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章3(視座№:A2) その2

 邸に着いたとき、祖父の遺体は運ばれた後だった。

 慌ただしく動き回っている階下の気配を感じながら、僕は自室でぼんやりと虚空を見つめていた。

 ノックの音がした。反応せずにいると、翠玲が扉を開けた。

「行かないの、病院?」

「………」

 僕はベッドの端で膝を抱え、壁に半身をもたせかける。窓の外は日が沈み、濃紺にひとつ星が瞬く。

 ――変なんだ。この目で確かめるつもりで帰ってきたのに、何も見たくないんだ。

 翠玲がベッドに乗り、そっと腕に寄り添ってきた。

「その……家族が亡くなるのは誰だって辛いと思う。もし私で良ければ、慰めてあげたいと思う」

「…………」

 翠玲のひんやりした指が僕の腕に触れる。

「身近な人が死んだ夜は、それに触発されて種を残そうという本能が働くらしいわ」

「こんな時に」

 よくもそんな冗談を。

 なのに触れられると、僕の肩は不随意に反応してしまう。

 翠玲は手のひらを重ねると指を絡めた。

「今だけは、あるま君が望むこと、してあげるよ」

 僕は彼女を見た。

「私にできることなら、何でもいいよ?」

 いっそ。

 いっそ、委ねてしまいたい、そう思った。

 彼女にもたれかかるように顔を近づける。胸元から甘い匂いがする。

 これ以上進めば、もう後戻りできなくなる。

「そのかわり」

 僕は動きを止め、目を上げる。

「私が涙を流せなくても許してほしい」

 耳を疑った。

 僕は顔を上げまっすぐ見つめる。

 悲劇的に澄んだ翠玲の瞳が伏せる。

「ごめんなさい」

 なぜ。

 なぜ謝る?

 どうしてそんな言葉が出てくる?

 どうしてそんな顔ができる?

 じいちゃんが死んだんだぞ……!

 お前の面倒を10年見続けてくれた命の恩人が!

「出て行け」

 僕は翠玲を突き放す。

 震える喉から声を絞り出す。

「怒らないで」

 諭すような静かな抑揚に、拳の震えが抑えられなくなる。

「いいから出てけよ!」

 声を荒げ、壁を叩いた。

 翠玲は落胆の色を浮かべ、静かに息をついた。

 そして一瞬、憐れむような瞳で僕を見た。

 けれどそれは、悼む意味ではなく、僕に失望しているようだった。

 僕だけが残された部屋は、いつまでも落ち着きがないまま、夜だけが明けた。


×     ×


 享年九十九歳。

 その人脈は地脈のごと全国に及び、通夜告別式の参列客も千を数えた。

 僕は参列者を相手するだけで手一杯だったが、忙しさは救いでもあった。

 これだけの人間が一人の死を悼みに集まる、それを思うと無性に誇らしく、また嬉しい。

 来た人は口々に祖父を懐古した。それは嫌味のない心。

 支えられないと歩けないお婆ちゃんがやってきて、僕の手を握って言った。

「あんたのじいさんは田んぼのカカシにも頭を下げるくらい腰の低い人だったでな。……何の得にもならんのにわたしらに色々してもらった。とにかく、ありがたい、ありがたい……」

 水気がなく血管の感触が分かるほど骨の浮いた手の冷たさが、まだ僕の手に残っている。

 こんな子供に彼女はずっと頭を下げていた。身が引き締まる思いがした。

 もう一つだけ挿話を。

 それは告別式の、棺に花を詰めるときだった。

 涙を流さないと言ったはずの翠玲が泣いた。

 何度ハンカチを当てても、涙が小さな顎の先を滴り落ちていく。

 人を小馬鹿にするとき以外表情を変えない翠玲が、最終的に人目もはばからず、泣いたのだ。そんな姿を見せたことに、僕は祖父の死以上に驚いていたかもしれない。

 そしてあろうことか、僕の方がむしろ一滴も涙を流せなかった。

 悲しみが涙に精製されなかった。

 涙腺が閉じてしまったのかと疑いたくなるほど何もなかった。

 けれど。

 おかげで棺の中で穏やかに眠る祖父の顔をはっきりと焼き付けることができた。。

 額の銃創を埋められ、白く塗られた祖父。

 おそらく僕はそこではじめて理解した。

 死、言い換えれば存在の終焉に対して、涙腺が緩まないのは。

 親への恩、人の善意、励ましの言葉――そうしたものにこそ男泣きせよ、情けない涙は見せるな、と。

 それが僕に流れる宿命なのだ、と。

 すべて背負え、と。

 お前には死を悼むことを許さない、と。

 涙で感情を洗い流すことを許さない、と。

 僕の身体を司る神が僕にそう言っているのだ。

 葬儀会館のホールから出た廊下で、僕は翠玲に謝った。

「ごめん。昨日はどうかしてた」

「いいよ。気にしてない」

 涙の余韻が残る声だった。

 翠玲は、洟をかんだ。その丸めたティッシュを僕に差し出した。

「ん」

 ん、と当然のように促され、僕は洟をかんだティッシュを手のひらに頂戴する。

 ゴミ箱が見当たらない。しかたなく上着ポケットに入れた。

「こういうとこ、本当に妹っぽい……」

「何か言った? 怒鳴ったことを帳消しにしたいなら、ほしい物リストの上から十三番目ね」

「え、リストなんて覚えてるの?」

 翠玲は肩をすくめた。覚えてない。それでも要求するつもりらしい。

 でもいつもの調子に戻ったようで安心した。

 僕はさりげなくスマートフォンで翠玲のほしい物リストを調べてみる。

「ねえ、十三個もないんだけどさ……」

 翠玲は嘆くように首を傾けた。

 天井の柔白色を見上げ、僕を柔らかく罵倒する。

「ボンクラ」

「すみません」

「本当に気が利かない」

「おっしゃる通りで――って、どうすればいいのか教えてよ」

「黙って花でも贈れないの?」

 翠玲は深く長い溜め息をついた。

 つんと持ち上がった顎から喉にかけての線が蠱惑的でぞくぞくするよね。


(続く)

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