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章6(視座№:A4) その1

 姐さんと翠玲が部屋から出て行きしばらく経ったあと、またしても扉が開かれた。

「今度は誰だよ……え?」

 いいかげん驚くのも飽きて顔を上げると、入ってきたのは翠玲だった。

 その扇情的な薄着。

 黒のスリップ姿に目を疑う。お尻がぎりぎり隠れるくらいの短すぎる丈に思わず視線を外す。胸元はブラ状になっていて肩紐が気だるく引っかかっており、あらわになった鎖骨あたりが息を飲むほど艶めかしい。さすがに身構えて僕は身体を起こした。

 だがその登場はすぐさま恐怖へと変わった。

 右手に5インチのバタフライナイフを見てしまったからだ。

 しかも普段学校に持っていくボールペン偽装型ではない、けっこう本気なやつだ。

「ど、どうしたの翠玲、姐さんとの話はもう終わったの?」

「ミラ? どーでもいいよ、どーでも」

 さも当然のごとくベッドに潜り込んでくる翠玲。

 僕は身動きひとつ取れなかった。

「ちょ、なに入ってきてんの!?」

「ふふ、今夜は寝かさないよ」

 ぬるっとした微笑みで、翠玲はナイフを持ったまま身体を寄せてきた。

「とか、いっぺん言ってみたかったんだよね」

 すべらかなスリップ越しに、むにっとした弾力と重さが身体を圧迫する。

 姐さんに負けず劣らず柔らかい。すごく……じゃなくて!

「ナイフしまって! 危ないって!」

「ふふ……はぁ……はぁ……」

 翠玲の呼吸は少し離れても聞こえるくらい興奮しているようだった。

 寄せる体重で僕を押し倒す。

 身体の上にまたがると、彼女は頬を染め、歯を見せて微笑んだ。

 ゆるく掛かった肩紐がはらりと二の腕に落ちた。

「分かってるけど、ミラのお膳立てもあったし、今日既成事実作っちゃえば良いかなって思ったら我慢できなくなっちゃって。いけないよね、こんなこと……でも、いけないことだって思うと余計に我慢できなくなるの。ふふ」

「なんで……お前を傷つけること、僕はしたくないのに……」

 翠玲の眉がわずかに歪んだ。

 そして僕の口元を押さえつけるように人差し指を乗せ、唇を閉じさせる。

 もう一度惚れ直してしまうような優しい声で翠玲は僕に語りかけた。

「私ね、あるま君のことずっと好きだったんだよ」

「言うな……」

 今さらだ。そして今だに反則だ。

 恥ずかしさで顔を覆いたくなる。

 けれど翠玲のふくらはぎが両腕をベッドに押し付けて僕に直視以外を許さない。

 スリップの裾が持ち上がり、あらわになった太ももとその中央の奥に目が行ってしまう。

 見ないように目を閉じると。

 ――翠玲が両手で首を絞めてきた。

「ぐ……っ」

「ねえ? 私はあるま君を傷つけたいの(・・・・・・)。好きすぎて壊したいの。いいよね?」

「い……良くない」

 良いと言いかけて慌てて否定する。

 それは甘噛みの首絞め版だ。手を乗せて体重をかけられるだけだが、かなりの苦しみを伴う官能だ。

 翠玲はすげない僕の態度に、まだ可愛らしいポーズで頬をふくらませる。

「もー。カタいこと言わないで。お祖父ちゃんも死んじゃったし、私たちのこと咎める人はいないよ? お目付け役のクソ女がウザイなら追い出せばいい。なんなら添田さんに頼んで埋めてもらう?」

 ひんやりしたものが伝う。

 ぞっとする妖艶な笑みをたたえ、冷たい手のひらが僕の頬を撫でた。

「添田は、そんな馬鹿なこと、しない」

「するよ。あの人、私の言うことなら何でも聞いてくれるの」

 冷たいものが胃に落ちる。

 くふふ、と可笑しさをこらえきれずに翠玲は身を屈めた。

 ほとんど抱き合うくらいになって、彼女の髪が顔中をくすぐる。

 僕は耐えるように目をつむるしかできない。

 翠玲の言った意味を、今は考えないでおく。

 はぁぁん……と粘り気のある吐息が耳にかかった。

「こんな女のクズでも、キミは私を好きでいてくれるよね?」

 心臓を掴まれる感覚に背筋が跳ねる――翠玲の手指が降りて僕の太腿をなぞっていた。

「はぅっ……」

 落ち着け。

 自分の呼吸に集中しろ。

 理性を頼みに、翠玲の誘惑を拒まなくてはいけない理由を探せ。

 祖父と交わした約束だけが理由じゃない。

 こんな成り行きで何かするわけにはいかない。

 いずれお互いの気持ちが本当に同じ場所を向いた時、後ろめたさを感じないためにも、僕は拒み続けるしかない。そうだ。

「や、めろ……」

「我慢しないでいいんだよ? 不安なら、私がエスコートしてあげようか?」

 僕の透明な決意を弄ぶように、子猫のような親しさで翠玲はさらにいざなう。

「だいじょーぶ。あるま君が初めてで失敗しちゃっても、凹むようなこと言わないから。今日の私はトクベツ優しいんだよう?」

 翠玲の温度が顔のすぐそばにあるのが分かる。

「み、翠玲、お願いだから、そんな安く、自分を貶めるな」

 強く目を閉じ、僕は奥歯に力をこめる。

 だが、翠玲はやめなかった。

「それに私の腰、けっこう気持ちイイらしいよ?」

 あろうことか、僕が一番嫌がるであろうセリフをいともたやすく口にする。

 気づけば僕は目をひらき、叫んでいた。

「もういい!」

 強引に腕を引き抜くと、翠玲の肩を掴んで反対に押し倒していた。

 二の腕を押さえる。

 白く華奢な手が触手のように僕の腕に絡みついてきた。

 翠玲は軽く顎を上げ、寝そべりながら挑発的な目を向ける。

「ふうん、怒ったんだ?」

「決まってる! 最低だ!」

「ふふ。こんな私のために怒ってくれるんだ。嬉しいなぁ……」

 翠玲は目を細めてほころばせる。

 そしてすぐに唇を歪ませ、クスクス笑った。

「あるま君をからかうと楽しいね」

「こ、のっ……!」

 脳が茹だる感覚に頼みの理性が吹き飛んだ。

 頭に血が昇ると人間は本当に衝動的になるらしい。

 僕は翠玲を上から押さえつけていた。

 爪で裂けてしまいそうなほど強く握った拳を持ち上げ、そこで遅れてきた理性が歯止めをかけた。

「ご、ごめんっ」

 ああ、くそ……っ。

 すぐに拳をほどいた。けれど震えが止まらなかった。

 ふと、押し倒してしまった手が、翠玲の胸を掴んでいたことに気づいた。

 久しぶりに触る身体に、理性より遅れてきた僕の本能が揺れた。

 細く、柔らかく、触れている部分はお互いの温度でしっとりと汗ばんでいる。

確かめてみる・・・・・・?」

 蠱惑的に微笑み、翠玲は掛かっていたもう片方の肩紐を外した。

 この女――。

 どこまで僕の純情を弄べば気が済むんだ?

「そんな揺さぶりはもう効かない」

「え?」

 怒りが引くと、今までの葛藤や煩悩が嘘のように消えていた。脳髄に新鮮な空気が送られた感覚だった。

 深呼吸して、僕はうって変わって鷹揚に答える。

「必要ない。どんな翠玲でも僕は受け入れるよ」

「………」

 僕は反実仮想の溜め息を心中に吐き出して、ようやく本題に入った。

「どんな翠玲でも受け入れるけれど、それはお前が本物の翠玲だった場合の話だ」

「……あ、あるま君? 何を言って……」

 一瞬だけ眉を顰めたのを僕は見逃さなかった。

「見透かしたような目……。百年早いよ」

 翠玲が冷たい瞳に戻る。

 あくまでそういう態度で来るなら、追い詰めてねじ伏せるだけだ。

「だったら腹を割って話そう。この事件の本当の犯人が誰なのかを」

 翠玲は、返事に窮するように顎を引いた。頷いたと考えていいだろう。


(続く)

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