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 リョカを医務室へと送り届け、頰にくっきりとした紅葉の跡をつけたルークが、憤然とするシュリの後をしょぼんとしてついていくのを、誰もが二度見三度見をして見送った。


「……野いちごちゃん」


「話しかけないでちょうだい」


 ふんと顔を背ける。すっかり自分が捕虜だと失念しているシュリだ。

 ルークは悄然としたまま調理場へと戻り、地に落ちた信頼を取り戻そうと、率先して手伝いを買って出た。シュリの無理な要望をなんでも叶える意気込みで、目が燃えている。


「火を起こすのが大変よね、これ」


 シュリがそう呟けば、ルークは薪を集めてきて、木と木を擦り合わせて火を起こした。


「清潔なビンがほしいわね」


 シュリがそう唸れば、彼は嬉々としてどこからかビンをかき集めて来た。

 おかげでシュリは煩わしいことはなにも考えずとも、ジャム作りだけに集中ができた。

 大鍋に、洗った野いちごを投入して、黒砂糖とレモンを少しだけ絞り、弱火で煮込む。

 火加減はルークの努力次第だった。


「ルーク、火が強い」


 シュリの指令を受けて、ルークが薪を減らして火力調整する。

 非常に忠実で理想的な部下であった。


「うん。いい匂い」


 甘酸っぱい香りがあたりに広がり、ヘラで鍋をぐるりと混ぜてから、シュリは手の甲に一粒野いちごを乗せて口に含んだ。色鮮やかさには欠けるが、味としては上々だった。

 店で作ったものではないので売り物ににはならないが、近所へのおすそ分け程度ならば問題なさそうだ。

 味見したシュリを、片膝ついて薪を調節していたルークが物欲しげな眼差しで見上げている。まるで餌を待つ犬だ。

 これまでの誠意あるサポートに免じて、シュリは自分でもよくわからない怒りを収めることにした。


「ルークも味見する?」


「……いいの?」


「いいよ。熱いからちょっと待ってね」


 ヘラで大粒の野いちごの実を掬おうとしたその手を、立ち上がったルークが制すように掴んだ。そして瞬くシュリの唇を、ペロリと舐める。


「ひゃっ!?」


「ん。甘いね」


 そう言ってもう一度、ほんのりと残ったジャムの味を堪能するように、シュリの唇の端まで丁寧に舐め取った。


「甘くて、おいしい」


 ジャムを褒められたことに感謝すればいいのか、それともいきなり唇を舐めるという所業に出たことを叱ればいいのか。シュリは真っ赤な頰に手を当てて、ルークから目を逸らしつつ迷った。

 本来は悩むべきことではない。しかしシュリはすでに、ルークに毒されつつあった。


「野いちごちゃんの作るジャムを、毎日食べれたら幸せだな……」


 そのルークがなにげない呟きに、シュリは目を見開いた。


(それって……一生捕虜ってこと?)


 毎日食べたいと言われたこと自体は嬉しいのだが、シュリとしては無事に家へと帰り、妹たちとの再会を果たしたかった。会って謝って、そしてもう二度と、野いちご摘みなど無謀なことはせず、今ある果実だけでジャムを作って売って儲けようと言いたかった。

 しかし今のシュリは捕虜の身。ルークから逃げるのは愚策だと、さっき痛いほど思い知った。実際痛かったのは、リョカとルークだが。

 しかし平和条約が締結されさえすれば、すぐにでも捕虜は解放されることになるだろう。

 一日でも早くそうなることを祈りながら、シュリは曖昧に笑ってごまかすと、ルークが嬉しそうに笑った。


(なんで……笑うのよ。私が一生捕虜だと嬉しいとでも言うわけ?)


 シュリは鍋を火から下ろして、木製の丸椅子に行儀悪く膝を抱えて座り込んだ。


「野いちごちゃん?」


「もう材料がないから毎日作るのは無理よ。諦めてちょうだい」


 シュリはルークへとなかば八つ当たり気味に突き放した。

 もちろんそれで退くようなルークではない。


「材料ならば俺が取ってくる。市場に行けば果実はたくさん売ってるし森でも俺ならば平気だ。だから、好きなだけジャムを――」


「でも無理なのよ! ……妹たちが、心配なの。だから私は早く……家に帰りたい」


 シュリは膝に顔を埋めて、心の声を吐露した。


「妹……?」


「……うん。三人いるの。私は長女だから、帰らないといけないのよ」


「妹か……。それは心配だろうけど、今帰るのは危険だ。野いちごちゃんも見ただろう? この向こうに広がる森では、自分の守るべき国民にさえ銃を突きつける場所なんだ」


 シュリはあのときの記憶がまざまざと蘇り、身を震わせた。黒々とした銃口を向けられたときの恐怖は、そう簡単に消えるものではない。

 捕虜というのは、最低限命だけは奪われることのない立場だ。ここにいれば、命を落とすことだけはない。無理に戻ろうとするよりも、しばらく待つことがやはり最善の策だった。


「震えてる。……あたためようか」


 シュリはルークの胸に抱きしめられた。彼の触れ方は壊れ物でも扱うかのように優しい。おとなしくしていれば、間違っても自分を傷つけないのだと確信できてしまうほどに。

 あの恥ずかしい拷問だけはなければいいのだが、しかし嫌ではないということの方が問題ではあった。


「大丈夫。俺がいる」


 ルークがシュリの耳朶に囁く。それからこめかみにキスをして、頭をぽんぽんと撫でた。


(ルークはいちいち女慣れしているのよね。拷問でキスできちゃうくらいなんだから、当たり前か……)


 きっと誰にでもこうしている。そういう類の男なのだろう。

 シュリはやんわりと彼をたしなめた。


「ルーク、女性の扱いに気をつけた方がいいわ。みんな……誤解しちゃうから」


 寂しげに目を伏せ、身をよじって抜け出そうとするシュリに、ルークの綱渡り状態だった理性の糸がそこでぷつんと切れた。それはもう、盛大に。


「ああ! もう我慢の限界だ! どれだけ俺を悶えさせる気か! 今すぐここで食べてしまいたい!」


 作業台へと寝かされたシュリは、本能剥き出しの獰猛な獣に覆いかぶさるよう身体を押しつけられ、完全に身動きが取れなくなった。

 なぜこうなったのか。まるで理解できないシュリの前髪を後ろへと流して、ルークが愛しげに口づける。

 くすぐったさと困惑で潤んだシュリの目尻から、淡く色づく頬をたどり首筋まで、ルークの意外にごつごつした手のひらが這った。触れた場所からみるみる赤く染まっていく。


「ああ……なんておいしそうなんだ、俺の野いちごちゃんは。そんな怯えた仔うさぎみたいな瞳をして……。止まらなくなってしまう」


 砂糖でもまぶしていそうなジャムより甘い睦言。慣れないシュリが戸惑いに視線をさまよわせている間に、ルークが首筋へとかぶりついた――その瞬間だった。


「野外で盛るな、この馬鹿が!」


 鈍く光を放つ刀身がルークの背中へと襲いかかるのを目にして、シュリは悲鳴を上げた。素早く反応した彼が振り返り、なめらかな動作で腰から短剣を抜いて攻撃を防ぐ。

 ガキンッ、という刃を刃の交わる金属音に、シュリはルークの陰で守られながらぶるぶると震えた。

 一歩でも反応が遅れていたら、シュリの上でルークが切られて死んでいた。想像するだけで恐ろしい。


「……逢瀬中を狙うとは。大将のくせに、卑怯なことで」


「その油断が命取りなんだ。常に警戒しとけ馬鹿」


 クロッカンが鼻で笑う。そして殺気を跡形もなく消し去ると、刀身を鞘へと戻した。


「あ……あ、よ、よかった……」


 仲間内で殺し合いでもするのかと思っていたシュリは脱力した。短剣をしまったルークが、おっと、と言って左腕で支える。


「大丈夫?」


「……なん、とか」


「怖かった? もう二度と邪魔はさせない。だから今から俺の部屋に行ってこの続きを――」


「するな! ここにいる間は、キス以上の接触は禁止だ!」


「自分が寂しいひとり者だからって、僻まれても……」


「俺は別にひとりで構わないからひとりでいるんだよ。それに、女は傲慢でうるさくて面倒な生き物だから極力近づきたくはない」


 そう言い放ったクロッカンに、ルークがぼそりと呟いた。


「……ああ、モテない男の言い訳か」


「……うるさい。お前は黙ってろ。――ときに、そこのおまえ」


 びくんとシュリの肩が跳ねた。なにを言われるのか、はたまたされるのか。ルークの陰に隠れて、ひょこんと顔だけ出した。


「……なんか腹が立つが、まぁいい。おまえが間諜でないことが証明できそうだ。ついて来い」


「本当に!?」


「ついて来るのか、来ないのか」


「ついて行くわ! ……ジャムをビンに詰めたら」


 クロッカンが眉をひそめたが、それだけは譲れなかった。



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