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章6(視座№:A4) その3

 翠玲がナイフを振りかざす。

 だがその白く細やかな腕に、手の平ほどもある鼠が飛びかかった。

「きゃっ!」

 突然の襲撃に翠玲はパニックになって腕を振る。ハムスターが離れると、今度は地響きがした。

「な、何……?」

 翠玲は恐懼を浮かべて天井を見上げる。

 地響きがしたのに天井に目が行くのは理由があった。

 直後、重圧とともに天蓋が薙ぎ払われた。

 部屋の上半分が持っていかれ、あらゆるものが床に散乱する。

 天井が落ちる。

 柱が折れる。

 倒れた本棚が僕の脚を巻き込んで、それらが幾重にも交錯した。

 僕は苦鳴を漏らす。

 挟まってしまった脚は折れてはいなかったが微動だにできず。

 見上げた空の間隙に、黒鉄の竜顎(あぎと)が現れた。

 その爬虫類的な眼が翠玲を捉え、獲物がいる巣穴を襲うように鼻先を突っ込んだ。

 翠玲が床を這って逃げようとするが、『天嵐』は容赦なくその背中を押し潰す。

「あっ、が……っ!」

 膝から下をトラバサミ状の分厚い顎に挟み潰され、翠玲は声にならない声で苦悶した。

 それでも翠玲は歯を食いしばり床に爪を立てて抗う。伸ばした手の先で光沢のある爪が剥がれる。

 僕は、とっさに、翠玲の手を掴んだ。

「あ、あるま君、どうして」

「言っただろ、僕はどんな翠玲でも受け入れる。こんなところで持っていかれて・・・・・・・たまるか……!」

 『天嵐』が首を引く。右手を僕に渡したまま翠玲が宙に浮く。

 『天嵐』がなぜ出現したのかは分からない。

 殺すつもりならとっくに翠玲は噛みちぎられているはずだ。

 目的はマシェル・イヴランタンの回収なのだろう。だとすれば1000万分の1の可能性で目の前にいるのはマシェルなのか? それとも区別がつかずに両方連れて行くつもりだろうか。

 僕は首を振る。

 今はどうだっていい。

 機竜は獲物が宙に浮いたままなのを不審に思ったのか動きを止めた。

 しかしそれは諦めたわけではない。

 鋼鉄の喉奥で低い唸り声が発生した。

 否、それは生き物の発する音とは根本的に違うものだ。

 ゆっくりと始まり。

 急速に回転数を上げていくような、うねり。

 不吉な轟音となり、それは耳をつんざく。

「あるま君」

 けれど翠玲の言葉ははっきり聞こえた。

「ダメだ」

「まだ何も言ってないわ」

「ダメだよ。何を言われても僕はお前を離さない」

 翠玲は少し考えて再び口を開く。

「私のこと、どのくらい好き?」

「僕の世界のすべてだよ」

「そっか、それなら」

 翠玲は笑顔で言った。

「私、君の世界を壊せるね」

 持ち上がる左手には磨り上げた3インチ。

 クソ! まだ持ってたのか!

「これで全部奪ったことにしてあげる」

「やめろ!」

 手の甲に刃が突き刺さる。反射的に指の力が抜け、掴んだ感触が消えた。

「翠玲!!」

 『天嵐』が勢い首を振り上げた。

 宙に舞う翠玲。

 竜の顎が130度以上に開かれる。

 月を背に投げ出された翠玲の身体が、竜の喉奥の虚空に引きずり込まれた・・・・・・・・

 最大出力で回転するジェットタービンが刹那のうちに少女の華奢な身体を粉砕する。

 バシュッ、と水風船が破裂するような音がした。

 打ち水を撒いたように血の雨が僕の上に降り注いだ。

 生温かい液体がぬるりと頬を垂れていく。

 一瞬前まで僕の手を握っていた翠玲が、人類共通の要素にまで分解されて、この世から個を消失させたという揺るぎない事実。

 心拍が上昇し、呼吸が浅くなり、全身から緊張性の汗が噴き出す。

 だがそれは死の恐怖ではない。

 僕の内面を覆い尽くした喪失感と悔恨は、この世でもっとも大切な個性が失われたことに対する怒りだ。

 『天嵐』はここでの役目は終えたとばかりに顔を上げて外に向けた。庭から何かを吸い上げるように竜巻を飲み込みはじめる。

「待て、行くなっ! 僕を(・・)見ろ!」

 一方的な蹂躙に何もできない弱さ。

 それは墨染の人間にとっては絶対に許されない、最も遠ざけなくてはならないものだ。

 僕は本棚をどかすために手を掛け、渾身の力で押し返す。

「……くっ!」

 びくともしない。

 力が抜け、広げた手が床に落ちた。

 どうやってもダメだ。

 クソだ。全部クソだ。

 諦めるしかないのか。

 そのときだった。

 不意に左手に熱を感じた。

「こ、これは……」

 薬指の根本が灼熱に輝きはじめる。

 触れた物体を最善に保つ神咒『金輪奈落』が白く輝きを増し、臨界を迎えた瞬間、音のない爆発へと変わった。

 夜を裂く閃光を受け『天嵐』が轟とした悲鳴をあげてのけぞる。

 僕にはただ眩しいだけだ。

 閃光が収まり目を開ける。

 手に何かが触れていた。

 それは柄だった。

 刃長65センチ、防塵二分割口金、柄糸一貫巻き、全長100センチの三式軍刀――。

「ふ、『不倶戴天』!?」

 ハッとして見ると、倒れた本棚のそばにアクリルケースが転がっていた。

 サスラがくれた、砕けた『不倶戴天』と『金剛不壊Ⅱ』を収めていたケースだ。本棚が倒れた拍子に、中身が散らばったのだ。

 不思議なことに、『金剛不壊』の残骸も消えている。

 柄を握り、鞘をわずかにずらす。

 その刃の色が金と銀を混ぜたように輝いていた。

 二つの神咒が混ざったのか?

 いや。サスラの言葉ではもう『不倶戴天』に神咒の効果はない。

 金剛不壊が混ざっている。

 だが、ならば、あるいは……。

 僕は明確な攻撃の意志をもって軍刀を振るった。

 刃先が触れた本棚が百個以上の木片に分かれて砕け散った。

 間違いない。

 これは『金剛不壊』の効果を受け継いだ軍刀だ。

 『不倶戴天』は神咒以外を壊すことができないのだ。

 僕はようやく身体を動かせるようになる。

 閃光による目眩から回復した『天嵐』が、明確な敵意でもって僕を睨んだ。

「ああ、それでいい。お前は僕だけ見てろ……」

 僕は構えもせずただ座り込む。

 床板に刀を突き刺して胡座をかく。

 武器があるから、なんだというのか。

 戦うつもりはない。

 ここで奴と戦って何になる。

 それより翠玲と同じように飲み込んでくれたほうがずっとマシだ。

 祖父が死んだときもこんなふうに敵と向かい合ったのだろうか。泰然自若とした格好で相手に眉間を撃たせたと聞いている。

 愛する人に先立たれた人間の気持ちが今なら分かるが、古くに祖母を亡くした祖父はどんな気持ちだったのだろう。

 一つ言えるのは、凶弾さえ受け入れるということは未練なく死んだということだ。

 僕が聞いた時、祖父の心残りは翠玲のことだった。

 その翠玲が自らに銃口を向けた。

 だが祖父は叛逆とは取らなかったはずだ。むしろ独り立ちの第一歩だと感じたに違いない。

 不敵に笑んだに違いない。

 褒めたに違いない。

 それでこそ墨染の女伊達――もう思い残すことはない、とか言って。

「ああ、僕の負けだ。食いたきゃ食えよ」

 僕が幸せにするんだと息巻いて、結局翠玲に何もしてやれなかった。

 その機会さえ翠玲の死によって奪われた。

 翠玲を食われた時点で墨染在天そのものがすべて敗北したのだ。

 目の前の怪物には、僕を好きにする権利がある。

 そして、真横から、僕はドロップキックでふっ飛ばされた。

「良いわけ……あるかーっ!」

 美学としての諦観も厭世もすべてぶち壊すような慮外の攻撃。

 僕は面食らう。だがそれ以上に、驚きに満ちて振り返る。聞き覚えのある声に息を呑んだ。

 ああ、そうだ。

 その前にこれは言っておく。

「いきなり蹴らないって約束したよね!?」

「ふん……なによ。せっかく目を覚ましてあげたのに」

 華麗にドロップキックを決めて立ち上がるのは、その姿も、態度も、どこを切り取っても――

 翠玲だった。

 さっき死んだ翠玲がそこにいる。目の錯覚でも夢を見ているのでもない。

 何が翠玲を再生させた?

 それは刀を取り戻したのと同じことだと気づくまで時間はかからなかった。

 そう、血だ。

 神咒『金輪奈落』の効果によるものだ。

 それが翠玲の『要素』にも働いたに違いない・・・・

 自然と涙が溢れてきた。嘘みたいだ。戻ってきてくれた。この世に神はいるのかもしれない。それが異世界の神だろうと構うもんか。

 膝立ちのまま、翠玲に抱きついた。頬が緩むような良い匂いがする。

「ちょ、あ、あるま君!? いきなりこんな、ちょっと離して……っ」

「いやだ。また会えて嬉しい。はっきり分かったんだ。好きだよ。僕は、お前がいなきゃダメだ――」

 告白よりも、告解に近かった。

 僕は今まで僕自身を欺いて、それを伝えようとしなかった。

 翠玲が困惑するように左右にキョロキョロと首を振る。

「わ、私も……あるま君に話さなくちゃいけないことがある……」

「言わなくていい。祖父ちゃんのことならお前に罪はない。昔のことで僕を許す必要もない。ただ生きてそばにいてくれるだけでいい――お願いだ、翠玲」

 顔を上げた。

 ――わずかの間、翠玲の表情が悲しそうになったのを見た。でもほんの一瞬だ。

 ぎこちない笑顔で、翠玲は応える。

「う、うん……あるま君のお願いなら、私は、それで……」

「翠玲」

「なに?」

「翠玲だよな?」

 ふっと慈愛に満ちた表情で、目の前の少女は不安げに見上げる僕の頭を撫でた。

「ええ。生まれ変わったの。私がいるからもう大丈夫」

 僕は翠玲から一歩離れ、片膝をあげて、ひざまずく。

「どうしたの、あるま君?」

「もう同じ失敗はしない」

 翠玲の左手を取り上げ、自分の指から抜いた指輪を、その指に嵌めた。

「こ、こんなの、ダメだよ。よく分かんないけど、もらっちゃダメな気がする」

「断る理由を考えないで。お前を幸せにする理由なら今すぐ100個言える」

 返事はいらない。

 立ち上がり、床に突き立てた軍刀を抜いた。

 告白している間にも背景のように近づき襲いかかってきていた『天嵐』に、僕は回転を加えて軍刀を振るった。

 その鼻面に触れた瞬間、めくれ上がるように上顎を覆う装甲が破壊される。

 生体部分に癒着した装甲を破壊され、機竜はボイラーのような苦鳴でのたうった。

「邪魔をするな、爬虫類」

 僕が凄むと、暴れていた巨躯がピタリと停まる。

 何百倍も大きな機竜の()が怯えるように揺れた。

 それだけで雌雄は決した。

 『天嵐』は慌ただしく体勢を変え、垂直上昇――空中で小破した大型旅客機の姿へ戻る。

 慣性で浮遊停止し、ジェットエンジンではなくアフターバーナーを用いて超高速度で離脱した。

 脅威はあっけなく夜の彼方へ消え去った。

 壊れた屋根から夜空を見上げ、翠玲が感嘆の声を漏らす。

「撃退した……あるま君が勝った……!」

 僕はそこでようやく彼女の手を掴んだままだったことに気づく。

「あの、手……」

 翠玲が困って僕を見るが、首を振る。

「おかげでお前を前に立たせずに済んだ。お前をあいつらから守るのが僕の――」

 そのとき急に脚から力が抜け、僕は膝から崩れた。

「あるま君!」

 軍刀を杖にしてなんとか身体を支える。

 ああ、人体錬成までしたのがマズかったのかな……。

 予想以上に不明な原因による負担が身体にかかっている。

「さすがに神咒の使いすぎか……でも、少し寝れば、大丈夫だから……」

「肩、つかまって。ベッドまで連れて行くわ」

「ああ、ありが、と……」

 思考が混濁し、視界が閉じていく。

 身体が移動するのを感じながらも、ベッドに向かうまで意識は保たず、僕は目を閉じた。


(続く)

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