中編
大将がシュリの妹……というよりも、ルークの義妹にフラれた、という悪評がおもしろおかしく広まる気の抜けた要塞内では、噂の的であるクロッカンが腕を組んで思案顔をしていた。
もちろん真面目なクロッカン大将なので、ガレット中将のような私的な悩みごとではなく、仕事上での差し迫った問題でのことだった。
「……つまりだ。森に仕掛けた未作動の罠の撤去を、急いだ方がいいということか」
平和条約が結ばれたおかげで森は開かれた。互いの国の市民たちが、今このときも踏み込んで来ていてもおかしくない状態なのだ。
そんな中、対隣国用に仕掛けていた罠に、運悪く向こうの軍人がかかってしまったという報告が上がったのだ。
罠と言っても足止め程度のものだ。だが、かかった相手が軍人であったからこそ怪我がなかっただけであって、これがなにも知らない市民であったら取り返しのつかない事態になりかねない。
迷惑な市民だったシュリが罠にかからなかったのは奇跡的に運がよかっただけのことだ。しかし彼女は罠にこそかからなかったが、ルークという軍随一の変態に捕獲されてしまったので、これこそ不運というべきなのかもしれない。
しかし、せっかくの平和条約が無駄になるようなきっかけを軍が作ってしまうなど、あってはならないことだ。
「手が空いている者から地図に記された場所をそれぞれ手分けして、罠を回収、もしくは無効になるよう潰して来い。俺も行く」
クロッカンは椅子にかけていた軍服の上着を羽織ると、部下を引き連れて森へと向かった。
*
ここのところ上の空だったせいか、メアリはついにジャムを焦がすという大失敗をしてしまった。シュリがいたら叱責が飛んでいたところなのだが、シュリは新婚休暇中で、寝室から出てこずなんの音沙汰もなしだ。
「やっちゃった……」
メアリは嘆息をもらした。鍋の底で果実が煮詰まりすぎて黒々としている。漂う焦げ臭さに、ライラが調理場へと鼻を摘みながら入ってきた。
「なんか、臭いんだけど」
「……ごめん。気がついたら、焦げてたの」
ライラは鍋を覗き込み額を打った。
「あちゃー。コケモモ、もう在庫ないよ?」
「え、そうだった? じゃあ取りに行かないと姉さん怒るよね……」
「うん、怒るね」
メアリはため息をついて、コケモモ摘みへと出かけた。
普段果実を収穫するのはシュリの仕事であり、市場へ買い出しに行くのがメアリの仕事だ。
それでもシュリの後をついて森で野いちごを摘んだりした経験は何度もある。なので平和な日常を取り戻した今、メアリはさほど警戒心なく森を奥へ奥へと進んでいく。コケモモは森の奥の鬱蒼とした場所に自生しているのだ。
そうしてコケモモの木を見つけると、真っ赤に実った小さな実を、丁寧にひとつひとつ摘んでは籠へと収めた。
失敗してしまった分と、予備にもう少しだけ。多くは取らないように気をつけないと、シュリに叱られてしまう。果実は鮮度が命なのだ。
籠の中に控えめに溜まった赤い実を眺めて、もうそろそろいいかとメアリは収穫を終えた。
そのまま帰ってもよかったのだが、気になって、シュリが捕らわれていたという隣国の要塞へと足を伸ばしてしまった。あの人に会えるなどと都合のいいことは考えていなかったが、もし会えたのなら、きちんと謝らなくてはと考えていた。
あの日のあの後、クロッカンが気を遣ってメアリを避けていたせいで謝罪するチャンスがなく、深い後悔だけが心に取り残されていた。
(今さらでも、許してもらえなくても、まずはごめんなさいって言わないと)
そうしてメアリは決意が鈍る前に踏み出したのだが、踵が捉えたはずの地面が、唐突に消えた。
「え、きゃーっ!」
身体が斜めに傾ぐ。一瞬目に映ったのは、ぽっかりと口を開けた暗い闇だった。あとは浮遊感と、地面だと思っていた柔らかな土と共に落ちた衝撃。
メアリはわけがわからず、光の差す方向へと顔を上げる。丸い形に切り取られた空が、遠くに小さく見えた。
(これはもしかして……落とし穴……)
メアリがいるのは、深く掘られた穴の底。立ち上がったくらいではまったく届かないほど、出口が遠くにある。
(誰がこんないたずらを……)
「あの、誰かいませんかー!」
メアリは口元に手のひらを当てて、外へと向かって助けを呼んだ。
しかしなんの反応もない。
森に来てから誰とも会っていないのだ。誰かいるはずがない。
立ち上がってよじ登ろうとしたのだか、右足に痛みが走った。どうやら落ちたときに痛めたようだ。
大したことはなさそうだが、よじ登ることは断念した。
摘んだコケモモの実の半分ほどメアリの下で潰れているが、後はなんとか形を保ち食べれそうだったので、最悪の事態を考えてこれらを非常食にと籠へ戻した。
しかしなにもやることがなくなると、途端に今の状況への恐怖と後悔が押し寄せて来た。
無謀にも野いちご摘みへと出かけた姉のことを言えない。メアリは不安でどうしようもなくなり、嗚咽をこらえて泣きはじめた。
それからどれくらい時間が経っただろうか。すっかりと涙も枯れて、空が薄っすらと赤く染まりはじめた頃、待ち望んだ人の気配が頭上に現れた。
「おい! 罠が作動してるぞ!」
「なんだって!? ――大将!」
いくつかの人の影が穴の中へと落とされる。
「誰かいるのか!」
その声だけは、メアリのよく知っているものだった。――クロッカンだ。
彼の声を聞いただけで、恐怖がなぎ払われて安心感に包まれた。
(助かった……)
「い、います!」
メアリが答えると、一瞬彼が息を呑んだ気配がした。落ちているのがメアリだと、彼も気づいたようだ。
「大丈夫だ。待ってろ」
クロッカンは縄を木の幹に括りつけて、その反対を自分の腰に巻つけ、落とし穴の中へと降りてきた。
散々泣いたのが丸わかりな涙と土で汚れた茶色い顔を見て、彼は何度も大丈夫だと言って聞かす。
メアリは自分が先日ひどいことを言って彼を傷つけたという罪悪感を持ちながらも、助けられた安堵で彼へときゅっと抱きついた。
クロッカンの身体が、ぴくりと揺れる。触れないようにと宙をさまよっていた手が、ためらいの末に、メアリの背中を二回優しく叩いた。
「痛いところはあるか?」
「足が、少し……でも……」
「でも?」
「こ、怖かった……」
もしも誰にも見つけてもらえていなかったら。その不安が一番大きかったのだ。
未だ震えるメアリを、クロッカンがなだめるようにやんわりと抱きしめた。力を入れると壊れてしまうと思っているのか、はじめて小動物でも抱くような力加減だ。不器用なその優しさに、メアリの心から恐怖と震えが少しずつ消えていく。代わりに、別の感情に占められ、胸の奥がじんわりと熱であたためられていった。
抱き合い、自分たちの世界に入り込んでいたメアリとクロッカンに、なんの音沙汰もないことで焦れた他の人たちが地上から声をかけてきた。
「大将ー! 引き上げますよー?」
クロッカンがはっとしてメアリを引き離すと、自分の身体から縄をほどいてメアリの身体へと巻つけた。
「足を怪我してる! そっと引き上げろ!」
「「了解です!」」
数人がかりなおかげで、メアリの身体はすんなりと持ち上がり地上へと救出された。
彼らはメアリから縄をほどくと、穴の底へと投げ入れ、ほどなくして縄を伝いクロッカンが自力で這い上がってきた。
「歩けるか?」
メアリは立ち上がろうと試みたが、足の痛みが増して来てよろめく。
すかさずクロッカンが腕を伸ばして支え、軽々と抱き上げた。
(すごい……高い)
クロッカンの腕力にメアリが素直に感動していると、他の人からのなんとも言えない複雑そうな眼差しが注がれた。
「大将……申し訳ないですが、ものすごい……既視感が……」
クロッカンはなにかに思い当たったのか、心の底から嫌そうに顔をしかめる。
「あの下心しかない男とだけは一緒にするなよ」
とはいえ、緋色の髪の少女を抱っこする軍服の男。
彼と重ねてしまうのは仕方のないことだった。
だが人望の度合いが違うので、クロッカンをやましい目で見る者はいない。そして実際彼から発せられるのは、明確な人助けの空気のみだ。
「どうしますか、大将。じきに夜になりますよ。それに雲行きが……」
その言葉と同時に、メアリの頰へと、ぽつりと滴が落ちてきた。西日を飲み込む灰色の雲によって、森は不気味な雰囲気に包まれはじめていた。




