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安楽の黒

作者: 水平

推理小説というか、ミステリー??f^_^;とにかく推理小説ではないと思うので悪しからずm(__)m

       0



俺は落ち続けている。

これだけ聞くと普通の人なら何の事やらわからないだろう。

入試?何かのゲーム?それとも選挙?

そのどちらでもない。

少なくとも常人であれば出てこない選択肢。

だが俺は確実に落ち続けている。













       1



完全な黒。

男はその様な完璧な黒を今まで見た事がない。

その色が今、男を包んでいる。

今自分がどの様な姿なのか、どちらが右でどちらが左か、目を開けているのか閉じているのかさえも分からない。ただ落ちている事だけは今自分が受けている風圧が教えてくれた。

男は考えていた。

何故自分がこの様な状況に陥っているのか、そしていつから、どれ程の間こうして完全な闇の中で下からの風を感じているのか。

皮肉な事にこの完全な闇の中は考え事をするにはもってこいの状況であった。不思議とこのまま落ち続ける事によって引き起こる最悪な結末も気にはならなかった。

だが、いくら考えても男には納得のいく答えは見出だせなかった。それどころか自分が何歳でどういう人間でどういう人生を歩んできたのかすら思いだせない。

そんな中、突然男の前に一匹の猫が現れた。

自分の体さえも認識できない状況の中何故かその猫だけは認識できた。

男と共に落ちているはずのその猫は慌てる様子もなく毅然としてこちらを見続けている。

男は訳がわからずただその猫の様子を見守る事しかできなかった。

するとその猫は突然男の方へ歩き出し、更に困惑する男に向かい一言呟いた。













 

「もったいない」






       2



明日、4/10に25回目の誕生日を迎える石橋孝也は仕事を終え、彼女が開いてくれるという誕生パーティーに胸を踊らせ帰路を急いでいた。

会社から徒歩5分の駅に着いてみるとやはりいつもの通勤ラッシュで人でごった返していたが、人間というのはひょうきんなものでいつもなら足を踏まれようものなら胸倉を掴み怒鳴り散らしてやろうかというぐらいに苛立っているのが今日は全くそんな気にはならない。

むしろ踏みたい人には差し出すくらいの仏の様な気持ちだった。

というのも孝也の彼女、斎藤恵美は看護師の仕事をしており、孝也が会いたくてもなかなか時間が合わず、それに休みも少なくあったとしても平日がほとんどで、2ヶ月に1度、それに数時間程度しか会う事ができなかった。

そんな彼女が自分の為に貴重な1日を割いて誕生日を祝ってくれるというのだから孝也がそんな気持ちになるのは無理もなかった。


やっとの事で快速電車に乗り、15分程度電車に揺られた後自宅から最寄の駅に到着した。

いつもなら人がなく殺風景なこの駅にも人が多く、それで今日は土曜日なんだと思いだす。

それでも孝也は苛立つ事はせずゆっくりとした足どりで改札をぬけ、孝也は週末の喧騒を背に明日の大イベントを思い、自宅への歩を早めていた。

孝也の自宅は駅から徒歩10分のところにある20階建てのマンションで、その7階に住んでいる。

いつもの様に帰り道にあるコンビニで晩飯とビール、缶コーヒーを買い、自宅マンションに到着すると、いつもなら気にせずさっさとエントランスを抜け、5秒後にはエレベーターの上昇ボタンを押しているのだが、今日はふと空が気になりマンションの入口前の小さな階段に座り込んだ。

孝也は綺麗な星空を見上げ、先程買った缶コーヒーを開け、タバコをふかしていた。


こうやってゆっくり星空を見るのは何年振りだろう。


日々忙しい仕事に追われ、自分の時間をなかなか作れないでいた孝也には久しぶりの休息の時間であった。

しばしの休息の後タバコの火を消そうと足元にある缶コーヒーを一気に飲みほし、タバコを入れた瞬間、孝也の前に何か大きな物が凄まじい音をたてて地面に落下した。

孝也は安楽の時をつんざくその凄まじい音に怒りを覚えつつもその正体を捕らえようと目をやった。


初めは限りなく人間に近い高精度なマネキンが落ちて来たのだと思った。

しかし孝也のそのお気楽な考えはすぐに打ち砕かれた。


孝也がその物体に近づいてみるとそいつは口から血をはいたのだ。

明らかに人間であった。

だが違和感がある。手や足はあらぬ方向を向いて、いかにも間節をもたない人形のようだが、それ以上に違和感が…。



孝也がふとそいつの顔を見た時、その違和感に気が付いた。










 

「笑ってる……」






       3



男は歩いていた。


ここはどこだろう。


周りには人が多く、ぶつかるのを避けるのに必死だった。

その中には家族連れが目立ち、時折子供の泣く声や迷子を知らせるアナウンスが鳴る。

テナントで入っているカフェにはカップルが多く、互いに愛を語り合っていた。

恐らくここは大型のアミューズメント型スーパーといったところだろう。

そんな中、男は誰かが服の後ろを引っ張っている事に気付いた。


「ね〜、ね〜、歩くの早いよぉ。カフェ行こうよぉ」


男が振り向くと後ろには背の低い、幼い顔をした女の子がこちらを見ていた。

恐らく中学生と言われても通るであろうその女の子は、色気こそ無いがどことなく気品があり清楚な感じを醸し出していた。


一瞬驚いたがその女の子が自分の彼女だという事は直感でわかった。

自分が誰なのかもわからない男が、目の前の魅力的な女の子を初対面にも関わらず自分の物にしてしまうなんてムシの良すぎる話だ。

しかし、間違いなくこのコは俺の彼女。


「お、おぅ」


ぎこちない。

男はその女の子に連れられて、先程のカフェへ向かった。

狐につままれた様な顔をして女の子に先導されている男は周りから見てさぞかし滑稽に映ったであろう。


「ここのパフェ美味しいんだよ!ねぇ、ねぇ、一緒に食べよ!!ねっ!!」


「う、うん」


男は女の子の勢いに戸惑いながらも女の子のペースについていった。

普通であれば初対面の女の子にここまで馴れ馴れしくされれば少しは動揺してもいいくらいだが男は不思議と居心地がよかった。

まるで5年以上は付き合っているかの様な居心地の良さであった。


その後も男はその女の子といろいろな所を回り、あっという間に時は過ぎていった。


気付けば辺りは暗くなっており、人もまばらになっていた。

男は近くのベンチに女の子を誘い2人して腰掛けた。


「あ、もう7時だ。帰らなきゃ…。」


「えっ、なんで!?」


「え、だって明日仕事だし…。」


「あ、そうなんだ…」


「今日はありがと!楽しかったよ!」


男は無邪気に微笑むその清楚な笑顔に、どうしようもない感情が込み上げてきて、男は無意識のうちに両手を女の子の肩にかけ抱きしめていた。



「本当にありがと…」



その瞬間男の目の前は真っ暗になり、さっきまで腕の中に感じていた温もりも消え去っていた。


しかし男の心の中は晴れやかであった。

また会える。

そんな気がしたからであった。




そして男はまた落ち続けていた。完璧な闇と共に…。





       4



孝也は昨夜の惨事のせいで眠らずに4/10を迎えていた。

あの奇妙な死体の第一発見者として今朝まで警察に取り調べを受けていたのだ。

もうすぐ恵美が来るというのにまだ孝也のマンションの前には警察関係者や、更にはマスコミ関係者までもがうろついている。

できれば昨夜の事なんか忘れて今日という日を迎えたい。

しかしこんな状況を恵美が見たら間違いなく根掘り葉掘り聞いてくるだろう。

そうしたら孝也にはシラを切り通す事はできそうにもなかった。

なぜなら恵美は孝也にとって嘘発見機のような存在で昔から恵美は孝也の嘘をことごとく見破っていたからである。

孝也には恵美いわく、嘘をつく時、ある事をしてしまう癖があるらしかった。

孝也は一時期その癖を見つけるのに必死だったがとうとう今まで見つけられずにいたのだった。

そんな事を考えていると間もなく恵美がやってきた。


「ピリリリリリ」


恵美は部屋の前に着くといつも携帯をワンコールだけ鳴らして切る。

一度いたずらで恵美からかかってきた瞬間電話を取った事があったが何故か鬼の様に怒られたので恵美が家に来る時は携帯を触らない様にしている。


「はぁい」


「あ、私〜」


やはり恵美だ。


「誕生日オメデト〜!!はい、これ!!プレゼント!!!」


「お、ありがとう〜」


おかしい。

恵美が何も聞いてこないなんて。

いつもなら野次馬根性を見せて血相を変えて首を突っ込んでくるのに。


「なぁ、恵美」


「いいの…」


「えっ?」


孝也は言葉を遮る急な恵美の一言に拍子抜けした。


「自殺…でしょ?さっきマンションの前に居た野次馬の人に聞いたの」


「あ…そうなんだ」


「私の勤めてる病院でもね、おとつい患者さんが屋上から自殺したの。だからあまり触れたくなくて。」


「そっか…。」


孝也は恵美の嫌がる事はしたくないと思う反面、警察と第一発見者の孝也しか知らないあの奇妙な死体の事を話したくて仕方がなかった。


「恵美…、実は俺、第一発見者…、なんだよね。ていうか…、目の前に落ちてきたんだ…。」


「え………、そうなの?」


恵美はどういう顔をしたらいいのか分からないといった様子だった。


「それでさ、その落ちてきた人さ、もう関節が全部壊れちゃっててさ、血もはいてるし、もう人間じゃないみたいでさ…」


「うん…」


「でさ…、その人……、笑ってたんだ…。」


「えっ……?」


「笑ってたんだ…。というより…、微笑んでた…。」


「………、私…、も…。」


「えっ?」


「いや…、私の病院で自殺した患者さんも…、笑ってたんだって……。」




孝也は何故かマンションの屋上から自殺した男が最期に何を見たのか急に確かめたくなった。






「屋上へ行こう…」




       5



男は朝食を食べていた。


あの後、また、完全な闇の中を落ち続けている時に例の猫に会って連れて来られていた。

また

「もったいない」とか言っていた事を覚えている。


目の前には目玉焼きと焼きベーコン、そしてトースト。典型的な朝食である。

窓からサンサンと差し込む朝の光がそれらを美味しそうに照らしていた。

男の膝の上には読みかけの新聞がおかれており、さっきまで読んでいた事をうかがわせる。

その食卓を3人が囲むように座っている。

男の横には6歳にはなろうかという活発そうな男の子と、向かいには歳はとっているが相変わらず童顔で気品のある清楚な女性が座っている。



また会えた。



「え?あなた、何か言った?」


「ん、いや、何もないよ」


どうやら結婚しているらしい。子供の名前は何だろう。

結婚何年目だ。

何も分からない。

ただ今日が結婚記念日であるという事だけは新聞の日にちとカレンダーを見て分かった。

デカデカと赤い文字で書いてある。


「パパ!今日はどこに連れてってくれるの!?」


「じゃあ、今日はご飯を作って近くの森林公園へ食べに行こう!」


「ホントに!?やった〜!やった〜!」


このぐらいの事で喜ぶとは男は自分はどれほど家族サービスを怠って来たのだろうと思う。


「じゃあ、雅人、早く朝ご飯を食べて、一緒に公園で食べる弁当を作りましょ」


「はぁ〜い!」


マサト、というのか。


「マサト、今日は父さんがめいっぱい遊んでやるからな!」


「うん!!」


男はうれしそうなマサトの顔を見ると何故か涙が溢れてきた。


「ごめんちょっと、トイレ、ごちそうさま!」


そういって男は席を立ち、感情が落ち着くのを待って、出かける支度をしに2階の自分の部屋へ上がった。

一切の事に記憶のない男だが、例によって、肝心な事は直感でわかった。

部屋は割と綺麗に片付いており、あるのはデスクとベッド、本棚、クローゼットのみであった。

デスクの上のノート型パソコンは、あまり使っていないのだろう、だいぶほこりを被っており、その横の灰皿には、吸い殻が溢れていた。

とりあえず寝巻を着替え、ボサボサの髪を整え、一通りの準備ができた男は一服しようとベッドの枕元にあったタバコを手に取り火を付けた。


あぁ、幸せだ…。


男は普通の人なら気が狂ってしまいそうなこの訳のわからない状況に何故かとても大きな幸せを感じていた。


「パパー、行こうよ〜!」


男がタバコをふかし、くつろいでいるとこに1階からマサトの声が響いた。


「おぅ、今行く〜!」


男はタバコの火を消し、1階へ降りるともうすでに妻と子供は準備を済ませており、男が降りて来るのを待っていた。


「あなた、行きましょ」


妻はメイクをほとんどしていないようで、すっぴんに近かったが、髪を整え、服もお洒落をした姿は更に気品と清楚さを増していた。


こんなに魅力的な女性と俺は結婚したのか。


「パパー、早く〜!」 


男がそんな妻に見とれていると雅人が後ろから手を掴み前へ引っ張った。


「わかったわかった〜、今日はマサトの気の済むまで遊ぼうな」


我に返った男は雅人の小さな体を抱き抱え、玄関の方へ向かった。







3人が公園に着く頃には既に朝の優しい日差しはなく、代わりに活発な光がさんさんと木々達を照らしていた。

夏でもなく冬でもないこの気候は風が吹く度気持ちがよく、今すぐにでも目の前の原っぱに寝転がり寝てしまいたいぐらいだった。

しかし、今日は家族サービスの日。その様な事はまかり間違ってもする訳にはいかなかった。


男は妻と共に雅人を間に挟んだ並びで木漏れ日が降り注ぐ散歩道を歩いていた。


その時、男の目の端に見慣れた陰がサッと動いて行くのが見えた。


あぁ、もう終わりか…。


男は直感的に理解した。

すると男は急に膝を曲げ、雅人の肩に手をかけ、妻にも自分と同じ様な体勢をとる様促した。


「ぱぱ??」


「あなた、どうしたの??」


男は困惑する妻と雅人に半ば強引に自分の思う体勢をとらせた。

更に男は雅人を間に挟む感じで妻の背中に手を回し、強く、優しく抱きしめた。



「ありがとな…」



その瞬間男の周りの景色は一瞬にして消え、代わりに闇が包み込んだ。





あぁ、本当に、幸せだ……





男は完璧な闇の中、下からの風を感じながら思っていた。




       6



「ね〜、孝也ぁ、本当に行くのぉ??」


孝也には恵美の言葉は届いてなかった。

あの奇妙な死体が最期に何を見たのか、それを知りたいという思いだけが孝也の体を動かしていた。


エレベーターの中はやけに静かだった。機会音すら今は耳に入らない。

目を閉じれば、まるで真っ暗な闇の中を一人でさ迷っているのではないかと錯覚してしまう程であった。


「ね〜、孝也ぁ、これが終わったら、あそこに行こうよぉ!」


恵美があそこというのは孝也の家の近所に最近できた大型のスーパーの事である。

孝也も今日、恵美とそこに行くつもりであったが、今の孝也にはそれを口で伝える余裕はなかった。


気付けばエレベーターは19階まで来ていた。

孝也は興奮と恐怖が入り交じったような感覚であった。

怖いもの見たさ。

そういうありきたりな感情ではなく、何か使命感に近いものがあった。


エレベーターは屋上へ到着したという合図と供に扉をゆっくりと開いた。

孝也はどくどくと興奮に脈打つ鼓動を感じながらエレベーターを出て屋上へと続く扉に手をかけた。






そこには孝也の期待を裏切る様な何気ない朝の優しい光が屋上の床を照らしていた。

孝也は一先ず胸を撫で下ろし、あの奇妙な死体が飛び降りたであろう場所へ向かった。

孝也はそこへ着くと淵に足をかけ下を覗き込んだ。


しかし、やはりそこに見たのは孝也の期待を裏切る何ともない光景であった。

孝也は安堵とも落胆ともとれる表情で心配そうに後ろで待っている恵美を見た。


「何もないよ」


「だったら早く戻って来てよ。危ないよぉ。」


心配そうにこちらを見る恵美を見て孝也は急に馬鹿らしくなった。


何やってんだ…。


そう呟き、最後に下を一瞥した孝也の目に一瞬何かが飛び込んだ。




ね…こ…?




孝也が確かめようと身を乗り出したその時、孝也の目の前に猫が急に飛び出してきた。



何でっ!?



この世には空を飛べる猫もいるのか。


そんな事が孝也の頭をかすめたと同時に孝也は足を滑らせ、次の瞬間、孝也の体は外に投げ出されていた。




「孝也ぁ!!」




そう叫ぶ恵美の姿は一瞬にして孝也の視界から弾き出された。




       7



男はベッドに横たわっていた。

今度は男にもすぐにここがどこであるかわかった。


白いシーツに白い掛け布団、そして周りには白いカーテンが周りを囲んでいる。


男は病院にいた。

隣には顔中シワだらけの女性が椅子に座りこちらを見ている。

その女性は外見の割りに背筋がピンと伸びており、全体に白くなった髪を後ろで束ね綺麗にまとめている。

服装にも気を使い、自分が女である事を忘れていない。


間違いなくあの女性だ。あの時俺の妻であった女性。


男はそう思った。


「起きましたか?」


「あぁ」


男は不思議と自分がどうしてこうなっているのか気にはならなかった。


その時、突然病室のドアが開いた。


そこには見知らぬ男が立っていた。

小柄ではあるが服の上からでもわかる程の筋肉質な肉体である。


「おぅ…、久しぶり…」


そいつは、妻に小さくお辞儀をし、何か気まずそうな感じで男に言った。


「おぅ、久しぶりだな」


男はそいつが誰だかわからなかったが、自然と返事が出た。

ただ懐かしい感じは確かに感じていたのだ。


それからは男の病院生活は走馬灯の様に駆けていった。


いろいろな人がきた。


高校のアルバムを持ってきて何十年も前の思い出にふける人。

元気よく入ってきたと思えば話している最中に急に泣き崩れる人。

男が昔大好きだったという女の子を連れて見舞いにくる人。


みんな男には懐かしかった。

みんな男には大好きな人達だった。


ただ、みんな男を見る目はどこか悲しげで、淋しげで、哀れみを含んでいた。


男は悟った。

自分はもうすぐ死ぬのだと。








 

そして、その時は来た。



気付けば男の周りには医師や看護師が取り囲み慌ただしく動いていた。

どうやら病状が急変したらしい。

意識は薄い。



そんな中、何も言わずただ男を見ている女がいた。

男は朦朧とする意識の中その女と長い間視線を合わしていた。

実際はほんの数秒、いや1秒もなかったのかもしれない。

だが少なくとも男にはとても長く感じた。


するとその女はふと口を開いた。


「あなた…。私と一緒で幸せだった…?」


女は今にも泣き崩れそうだった。

恐らく今まで何も喋らなかったのは男に涙を見せたくなかったからであろう。


男は不意を突くその一言に少し戸惑ったが腹に力を入れ声を搾り出した。


「…ぁ当たり前、じゃないか。…ぉお前を疎ましく思った事なんか、い、一度も、、ないぞ。」






「………嘘つき」






女は急に微笑み、男に向かい一言そういった。

更に女は続けた。


「あなたって、ホントに嘘が下手ね。…私にはすぐ分かるわ。」


女の声は震えていた。


「だってあなた、、嘘をつく時必ず瞬きがいつもより多くなるんだもの…。」




「………そう、か…」


男は笑った。

女も涙を流しながら笑っていた。


そして女はおもむろに顔を男に近付け口づけした。


男は薄れ行く意識の中、唇にその女の温もりを感じていた。

そして何か冷たい物が雫の様に頬に落ちたのを感じた瞬間、男の意識は完全になくなり目の前が真っ暗となった。











次に男が意識を持った時には、真っ逆さまに落下していた。



目の前には見慣れたタイル張りの床が迫ってきている。



男は瞬時に死ぬことを覚悟した。



しかし男には全く後悔や恐怖はなかった。



むしろ晴々としていた。



なぜなら男は一瞬の内に最愛の人との一生を経験したからである。








そして男は激しく着床した。




あたりには不快な音が響きわたり、周りにいる物は皆驚きの表情を浮かべている。



しかしその男の表情だけはその場に不釣り合いなものだった。









徐々に集まり出した野次馬達の視線の先にあったのはまるで悔いなく人生を全うしたかの様に安らかに微笑んだ男の顔であった。




 

そして、辺りを包む朝の優しい光は男の頬を流れる1粒の雫を清楚に照らしていた。



最後までお読み頂き、有難うございました!!

謎の男=斉藤孝也、という

この小説のカラクリは分かって頂けたでしょうかf^_^;

孝也がもし足を滑らせていなかったら送っていたであろうその後の人生を、着床するまでのわずかな間に、恵美と共に過ごした訳です。

そして最後に孝也の頬を流れる一筋の清楚な雫は、男が病院で死ぬ間際に貰った清楚な妻の涙なのです。


全く訳の分からなかった方もこの後書きを読んで、少しでも納得して頂けたら幸いです!!


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― 新着の感想 ―
[一言] 今回はさらに鳥肌ものでしたね!素晴らしいです。怖いのとドキドキ感と最後の結末がすこし悲しかったけどなぜ微笑んで死んでいったのかがわかり納得できました。あとあの猫はなんだったのでしょう…死神の…
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