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章1(視座№:A1) その1

 僕が翠玲と出会ったのは10年前の寒い冬の日だった。

 幼い高熱で数日入院していた僕が墨染邸へ帰ると、間もなく座敷に呼ばれて翠玲を紹介された。

 祖父から少し離れて、座布団にちんまりと正座する女の子。

 初めは、その痛々しい姿に面食らった。頭と腕に包帯を巻いていて、消毒と湿布の臭いがして、生きる希望さえない印象を受けた。

 祖父からは「不幸な事故に遭った翠玲を里子として引き取った」と聞かされた。

 前代未聞だ。妾の子供ならともかく翠玲は完全によその子で、カタギの他人様(ひとさま)の子供だった。

 周囲の反対は当然あったし、真相は定かではないが祖父は公にできない手段で翠玲を引き取ったと噂する者もいた。

 ただ僕がはっきり覚えているのは翠玲の印象だけだ。

 それは同年代の子供とは明らかに異なる魅力だった。

 顔を上げた翠玲と目が合った瞬間、僕は心臓を掴まれたようになって、身動きもとれなくなってしまった。

 急に恥ずかしくなって、何も言わず立ち上がり、座敷から逃げ出した。

 まだ小学校に上がるか上がらないかの僕には、その強烈な身悶えが何か分からなくてモヤモヤしたけれど、今にして思えばなんてことはない。一目惚れだった。


×     ×


 数日前まで桜が舞っていた窓の景色は、気づけば風そよぐ若緑に変わっていた。

 僕と浮葉さんは、購買部の増改築に合わせて新しくできたカフェスペースのカウンター席に並んで昼食をとっていた。

 白を基調としたミニマルなカフェスペースは新しいだけあって順番待ちの列ができるほど盛況だ。

 キラキラした女子グループや一回り大人っぽく見えるカップルたちといった明らかに上位層の生徒たちが、提携している全国チェーンのコーヒー片手に談笑する中、ただ一人、浮葉さんだけが、まな板をカウンターに置いてバタフライナイフで林檎を剥いていた。 クロームシルバーの持ち手(ハンドル)がペンのクリップに偽装されており、畳んで胸ポケットに挿すと二本並んだボールペンにしか見えない。あろうことかカフェ商品は何も買っていない。

「あのね浮葉さん。そういうことするからクラスで浮くんだよ? 分かってる?」

 周りの目が気になって、僕はさりげなく忠告する。

 翠玲のことを『浮葉さん』なんて他人行儀に呼ぶのは無用な詮索をさけるためだ。里子は養子ではないため名字は変わらない。しかし学校では通り名として名字を一緒にすることも多いそうだ。それをしないのは浮葉さんの希望でもあるが、もっと言えば墨染なんて目立つ名字にしたところでメリットは一つもないからだ。

 浮葉さんは無言でバタフライナイフを逆手に持ち替えると、まな板の上のウサギ林檎に振り下ろした。

 まな板まで突き刺さる。

 その危険きわまりない音にカフェスペースの空気が一瞬だけ止まる。

「どーぞ?」

 林檎の突き刺さったナイフを僕に向け、妖艶に首をかしげる浮葉さん。

 僕は緊張して喉を鳴らした。だって怖いし。ナイフだよ?

 いくら僕が特殊な事情を抱えているからといって、命を狙われることに慣れているわけでもなければ凶器を向けられるのに慣れているわけでもない。

 たとえば浮葉さんが僕を殺そうとしているとしよう。僕が林檎に向かって口を開いた途端、そのままブスリと喉に持って行かれる可能性だって充分に考えられるわけだ。もし殺す意思がなくても、口を開けた瞬間、カフェスペースに紛れ込んでいたヒットマンが僕の背中を押したら? やっぱり喉まで一直線だ。ここは丁重に断ったほうがいい。

「私の林檎が食べられないっていうの?」

「君を停学にしたくないんだ」

「欲しくないの?」

 誘惑に負けたあとの林檎は甘みが熟成されて美味だった。

 春先の林檎は袋をかけて育てた有袋ふじである。旬の時期も含めて、浮葉さんの遠い親戚が青森から送ってくれるのだ。

「こんなのが知恵の実だったら、そりゃ食べるよね」

「知恵の実が林檎だというのは俗説でしょ。それに本当に知恵がついていたならアダムとイヴは楽園を追い出されないように頭を働かせたはずよ。人間は今も昔も『自分に知恵がついた』と思い込んでる可哀想な土人形にすぎないの。蛇に騙されて全てを失っただけ」

 その理屈だと林檎をくれる浮葉さんが蛇になっちゃうけど。

「今、私のこと蛇だと思ったでしょ」

「うん」

「おバカさん。どう考えても私は楽園を追い出されて可哀想なイヴじゃない。蛇はあの女」

「姐さんは関係ないじゃん。……ん? それならアダムは僕?」

「はい、最後の一個」

 手ずから林檎を口に押し込まれた。

 視線を向けていた生徒たちはすでに平常に戻っている。

 浮葉さんはこなれたテクニカルスピンでバタフライナイフを収納すると、カウンターに置いた薄茶色の紙袋から新しい林檎を取り出した。

 長く美しい睫毛を伏せて、少女が林檎に齧りつく。

「んふっ」

 唇の端から泡のような水分が溢れ、細い顎に伝う。

 小さく綺麗な歯形をつけられた林檎の痕は、散らされた純潔のよう。

 ふと、浮葉さんが含み笑いと流し目で僕を見た。

 僕は反射的に視線を壁に向ける。

 ゆるふわっとしたツインテールが揺れ、浮葉さんは指先をくわえてねぶる。可愛い舌先が淫靡に唇を一舐めする。

 ……絶対に意識してやってる。僕が盗み見してしまった罪悪感で困る様子を眺めて楽しんでいるのだ。

 案の定、首と肩の付け根あたりがむずむずしてきた。

「も、戻ろう。あとつかえてるし」

 席を立つ。人が多く狭いせいで、たまたま後ろを歩いていた生徒とぶつかってしまった。

「とっ、すみません」

「あっぶねーな……」

 まだ昼休みなのにサッカー部のジャージを着ている男子の上級生だ。

 僕の耳が、瞬時に周囲の黄色い反応を拾った。

【女子1】「あの先輩超イケメンじゃね? 誰?」

【女子2】「えー、知らないの? サッカー部のキャプテンでエースストライカーの蜂谷(はちや)さんじゃん!」

【女子3】「うちのサッカー部が全国大会で三年連続優勝したのって蜂谷先輩の活躍らしいよ」

【女子たち】「かっこいい~、付き合いた~い」

 そのサッカー部のキャプテンでエースストライカーの蜂谷先輩が首をひねる。

 なぜか浮葉さんの横顔を覗き込んで、次の瞬間たいそうわざとらしく声を上げた。

「あれ、浮葉さんだよね? 奇遇だね! 今ひとり?」

「……」

 一方の浮葉さんは話しかけてきた彼を完全に不審者を見る目つきで見上げる。

「俺のこと覚えてない? サッカー部でキャプテンやってる蜂谷。この前一緒に話したよね?」

「ええ……蜂谷……先輩?」

 絶対覚えてねーな。

 相手が先輩だと分かったのは下履きの色を見たからだ。

 普通なら諦める雰囲気だろう。僕なら相手女性にこんな顔された時点で謝って逃げてしまう。

 けれど蜂谷先輩の中ではバッチリGOサインが出たらしい。

「やっぱり覚えててくれてたんだ! じゃあさ、ちょっと場所変えて話そうよ! ここ落ち着かないしさ」

「え、でも……」

 助けを求める顔で僕を見る。

 学校での彼女は高機能社会不適合者だ。僕がやってあげないと購買でパンひとつ買えない。

 仕方ない。

 ため息をついて席を立ち上がり、たまたま隣に居合わせた顔見知りを装って二人の間に割り込もうとした。

 一見完璧に思われた作戦だが、一つだけ誤算があった。

 相手は類まれな動体視力と空いたスペースに入り込むアグレッスィヴなフィズィカルを持っていたのだ。

「どこの誰か知らんけど、アシストサンキュー! 悪いな!」

 先輩はイケメンスマイルを浮かべると僕が立った席を瞬時に奪いラボーナの格好で座ってしまった。

 アグレッシヴなフィズィカルに突き飛ばされて僕は三、四歩離れたところまで後退させられる。その距離は儚く遠かった。

 浮葉さんは諦めて、先輩の相手をすることにした。

「……話って、なに」

「それは――この前の返事のことなんだけどさ」

 ここまで警戒心を露わにされても涼しい顔で会話できるのはさすがだ。

「他に好きな人がいるって言ってたよね。でもどう考えても俺より上のやつっていないじゃん? 絶対、俺のほうが翠玲ちゃんを楽しませてやれる自信があるんだよね。だから考え直して、俺と付き合ってみない?」

 やっぱりそういう話だったらしい。その強引さと不屈の精神がモテる秘訣なのだろう。実践しようとは思わないけどリア充には見習うべきところがたくさんある。

 僕はテレパシーで彼岸からエールを贈った。

 がんばってください先輩、僕には浮葉さんを楽しませてあげる自信はありません。

「……どのくらい本気?」

「えっ、もしかして付き合ってくれるの? いいよいいよ信じてちょうだいよ。今からでも楽しんじゃう?」

 おお~、と先輩の友人らしき上級生たちも囃し立てる。

「場所を変える必要はないわ。ここで証明して」

「は?」

 浮葉さんは立ち上がり、蜂谷先輩の両手を取る。それぞれの指を絡めてつなぐ。童貞なら惚れてしまうような恋人繋ぎだが、向かい合っているため実際は手押し相撲のようだった。

「脚を開いて。肩幅でいいわ」

「あの、翠玲ちゃん、何を?」

「全力の金玉蹴りを20回、それに耐えたら付き合ってあげる」

「まっ、待って、ちょっと待って!」

「私を楽しませるんでしょう? 意識がなくなる前に言っておくけど、もし付き合ったら私のことは『浮葉様』と呼ぶこと。名前で呼んでしまったら一枚ずつ爪を剥がすこと。私の命令には絶対服従すること。私の言葉は法律より重い、天皇皇后両陛下の言葉よりありがたいと思いなさい。そして私の浮気は黙って認めること。あなたが浮気したら一本ずつ歯を抜くこと。許可なく私に触れないこと。私に話しかけないこと。私はあなたに何もしてあげないけど、あなたは私を養うために人生を捧げること。できなかったら去勢すること。じゃあ蹴るから動かないで――」

「意味わかんえねえって!」

 蒼白になり蜂谷先輩は手を振りほどいて逃げるように立ち去った。よく耐えた方だと思う。

 実は浮葉さんは言い寄ってくる男子全員に同じことをやっているのだが、被害に遭うリア充が後を絶たない。きっと仲良しコミュニティで固まっているせいで外の情報が入らないのだろう。

「はぁ……つまらない男に時間を使ったわ。金玉を蹴る以外にどんな楽しみがあるの。あるま君なら30回はいけるよね?」

「29回が最高です……」

 何がでしょうね。勘違いされると困りますが、僕と浮葉さんの関係はとても健全です。

「ところで――」

 浮葉さんが椅子に腰を下ろして、脚を組む。

 僕は反射的に股を閉じた。性奴隷の自覚が足りないと謗られても仕方がない。

「……」

「あ、いや、これはね。なんというか条件反射というか」

「ふうん」

 ジト目で背筋がぞくぞくする。

「あの……浮葉さんアナタ、添田(そえだ)から『沢村忠の再来』って呼ばれてるの知ってます?」

「沢村? キックの鬼?」

「そう。サワムラーの元ネタ」

「なんで添田さんが」

「もしかして添田の金玉も蹴っ飛ばしたりしてないよね?」

「し、してるわけないでしょ!? 私だって常識あるわよ! 実際あるま君のだって蹴ったことないでしょ!?」

「ムキになって反論するところが怪しい」

 浮葉さんは憤って、カフェスペースを出て行ってしまう。

 うわぁ、めんどくせえ。と思いながらそれでも慌てて追いかける。

 しばらく廊下を無言で並走したのち、浮葉さんが口を開いた。

「どうして助けてくれなかったの?」

「助ける?」

 僕がすっとぼけると浮葉さんは有無を言わせない態度で僕を止めた。

 進行を妨げるように僕の前の壁に手を押しつけた。

「あるま君が守ってくれれば、あんなことしなくて済んだのよ? さっきの……なんて名前だっけ?」

 浮葉さんが僕に迫る。90度回転させられ、背中が壁に触れた。

 それだけでなく、彼女は僕のネクタイを引っ張りながら、見上げるように顔を近づけてくる。

 僕は視線を逸らす。首がさらに絞まった。

「ねえ、『神様』。あのとき(・・・・)は守ってくれたのに、どうして?」

「神の教えは、僕たちの行為ではなく一方的な救いと懲罰だから」

 太ももの間に膝を入れられた。身体の外に出た柔らかい場所が圧迫され、変な声が出そうになる。

「だったら、私も懲罰していい?」

「だ、ダメだよ翠玲(・・)。こんなところで……」

 白魚のような指が太腿をなぞってくる。情けない感情が次第に溜まって大きくなっていく。

 手が浮葉さんの肩に回ろうとする。指先がぴくぴく痙攣している。いま彼女に触れたら、たぶん僕は浮葉さんを守れなくなる。そう決めた過去の自分に嘘を付くことになる。だからといって大人しく『蹴鞠』はイヤだ。

 理性の限界が来る前に僕は謝っていた。

「ごめんっ」

「謝ってどうするの?」

「その……ごめん」

 身体が離れる。

 浮葉さんが失望を漏らす。

「目の前で困ってる女の子も守れないなんて、あるま君は犬以下ね。男として役立たずなら女の子になれば? そしたら百合えっちしてあげるのに」

「そのまま犯してくれればいいから」

「最初から犯される方を選ぶのね。偉いわ。それとも、私が怖いだけ?」

「概して男は女になってみたいものですよ」

「嘘ばっかり。男が男の恩寵を手放すなんてありえない。そんなに言うなら、今度女装デートしましょう。それで許してあげる」

「本当に?」

 見つめること、数秒。浮葉さんは緊張を解すように柔和に笑んだ。

 滑らかでひんやりした手が、優しく包むように頬に触れた。僕は廊下の両端に目を配る。よかった、誰もいない。

「冗談よ。どんな情けなくても私はあるま君のこと見捨てたりなんかしない。私はそんな弱いところも含めて、君のことが大好きだなんから。ふふ。大好き……」

 彼女はねっとりと僕に抱きつき、胸に頬を寄せた。

 ……すごく怖いです、浮葉さん。


(続く)

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