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章5(視座№:M2) その1

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 部屋には戻らず、縁側から庭に出た。ここなら誰にも聞かれない。

 月明かりがミラヴェルを照らす。鯉の泳ぐ池にも明るい月影が揺れる。

 彼女は近藤朔風歌詞の『野ばら』を口ずさみながら、池のふちまで来て足を止めた。

「さて、あなたの罪を教えてもらいましょうか」

「なんで私が……あんたとあるま君が抱き合ってたのがよっぽどじゃない」

「あれは演技。屋根裏の散歩者(・・・・・・・)を引きずり出すためのね」

 厄介な女。真の優しさは無干渉だって知らないんだな。

「私は悪くないし。あるま君を悪い虫から守るためだし」

「悪いことをした子供を叱るのも保護者の役目なの。分かってくれる?」

 分かるけど……どちらにしても厄介な女じゃないか。

 むず痒さに思わず頭を掻いてしまう。

「どこまで知ってるわけ?」

「一週間くらい気配があるのは感じていたけれど……あるま様が気づいていなかったということは、そこまで変なことはしていないのでしょう?」

「ま、まあね……」

 曖昧に返すが、良心の呵責にきりきりと胃が痛む。

 天井裏には覗き穴があって、節穴を装った色の濃い部分が風呂栓のように取り外し可能になっている。皆が寝静まった後、天井裏に寝そべりながら彼の寝顔を眺めるのが私の日課だ。するのとしないのでは寝覚めがまるで違うのだから、あるまニウムの補充は大事だ。

 そのことを思い出しながら、私は自分を納得させるようにうなずいた。

「大丈夫、誓って変なことはしてないから」

「そう……信じるわ。でも押入れの隠し扉は今後一切使えないようにします。いいわね」

 まずい。

 私のプライベートスペースがなくなってしまう。早急に手を打たなくちゃいけない。あと押入れじゃなくてクローゼットだから。

 ミラは敷石を戻ってくると私の肩に手を乗せた。

「そろそろ戻りましょう。冷えてきちゃった。貴女も、明日も学校でしょ?」

 私は肩に置かれた手を軽く払う。

「あのさ」

 声のトーンを落として尋ねる。

「さっきから保護者ヅラ鬱陶しいんだけど、私のこと、本当はどう思ってるの?」

「『娘』が嫌なら、『妹のように想っている』はどうかしら」

本当は(・・・)って訊いてるのよ」

 不意に冷たい指が触れ、私の顎を回した。

「じゃあ、私も聞かせてちょうだい。貴女は十年前の事故のこと、どれだけ覚えてる?」

 女から見ても腰のあたりが甘く痺れるほどの端正な顔が近づく。

 でも、気に入らないことに、近くに寄られるとあるま君の匂いがする。

「十年前? 覚えてるわけないでしょ」

「貴女のご両親が亡くなった――」

 顎クイを続けるミラの手首を掴んで、押し下げる。

「大怪我を負って、あるま君のついで(・・・)で病院に連れて行かれたこと? それとも事故の瞬間のこと?」

「どちらかといえば事故の瞬間のこと」

「――もちろん覚えてるわ、ええ、覚えてる、鮮明に、何一つ欠けることなくね」

 つとめて淡白な私の答えに対して、ミラの表情が急転した。

 柳眉が中央に寄り、唇は真一文字に引き結ばれる。

 そう、私は覚えている。

 庶民的な幸せを体現するような私の家族が乗る軽自動車は、助手席側から突っ込んできた車と衝突した。運転席の父と助手席の母はそのまま潰れ、後部座席に乗っていた私だけが一命を取り留めた。衝突した瞬間も、華奢な子供の身体を襲った衝撃も、墨染組の人々に助け出されたことも覚えている。

「でも」

 私は言う。

「さすがに組の車に乗った後の記憶はないわ。助け出されて安心したんだと思う」

 硬い表情のミラとは対照的に、私は腕を組んで表情を和らげる。

「安心して。あなたにとって、いいえ、あるま君にとって不都合なことなんて、私、覚えてないからさ」

 ミラは頬に手を当てて嘆息した。

「本当に覚えていないなら、私に『安心して』とは言わないわ」

「あー、そっか」

 軽率だった。

 嘘がバレる一番の理由は語りすぎることにあるという。それともミラが鋭いのか。

「ま、言えないよね。私の両親を奪ったのが組の車だった・・・・・・とかね」

 記憶とその後の証言が一致しないことに違和感を覚えた私は、当時の新聞記事や裁判の記録を調べた。すると事故を起こした相手の運転手は墨染組の若い衆だったことが判明した。

 信号が青に変わって走り出したところに猛スピードで突っ込んできたのはあるま君を乗せて病院へ向かう途中の墨染組の車だったのだ。助けられた私は事故を起こした車ではなく、後から来た別の車で病院まで運ばれたらしい。

「そう、覚えてるの……」

 ミラは目を伏せた。

「本当のことを言うわ、翠玲。貴女がこの家に来たときから、私はずっと貴女を警戒している」

「でしょうね。十年越しに言えて、スッキリできた?」

 私は腰に手を当て、シニカルな笑みを浮かべる。

 けれどミラは真剣に訴えた。

「お願い、覚えておいて。征義様は、お祖父様は最後まで貴女のことを気にかけていたの。貴女が事故の目撃者だったからじゃない。自分たちが不幸にしてしまった貴女への償いだけを考えて、本当に貴女の幸せだけを願っていたの。征義様が貴女を信じているのだから、私も信じている。それが私の気持ちよ」

「……そんなの……」

 喉に込み上げてくるものを、私は悟られないように必死で飲み込む。

 消せない罪だ。

 家族を奪ったことと、今まで育ててくれたことは決して交わらない。相殺されない。上書きされるものではない。

 けれど、祖師谷一家惨殺事件で唯一の親戚を失い、引き取り手のいない私に新たな居場所と家族を与えたのはこの家の人々だった。

 その中心にいたのはおじいちゃんだった。

 世間一般から見れば昭和のヤクザなんてどうしようもないロートルかもしれないけど、私にはすごく優しくしてくれた。温かな記憶が浮かび上がる。

「ええ、分かってる。おじいちゃんには感謝してる。だから、この話はこれでおしまい。事故を起こした人は今も刑務所で罪を償ってるわけだし、おじいちゃんも事件のことでそのあと責任を取ったんでしょ? あの事故があったおかげであるま君と逢えたんだし、不幸ばかり感じてるわけじゃない――」

 ミラはようやく肩の力を抜いて目尻を下げた。

「私の口からはとても言えないけど――貴女が前向きにいられているなら、よかった……」

 打ち解けるように私は言う。

「それに、あるま君って私のこと好きじゃん?」

「あら」

 お互いの態度が一瞬で慣れ親しんだものに変わる。

「素敵な思い込みね」

 もういつもの毒竜(ミラ)だった。微笑みながら毒を吐き――。

 私は盾で毒を押し返す。

「ちなみに私も彼が好き」

「許すと思うの? 男が征服地の姫を愛する物語は数あれど、戦利品(・・・)が自分を奪った男を愛するなんてありえない。そこは信頼していないわよ」

 ここまで両者の笑顔は継続したままだ。

 ぜひこの戦いをあるま君に見てもらいたい。きっと震え上がって可愛いだろう。

「愛情深い女に見えたけど、意外と浅いのね。大丈夫、あるま君は私がきっちり幸せにしてあげる」

「あなたには無理。だってあるま様には私がいるもの」

「あ、なんだ。許さないって、そういうこと?」

 私は蛇のように生ぬるく微笑む。

「年甲斐もなくはしたない(・・・・・)

 ミラの顔から笑みが消えた。

「勘違いしないでね、翠玲。貴女の『好き』は『好き』ではないから言ってるの」

 私は怪訝な表情で聞き返す。

「どういうことよ?」

「十年見てきて最近ようやく確信できるようになったけど、気に入ったものを破滅させたくて仕方ないんでしょう?」

「は、はあ?」

 その指摘に一番驚いたのは私だった。

 言いがかりをつけてまで彼を渡したくないのか!と穿った捉え方を瞬間的にしてしまうが、ミラの心配そうな顔はもっと別の意味で真に迫るものがあった。

「ちょっと待ってミラ。誤解してない? 私、一度もそんなふうに思ったことないからね?」

「自分では分からないのね……」

 ミラは悲しそうに首を振ると、庭のさらに奥に歩き出した。

「か、勝手に憐れまないでよ! 違うって言ってるでしょ!」

「着いてきて」

「なんで……ああ、もう、分かった」

 後に着いていく。庭が途切れ、ただの土の地面へと変わる。

 日の当たらない裏手の塀の下に、掘り返されて柔らかい色になっている場所があった。

「翠玲、一つ訊くけれど、拾ってきた猫は元気?」

「猫? そんなの部屋にいるに決まってるじゃない……」

 ぞくっ――。

 なぜか分からないけど、そこで私は。

 信じられないほどの寒気を感じた。

 日の当たらない裏手の塀の下に、掘り返されて柔らかい色になっている場所が。

 まるで何かを穴に埋めたような。

 心拍が一気に上がった。

 全身の毛穴が開いて、震えが背筋を駆け上る。

 気づけば園芸肥料の脇に落ちていたオレンジ色のスコップを掴んでいた。

 脇目もふらず、色の異なった場所を掘り返す。

 そして。

「あっ、ああ……っ!」

 土の中から汚れた何かの死骸が出てきた。

 毛色も大きさも、私の可愛がっていた猫と同じように見える。というか同じだ。

 拾いあげたくても腐敗臭に思わず顔をそむけてしまう。

 迷った挙句スコップの先で猫の死骸を転がすと、パックリ切り裂かれた腹部から半分溶けた内臓が。

「そうやって、貴女はいつも大事なものを壊す」

「違うって言ってるでしょ! 私じゃない!!」

 上手く言葉が出せず、私は噛みつくようにミラを睨んだ。

「何を怒ってるの。あなたが自分で埋めたんでしょ?」

 私はまた信じられない言葉を聞いた。

 ミラは見ていたという。

 柄の長いスコップで手際よく穴を掘り、鼻歌まじりで私が猫の死体を処分したのを。

 猫の胃袋らしきものが月明かりに反射した。よく見ると胃を突き破っている大量の縫い針の反射だった。――腹を裂く前に飲ませたのだ。

 私は地面に手をつき嗚咽をこらえる。

 子猫との思い出がフラッシュする。

 うらぶれたホテル街の路地。何も怖がらずに擦り寄ってきたこの子。私の荒んだ心を癒やしてくれた小さな友だち。それを、よくも、よくもこんな方法で――。

 潮のように悲しみがゆっくりと退いていく。

 地面を踏みしめ、立ち上がる。

 手足と膝についた土くれもそのままに。サンダルと足裏の間に異物感があっても気にせず。

 声が出そうになる。

 まだだ。こんなところで怒りを爆発させてはいけない。

 溜めて、溜めて、凝縮しろ。発散したら殺意が鈍る――。

 私は静かに歯噛みする。

「許さない……!」

 庭まで戻ると、袖を掴まれた。

 ミラが慄然としながら、怒りに震える私の肩を掴んだ。

「落ち着いて。どうしたの、急に」

「離して、行かせて!」

 私は引き留める腕を無理やりほどこうとする。

「少しでも同情した私が莫迦だった! あのサイコパスが野放しになってる! 行かなきゃ! まだ部屋で・・・・・寝てるから・・・・・!」

 ミラの双眸が見張られる。

「あ、貴女、まさか……」

「残念だけどその予想はハズレ――」

 私は、叫んで、その場でミラに詰め寄った。


(続く)

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