母なる城◇
サクが暗殺者を撃退した少し前、 セキと望白は本陣にいた。
「食べな、望白」
セキは望白へ瓜を渡す。
「いただきます」
望白が瓜を齧ると、青い甘さが舌に広がる。
ふたりは並んで石垣に座った。
「最初はさ。新しい城を一から造るつもりだったんだ。でも、この城はね。住む人の気持ちがこもってた」
「住む人の、気持ち、ですか」と望白はセキへ問う。
「城を造るつもりだったからこそ、ここに生きる人にどういう生き方をしてほしいかがよくわかる。あんたのかあちゃんの一族は強かったんだね。だから、その志を引き継ぎたいと思うのさ」
セキの、若いとは言いがたい顔に薫風が吹いた。
初老のあごの丸い輪郭を望白は見つめる。
その造形は母とは違う。
しかし、なぜか母の面影に重なった。
望白は幼少期の思い出す。
「僕は昔のことをあまり覚えていないのです。でも、母と別れた瞬間だけは鮮明に覚えています」
「かあちゃんが亡くなった日のことかい?」
「はい」
かつてこの地は一度滅びた。
望白の父の複数の妻たちの裏切りによって。
望白にとっては、貝は母の形見であった。望白には幼い頃の断片的な記憶が残る。
戦場特有の、煙と血のにおい。
望白がそれを覚えたのは、まだ四つを数える頃だ──。
◇
すべては記憶の中の出来事である。
その日は不快で生ぬるい風が、幼い頬を包んだ。
『かあさま、どこへいくのですか』
母は望白の脇を持ち上げ、抱き上げる。
『白。お前はこの車に乗って、お父様のところへ行くんだよ』
幼い望白が母の腰にすがると、母の子安貝が光った。
『いやです! かあさまといっしょにいます』
母はぎゅっと、望白を抱きしめる。そして、両手を包みこみ、腰の子安貝を幼い望白に託した。
それが、最期のぬくもりと覚悟していたかのように。
『ごめんね。白。でも、忘れないで。わたしは、いつでもあなたのことを想ってる』
◇
──その先はよく覚えていない。
二度と会うことなく母は戦死した。
「悔しかったです」
「そうだろうねえ。大切な人を亡くすのは悔しいものさ。あたしも、もう、失うほうに立ちたくはないねぇ」
あの日と同じ、煙と血の混じった気が城を包む。
望白は敵の布陣を眺めた。
望白は遠方に虎譚の姿を見つける。
虎譚とその一隊であった。
小さき人が数名、磔にされている。
「子ども……?」
望白は目を細めた。
「子どもが捕らえられています。あれを見てください!」
「あれは……」
虎譚は笑う。
「ふふふ。あなた方はどうしますか?」
木で造られた戦車を虎方の戦士数十名が囲む。三台の戦車に三名、計九名の子どもが磔にされていた。
「我らの城を奪いし者たちよ! この子どもらは望邑から奪いし子たちです! この子らを返して欲しくば、出てきなさい」
虎譚の部下は、まるで見せつけるように、磔にした子どもの爪を剥がす。
子どもの悲鳴が風に乗り望白の耳にも届いた。
「なんてことを……!」と、望白は憤る。
セキは眉間に皺を寄せた。
「敵の言うとおり、まえに誘拐された子どもたちだねぇ」
以前に虎譚が望邑に侵入し、子どもを攫うことがあった。虎譚は切り札として、匿っていたのだ。
その光景は、レイやサクの居る位置からは死角となっている。
一方、住民からは見える場所に虎譚は位置する。
敵は、サク達主力部隊の見えないところから、おびきよせているのだ。
本陣の兵士を。新城の住民を──。
望白は腹にぐっと力を入れながら言った。
「罠ですね。そんな罠にかかるわけないのに、殊勝なことですね。無視しましょう」
一方、セキは白い衣を羽織る。
「すまないねぇ。望白。わたしは行かなければならないみたいだ」
「え……?」と、望白はセキに振り返る。
「サクの鉄壁も、こんな形でほころびがでるとは、ね。敵もよくもこんなひどいことを考えるもんだ」
セキは覚悟を決めたように、ふぅっと深く呼吸をした。
望白はセキの肩を掴む。
「セキさん! あの子どもたちを助けるつもりでしょうか。それはいけません! 行ったところで助けられるのは、数名の子どもの命。僕たちが預かるのは、本陣と住民全員の命です。いまは落ち着いて、ここを守るべきです」
「そうさね。みえすいた、罠だねぇ」
「そのとおりです。小事より、大事を取るべきです。ここではあなたの能力の方が大きい」
望白はセキを止められると思い、すこしほっとした。しかし、その幻想は脆くも崩される。
「でもさ」
セキは望白を押しのけた。
そうしている間にも、子どもの爪は一枚、また一枚、と剥がされてゆく。
「子どもを命を張って守れないで、なにが城造りかい」
「セキさん……」
「それにさ、だめなんだよ。ちょっと同僚の姿が重なってしまってさ。あのとき、なにもできなかったから。あのときは、わたしはその場にいなかったから」
「なんの、話、ですか」
「とにかく、あたしは行くよ」
「だめです!」
爪が剥がされるたびに悲痛な声が城に届いた。この光景は、住民も目撃している。
「いいかい。あの子たちは戦士ではない。ここであの子たちを見捨ててみな。これを我々が見過ごせば、民は我々への信頼をなくすだろうさ」
「そんなこと、小さな問題です……」
「望白。それは違う。小事より、大事であるならば、わたしの命よりも、あの子たちを救うことが正解さ。たとえ、無駄死にでもね」
「セキさん……!」
戦場に、虎譚のよく通る声が響く。
「爪は足まで全部剥がしてしまいました。次は、指ですよぉ」
「それなら、僕も一緒に行きます」
「本陣は誰が守るんだい? 望白。あたしからのお願いだ。本陣は頼んだよ」
セキは望白を抱きしめた。
まるで、遠き日の母のように。
「さあ、戦車を一台、だしておくれ。馭者もいらない。あたしひとりで行くよ」
白い衣がなびいた。
望白はその人を止めることができなかった。
セキは高く響かせるように叫ぶ。
「虎譚! あたしは婦好軍第九隊隊長のセキ! 本陣を守る者さ! その暴挙を今すぐやめな! 取引だよ!」
敵地に駆ける背中を、望白は追いかけようとした。しかし、悲痛な面持ちをした望白の部下に止められてしまう。
「望白さま! あなたまで居なくなればこの戦は敗北です。ここは堪えてください……!」
望白の瞳から滴が落ちる。
「いやです。セキさん、待ってください……! 僕はもう、母を失いたくない……!」




