ずぶ濡れの使者◇
純麗な水が陽に反射して煌めく。
春の風はサクの頬を撫でる。
その日、サクは自分が成し遂げた仕事である用水の点検をしていた。
サクが下流で装置を確認して、ふと顔をあげると、水辺に見慣れない男が立っていた。
「水が、清すぎる」
男は川から陣内に侵入したようだった。
髪も服も全身濡れて、肌にはりつている。
男は左眼に眼帯をしていて、歳は二十くらいにみえた。
男がつぶやくように言った。
「これでは下流から敵に攻められても文句は言えまい」
男はざぶざぶと川を遡上して、サクに近づいた。
「汚泥はときに、防壁になる。敵に対しては毒になる」
男は忠告とも独り言ともとれる言葉をサクに投げた。
婦好軍は女性だけである。
眼前の男は侵入者にほかならない。
しかし、眼帯の男の格好があまりに無防備すぎて、サクには敵とは思えなかった。
「あなたは?」
「俺は沚馘の使者だ。婦好に会わせてくれ」
サクはどうすべきか戸惑った。
すると、そのときシュウが男に気づいてやってきた。
「サクちゃん? 不審者よ! 誰か!」
シュウがさけんで、木にかけてあった鼓を鳴らした。
すると、第七隊の女性兵士がきて、眼帯の男を捕らえた。
眼帯の男は、無抵抗のまま連れていかれた。
サクはその男が気になり、第七隊のあとをついていった。
***
「くくくくく……あっはっはっは! 弓臤よ、我が軍の乙女たちに捕らえられたのか!」
眼帯の男を見て、婦好が笑った。
ふたりは顔見知りのようだった。
「婦好よ。あいかわらずそなたの女たちは、激しい」
弓臤とよばれた眼帯の男が静かに言った。
「並のおとこには負けぬよう、訓練しているからな。ためしてみるか? わが婦好軍は沚馘殿のお誘いがあれば、いつでも相手をしよう」
「まさにそれだ。婦好は話が早くてよい。近いうちに鬼方と土方が沚馘の西鄙を攻めてくるとの情報をえた」
「そなたの使いの目的は、沚馘軍と我が軍の合同演習か」
「そうだ。沚馘軍は婦好軍の助けを請う。戦いのまえに、お互いを知るほうがいい。四日後。我々は明日には移動し、そなたの軍が取った、北の邑へ駐屯する」
「四日後。いいだろう、沚馘殿によろしくお伝え願おう」
婦好軍と沚馘軍は、この日から四日後に、敵の侵略にそなえた軍事演習を行うこととなった。
婦好がサクを見つけた。
「サク、こちらへ」
婦好に招かれたサクは、婦好が座っている隣に立った。
「紹介しよう。サクだ。王の禁忌にふれた、巫祝のむすめだ」
婦好は弓臤にサクを紹介した。
対して、弓臤は厳しい口調で聞いた。
「どちらの禁忌だ」
「お前とは違うほうだ。そしてなかなかの知恵者だ。我が軍の軍師として起用する」
サクが軍師になることを、婦好はこのときはじめて宣言した。
サクは驚いた。弓臤もまた驚愕していた。
「この小娘を軍師に? 正気か」
「軍事演習で試すがよい、お前の知恵とサクの知恵、どちらが上か」
眼帯の男は、隠れていないほうの瞳でサクを睨んだ。
「負ける気がしない」
サクはなにか返事をしなければならないと思った。
「お手柔らかにお願いします」
サクは丁寧に礼をした。
「サク、この者は弓臤。軍略に長けているから、次の演習でよくその策を盗め。弓臤は、商王お気に入りの臣だ」
「臣」
サクはふと、文字を思いだした。臣という字は、眼球を表した文字である。そして臤という文字は、目の眼精を手でくりぬいた者のことである。
サクは無意識に、眼帯を見つめた。
弓臤は、サクの心を見抜いたように言った。
「そうだ。俺は主君に左目を捧げたのだ。捧げたのは、左目だけではない。俺はすでに男ではない」
自嘲するように、弓臤は語った。
サクには目の前の男が、何を言っているのかわからなかった。
婦好もとくに説明を加えなかった。
「男も女も関係ない。魂に人格が宿るだけだ。どうだ、弓臤よ。我が軍にくるか」
「遠慮する」
弓臤が迷惑そうに顔をしかめた。
そして、サクに向かって忠告した。
「演習とはいえ、やるからには本気でやる。小娘、怪我をしたくなかったら部屋にこもっていろ」
「前回の死者は何人だったか」と婦好が問うと、
「十数名。今回も手加減はしない」
と弓臤は言った。
「損害は少なくしたいものだな。まあ、楽しくやろう」
婦好がまるで子どもの遊びの約束のように、軽々と言った。




