章1(視座№:A1) その5
祖父の部屋まで行くには墨染邸をかなり移動しなくてはいけない。
途中で必ず若い衆や幹部とすれ違うことになる。知らないオッサンが普通に家を歩いていることは慣れることもなく苦痛なのだが、生まれたときからこうだから仕方がない。
墨染邸二階、奥座敷。
タバコの煙で目がしみる。前も見えないほど曇った部屋の中では、男たちが麻雀をしている。
「えーと念のため賭博は違法行為です。この作品は違法行為を助長するものではありません」
「ぼそぼそ何を言っとるか」
そんな祖父はふすま一つ隔てた座卓で札束の勘定をしていた。咥え煙草の灰が今にも和服に落ちそうだ。
墨染征義。御年九十九歳。墨染組の初代組長であり、戦後の復興期に組をここまで牽引してきた裏社会の最古参兵である。血のつながった祖父とはいえそこはかとなく緊張はする。
「じいちゃん、話があるんだけど」
僕は祖父の前に正座した。
あらためてその偉丈夫ぶりは圧巻だ。身長一九〇センチ。背筋力四〇〇キロ。現在もって人類最年長、霊長類最強のレスリング選手でもある。異世界の連中から『神』扱いされるのも納得せざるをえない。どう見てもそこにいるのは白寿の老人ではない。
「言わんでいいぞ。ミラから聞いた」
小さな老眼鏡をうつむかせ、祖父の眼光が鋭く僕を見る。
反対されるだろう。『テンペスト』対策に組を動員すれば家の守りが薄くなる。それ以前に、孫にすぎない僕のために組の力を使うなど言語道断――。
「在天、そうまでして戦う必要はないんやぞ。本来戦わにゃならんのは、この俺やからな」
驚いて、僕は首を振った。
「無理なんてしてないよ。僕が望んで戦わせてもらってるんだ。テンペストは――父さんと母さんを殺した」
『神罰代行』が今の形になる前だったから、犯人は分からない。
だから殺す。
あの黒い飛行機に棲み着く蛆虫どもを。全員殺せばきっとその中の誰かが犯人だ。
祖父は渋面で言った。
「なおさら、やめておけ。理由が報復だけならな」
僕は明確な意思において首を振る。
「復讐だけじゃない。あいつらを倒して、じいちゃんと、この組を守りたいんだ」
祖父も首を振る。
「ワシらに守る価値なんかあると思うか?」
「それは」
「そうやないやろ。一番の理由を、まだ言っとらんやろ」
『テンペスト』は祖父を殺し、墨染組を潰すために攻撃してくる。
この組織を守ることは、異世界における組の権益を守ること。すなわち、
「……翠玲を、守りたい」
翠玲の生活を保証すること。
すべては繋がっている。
祖父は頷いた。どっしりとした豊穣なバリトンが響いた。
「ワシのことは気にせんでいい。好きにやってこい」
「ほ、ほんと? ありがとう!」
思わず抱きつきそうになった。膝立ちで前のめりになったところで止めておく。
祖父は側にいた若い衆を呼ぶと、札束の入った金庫を手渡して出て行かせた。
「そんなことより、たまにはやらんか」
祖父は煙草を潰すと、後ろの桐箪笥から花札を出して、新しい煙草に火をつけた。
「あ……でもこれから三田に行かなきゃいけないから……」
「30文先取で」
僕は壁の時計を見上げて、しぶしぶ頷いた。
二人でするとなると基本50文先取制で、気づけば二~三時間やってるのが当たり前なので、早めに切り上げなくてはいけない。もちろんやらずに誘いを断るなんてできるはずがない。祖父のことだ、花札に誘うのは本当はもっと別の話をしたいのだろう。昔気質で素直に切り出せないのだ。
花札を配り終える。
「じいちゃんが死んだときは頼むぞ」
自分のことをじいちゃんと呼ぶ人懐っこさは自然と心を柔らかくする。
「大丈夫。じいちゃんは120歳まで生きるよ」
「ヤクザもんが天寿をまっとうできると思ったらいかん」
「でも、組を継ぐのは添田でしょ?」
この世界では血縁者はまず跡目を継がないのが一般的である。
「祖父として頼んどるだけだがな。遺言の場所は知っとるな?」
「ばあちゃんの仏壇の引き出し。保険関係の書類は金庫の中」
タネが揃ったがこいこいできそうもないのでさっさと下がる――1文だが勝ちは勝ち。
ぱしん、ぱしん、と札が重なっていく。
良い音だ。博徒は粋を解し風流であってしかるべきだ。ふすまの向こうからは絶えず雀牌の音がしているが、あれは騒がしすぎる。口には出さないが祖父も同じらしく、雀卓を置いてからというもの自ら賭場に立つことはめっきり少なくなった。
「学校はどうだ」
「上手くやってるよ。昔から教えられてきたし、そのへんは安心して」
「ああ。お前に限って心配はしとらんが……それで――こいこいな」
赤三枚に青二枚、山札から青の短冊を掻っさらう祖父。マイナス7、と僕は勝負ごとに収支を記録していく。
祖父は新しい札を配り終えると言った。
「それで……翠玲とは、上手くやっとるか」
剛毅な祖父が急に遠慮がちに聞いてくる。
それこそなんとも、わかりやすい本題の入り方だ、と思った。
「仲は悪くないよ。あくまで僕がそう思ってるだけで、向こうがどうかは分かんないけどさ」
札は柳の雨。
取れるうちに取っておくけど雨四光にしかならないからいらんのだよな。五光? そんなものはない。もし僕にどちらかの役ができれば、今の負債はプラスに転じるけども、その前に祖父が上がるだろう。
「じいちゃんはなんで、翠玲を引き取ろうと思ったの?」
長年の疑問を聞いてみることにした。
すると祖父の肩の動きが止まり、札に落としていた目が僕を見る。
「覚えとらんのか?」
え? まるで僕が知っているかのような口ぶり。
まさかの返答に、少々控えめに頷く。
「翠玲が来た日のことはある程度覚えてるけど、どういう理由でうちに来たのかは知らない」
祖父は、なぜかどこか安堵したような表情になり、再び札を重ねた。
「そうやったか。そうやなあ……あれはたしか、在天が熱で病院に運ばれた日やったな。病院の前の道で事故しとってな。そこを通りかかったら、在天がいきなり潰れた車に向かって『じいちゃん、あの子を助けて』って言ったんや。ワシら全員、驚いたのなんの」
「それって、僕が七歳のときの……っていうか、翠玲の両親が亡くなった事故の話?」
「おうよ。で、若いモンを降ろして潰れた車の中を調べたら、本当に子供がおってな。それが翠玲やった」
僕は札を置くのも忘れて唖然となる。
なんて巡りあわせだ。十年前のあの日、病院に運ばれたことは聞いていたが、まさか翠玲の両親が亡くなった事故現場にも居合わせていたなんて。
「現場が病院の前だったこともあってな、救急車を待つより早く、お前と一緒に翠玲を運んだんや。――あとで聞いたら、もし救急車を待ってたら翠玲は死んどったらしい」
つまりそれは、僕が彼女の命を救っていたことになる。
つまりそれは、運命の引き合わせだ。
やばい、ドキドキしてきた。
「全然、知らなかった……」
「そんなこんなで、翠玲を引き取ったのは、お前がそうしてくれと頼んだからや」
そんな大事なことをどうして覚えていなかったんだろう?
いや、冷静になってみれば無理だ。おそらく高熱で朦朧としていた僕の意識はそこになかった。翠玲を救ったのは神の意思だ。異世界神でも現人神でも癲癇発作でもない、本物の神の意志――そう思わないと辻褄が合わない。
祖父は遠くに目を向ける。乾いた唇から細く紫煙を吐き出す。
「……いのちは救ったが、あの子には悪いことをした……」
一人でときめいている僕に、その声が届くことはなかった。
もし聞こえていたら、それは昔に思いを馳せたひとりごとのようだった。
ただ虚空に向かい、謝っているようにさえ聞こえただろう。
遺児が施設暮らしを経験せず引き取られることは不幸中の幸いとはいえ、墨染に引き取られたことは間違いなく不幸中の不幸である。たとえ祖父が、翠玲に対して裕福な家庭のそれ以上に何不自由ない生活を保証していても、それは不幸である。
何一つ自分で選べなかった翠玲の心境を想像することさえ僕にはできない。
なぜなら十年経った今でも、翠玲は実の両親の話をしない。せいぜい、あの形見のロシアンカーフの逸話くらいだ。
しゃべらないのは里親家族への遠慮かもしれないし、亡くなった両親への負い目かもしれないし、その両方かもしれない。いつまでも死と不幸の影がつきまとう女の子、それが翠玲。
だから、僕は心に思っている。
わがままでも女王様でも金玉蹴りが趣味でも、彼女が笑っていられるならそれは男として耐えるだけの価値がある。
山札をめくる。
「五光」
祖父の引きがあまり良くなかったので揃ってしまった。これで30文先取で僕の勝利。臨時のお小遣いが、賭けてません。賭けてないよ。何も賭けてないから大丈夫。
「強くなったな、在天。――ここまでにするか。引き止めてすまなんだ」
祖父は自分から切り上げた。
普段絶対に負けで終わらせないはずの祖父が、この日はなぜか潔く負けで終わらせた。
後から思えば、それは予兆だったのかもしれない。
しかしそのときの僕は、少しも不思議に思わなかった。愚かしくも翠玲との間にある運命的な巡り合わせに心をふわふわさせていただけだった。
残りの煙草を吸いきって、祖父は言った。
「在天。翠玲を幸せにしてやってくれよ」
「する。言われなくてもする。約束するよ」
それが墨染征義と交わした終の言葉になることを、この僕はまだ知る由もなかった。
(続く)