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紅茶が冷めるまで

作者: はまち

 夕焼けになりかけの空は、まるで人の心のようなマーブル模様をしていた。

「届くかな」

 つま先いっぱいの背伸びをして、息を吐いてみる。

 ふわふわのシフォンケーキに粉砂糖をかけるみたいに、視界に映るそれに満遍なくまぶしていく。

 お腹いっぱいにたまった空気を吐き出すころには、粉砂糖らしきものはすべて霧散していた。

 空の色は変わらない。空には届かなかったのである。

「はは、なにやってんだろ、あたし」

 いつか。

 いつか、そんな馬鹿らしい夢が届いてくれたらいいのに。

  

「あれ、真希じゃん。なんで来たの?」

 玄関の前でいくらか葛藤があってチャイムを押すと、そんなの露知らずといった様子で有香先輩がドアを開けてくれた。

 焦げ茶色のスウエット上下が無造作感を余計に引き立たせている気がして、ちょっといらついた。

「なんでって、今日練習来なかったじゃないですか」

「練習? ああ、三年はもう自由参加だしね」

「だって今まで休んだことな――ぃへくしっ」

 ああもう、こんなときに。

 鼻水出てないかな、うん出てない。あ、でも先輩にかかってないよね?

「ねぇ、真希。立ち話もなんだし、中入りなよ」

「へっ、あっ、その――はい」

 手をこまねかれるがままにローファーを脱いで、そのこげ茶色の後を追う。

 肩甲骨までかかった綺麗な黒髪からだろうか、ベリー系のいい匂いがした。

「そこの椅子座って。もてなすものがなにもなくて悪いんだけど」

「ああいや、その。お構いなくというかお気になさらず」

「ははっ、なにそれ。借りてきた猫みたい」

 言って、先輩は奥のキッチンへ引っ込んでしまった。

 学校のある下北沢から歩いてすぐだから、今までもここには何回か遊びに来たことはあるけれど、このリビングは初めてだ。

 スプーン一杯分の背徳感を覚えながら、あたしは部屋全体を見渡した。

 畳一畳はありそうな液晶テレビに、ちょっと古めのエアコン。壁際の食器棚の一角には古い家族写真もあった。 

 そして濃い木目調のテーブルを囲うように、あたしが座っている椅子が四脚並んでいる。

「あ……」

 きっと有香先輩は対面に座っていたのだろう。

 くしゃくしゃになったガムの包み紙の横には英文法の参考書が開かれている。

「おまたせ。紅茶しかなかったんだけど、いいかな?」

「すみません。ごちそうになっちゃって」

「いいのいいの。お母さんとお父さん、この前スリランカ旅行行ってきたんだけど茶葉買いすぎちゃったみたいで」

「毎日紅茶、いいじゃないですか」

「続けるといいもんじゃなくなるんだなあ、これが。まあせっかくだから帰るときに持ってってよ」

「いいんですか? やたっ、ありがとうございます」

「本当に嬉しそうでよかった。んで、さっきの話って言うのは?」

 先輩との会話に夢中になってしまって、つい本題を忘れかけてしまった。

 あたたかい紅茶で喉を湿らせて、心を落ち着かせて、話そうと思った。

「急に部活来なくなったからどうしたのかなって思ったんですけど、やっぱり勉強してたんですね」

 あたしの視線が眼下の参考書に向けられているのに気づいて、苦笑いする有香先輩である。

「こう見えてもずっと前から予備校通ってたんだけどな」

「そういうわけじゃ! そういうわけじゃ、ないんですけど」

 ティーカップにわずかに浮かぶ茶葉の残滓が沈んでゆく。

「だって最後の大会終わって、自由参加になってもずっと来てたじゃないですか。それが今日突然来なくなって、その寂しかったというか」

 有香先輩は返事をするわけでもなく、表情に色をつけるでもなく、ティーカップを傾けてあたしの話を聞いていた。

「連絡欲しかったなって。LINEだって返してくれないし」

 そうまで言うと、有香先輩はポケットからスマートフォンを取り出した。

「うわっ、めっちゃ通知きてる」と驚いてから、

「ねぇ、真希。まだ時間ある? 夕日見ようよ」と椅子を鳴らした。

 こうやって。

 こうやって有香先輩はあたしを誘っておいて、置いていく。


 先輩は紅茶をまた沸かしてから、ティーセット一式をおぼんに載せた。

「寒いから家にあげてくれたんじゃないんですか?」

「紅茶あるから大丈夫でしょ。真希、風邪とか引いてるの?」

「引いてないです」

 ちょっと不機嫌になりかけたけど、追いつきたいから後に続いた。

 なんであたし、こんな我慢してるんだろう?

「うっわ、全然晴れてないね」

「ですね」

 さっきまでオレンジが顔を覗かせていた空は一転、黒い灰色で覆われていた。

 コンクリート張りの屋上には、すこしだけど雨粒の跡がついている。

「どうします? 戻ります?」

 有香先輩に尋ねるものの、横に居たはずの姿がなくなっていた。

 慌てて見渡すと、すぐ後ろから声があがった。

「これ食べてからにしようよ」

 干物ネットから取り出した黄色い棒状のそれは、今にも折れそうなくらいだった。

「下北沢で干し芋つくる人なんて初めて見ました」

「言っとくけどこれ、ウチのお母さんの趣味だから」

「後輩に食わせてる時点で同罪です」

「でもなかなか美味いでしょ、それ」

「なんか悔しいから美味しいって言いたくないです」

 なんだかんだで妥協して、持ってきたビニールシートにあぐらをかいて、紅茶に干し芋を合わせるという時間を楽しんでいた。

 甘すぎず、物足りないということもなく。あったらあったで手が伸びちゃうような。

 そんななんでもない干し芋になぜか愛着を覚えていると、有香先輩が干し芋に紅茶を浸してぐるぐるカップの中を周回させていた。

「さっきの話ね。私だって寂しくなりたくなかったんだよ」

 干し芋が紅茶の水分を吸うと、余計へたっとだらしなくなった。

 それを無理やりにすくってから、有香先輩はそれを口に運んだ。

「何も言わずいなくなったほうが寂しいと思います」

「そんなことないよ。別れの日を特別つくったほうが余計にそう感じる」

「有香先輩は自分勝手ですね」

 いよいよ暗雲が涙を落としてきた。

 雨粒はぼとりと大きく、服に染みるにも重さを感じるほどだ。

 慌ててカップを手に持って屋内へ避難をすると、有香先輩はまだ雨に打たれていた。

「先輩なにしてるんですか、風邪引きますよ」

 紅茶の水面を雨粒が叩く。

 濃く煮出した紅茶はすぐには薄まらない。落雨の波が広まってはその茶色に飲み込まれていく。

「ごめん。もうちょっとこのままでいさせて」

 有香先輩の声が震えているような、そんな気がした。

 その「もうちょっと」はきっと、もうちょっとじゃない。

 ああ、あたしってバカみたいだなあ。

 そんなことを思いながらも足は自然に動いていて、思い切りに強くやさしく抱きしめていた。

「先輩なんて嫌いです。すごく寂しそうにしてるのに」

「寂しくないよ」

「ほんとは寂しいくせに」

「うん、寂しい」

 熱々だった紅茶がティーカップの中で冷めるまで、あたしたちはすこしのあいだ、溶けていた。

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