒に帰ろう!」
望白はセキの身を引きあげて、戦車に乗せた。
「あたしは後ろを守るから、望白! 決して振り向くんじゃないよ!」
望白は降りしきる鏃の中、戦車を走らせた。
ふいに、望白の背に、重い音が響く。
「……望白、城に帰る間、ちょっと話そうか。婦好軍の子たちのことだよ」
戦車の上でセキは語り出した。
「セキさん」
「馭者は前を向きな。馬が迷っちまう」
望白はセキに言われるがまま、馬を御す。
「望白、助けに来てくれて感謝するよ。お礼にあんただけに教えてあげるよ」
「あたしの部下のことだ。シュウはさ、婦好さまの、大邑商の切り札、さ。我慢強い子なんだ。人一倍抱えるものが大きい」
「サク。サクはこれからも苦労するだろうね。でも、覚えていてほしい。神となった婦好さまを人間に戻せるのは、サクしかいないよ」
「なにを……」
望白が後ろを振り返ろうとすると、セキが叱咤する。
「見るな! 望白!」
望白は察した。
望白は前を見続けながら、夢中で言葉を発した。まるで、そうしなければならないと命じられるかのように。
「セキさん。この戦が終わったら、この邑に、城に、民に、新たな名を付けましょう。僕の力でそうさせてみせます」
望白の世界からなぜか、色が消えゆくような気がした。
一方で自分だけは希望を失ってはいけないとも感じ、ぐっとこらえる。
「『石の民』と……」
砂塵が目に入ったからだろうか。
どうしても瞳に涙が溢れた。
「セキの……ふふ。婦好さまと得た場所に、名前を、」
セキの呼吸が荒くなる。
「婦好さまは、あたしに、生きる意味を与えてくれた。嬉しいねぇ」
「これからですよ、僕らの城は」
「望白、あんたは本当は素直な子だ。でもそのひねくれたところも、……あたしゃ、好きだっ……た……」
「ぼくを、子ども扱いしないでください、セキさん」
望白がたまらずに振り返ると、セキの肩に、否、全身に矢が刺さっていた。
胸に一本の矢が立つ。
望白の足元に、血でできた紅き泉が陽を受けて煌めいていた。
手足、腹は射られても動く。
しかし、頭と胸は――。
「セキさん……!」
「セキさん――――――、!!!!!」




