章1(視座№:A1) その2
携帯の緊急アラームが鳴り響いた。
授業を終え、僕たちは昇降口で靴を履き替えているところだった。
僕も浮葉さんも部活には所属していない。なぜなら、
「『神罰代行』――」
いつ申請されるか分からないからだ。
僕は携帯画面の『受諾』に触れる。
それは簡単に言えば僕たち『墨染組』と神政メーレイジア帝国のマフィア『テンペスト』との殺し合いだ。なお『マフィア』は犯罪組織をまとめた一般名詞的な意味で使っておりシチリア島の特定集団を指すわけではない。
僕は力のない人間が数集まっただけで強くなったと勘違いして好き勝手やりだすそういう群れが嫌いだし、そういう群れに一人の力で勝つことができなかった自分がもっと嫌いだ。
車に揺れられながら右手を眺める。手のひらに裂いたような傷痕が白く残っている。
去年の7月頃だった。毎朝トイレに投げ込まれていた浮葉さんの机が、その日はなぜか体育の授業で教室をあけた後に再びトイレに投げ込まれていた。もちろん鞄も一緒に水浸しだった。
それまでどんな嫌がらせにも耐えていた彼女だったが、とうとう蓄積された怨念が爆発した。鞄の中には父の形見の革製パスケースが入ったままだったのである。瞬間的に制御を失った彼女は嫌がらせをしていたグループの女子生徒に襲いかかった。
閃くバタフライナイフ。
騒然となる教室。
床に落ちる血。
それでも、復讐は成就しなかった。
間一髪のところで僕がナイフを握りしめていた。そして呆気にとられる浮葉さんの隙をついて気絶させた。
ほんの一分前まで仲間と楽しく談笑していたグループの女子生徒は凍りついていた。僕は無言でその間抜け面を一切の躊躇なく殴り飛ばし、二度とこんなことをする気が起きないよう馬乗りになって殴り続けた。女を殴るのは男のすることではないが、女を守るために戦わないなら男ではない。
止めに入ろうとした生徒もいたが、全身に修羅を漲らせた僕が睨み返すだけで自然と人の波が引いた。
僕はその場で電話して姐さんに車を回すよう頼んだ。
病院へ向かう車の中で浮葉さんは目覚めた。事情を把握したあと、彼女はトイレの水をたっぷり吸い込んだパスケースを指でつまんで、あえて明るく言った。
「はぁ、油断してたなぁ。お父さんが死ぬ前にくれた唯一のプレゼントだったんだけど。肌身離さず持っていようって思ってたのに、なんでかなぁ」
「よければ、同じものを用意しようか?」
「気持ちは嬉しいけど、これロシアンカーフだから」
「げッ……」
思わず声が出た。その琥珀色のなめし革は、一九三七年、英国サウザンプトン沖に沈んだ帝政ロシア輸送船メッタ・カタリーナ号から引き揚げられた幻のロシアンカーフの一点物だった。無知というのは恐ろしい。あの女子生徒は顔が元に戻らなくなるまで殴っておくべきだった。
「力になれなくてごめん」
「良いよ。いつまでも過去に囚われてちゃいけないってことだから」
浮葉さんは走っている車の窓を下げると。
吸い殻のように父親の形見を捨てた。
小さな茶色の革片は道路に落ちて、あっという間に見えなくなった。
ぎょっとした。その希少価値以前に、唯一の家族の形見だろ、何してるんだお前――。
そんな咎めの言葉さえ出てこないほど呆気にとられるが、同時に彼女ならやってもおかしくないという思いをどこかで抱いていた僕は痺れた。
僕にできないことを平然とやってのける。それが一般の感覚に照らし合わせて薄情だとか非常識だとかは関係ない。
彼女はエスコートされる時のように手を差し出した。
「代わりに、そばにいてくれる?」
「血がつくよ」
「良いよ。あるま君だけ汚れないで。私も一緒に汚して」
凄絶とした言葉に喉が鳴った。
濁った微笑みに心がしめつけられる。その顔を見るのは、手のひらの傷の痛みよりよっぽどつらかった。
その一方で、彼女を独占できる暗い喜びが大きくなるのを感じる。義の心がすり替わっていくのを感じる。
この少女は誰かがそばで押さえていないと、きっとすぐに自分を壊してしまうに違いないと改めて強く思う。
同時にもう一つの心の声が呼びかける。ダメだ――邪な気持ちを持つな。僕は、僕が、彼女を幸せにしないといけない。
その事件以来、浮葉さんに対するいじめは綺麗さっぱりなくなったが、僕らに関わろうとするクラスメイトもいなくなってしまった。
「…………」
つい過去に思いを馳せていた。
車窓の景色が流れていく。そこはもう神罰代行の指定場所へ向かう車の中だ。
運転するミラヴェル姐さんのインカムに通信が入り、姐さんがよく通る声で伝えてくれる。
「『天嵐』、降下を確認。東京上空に出現します――」
車がスピードを上げ、光線のように走っていく。向かう先は麻布十番だ。
(続く)