章8(視座№:M3) その1
美しい裸体を檜風呂に揺蕩わせている。
瞳を閉じ、深呼吸すると、そのまま私は浴槽で眠りに落ちてしまった。気づいたら頭まで浸かっていた。
「っっっっっっはっ! 死ぬかと思った――」
溺れて慌てて顔を出した。ぶるぶると顔を震わせた。
覚醒した私は周囲を見回す。
湯けむりの立ち込める檜風呂の大浴場だ。
家の中に大浴場があるなんて、それも檜風呂があるなんて、熱海の旅館でなければあの男の家に決まっている。
「え? え? なんで? なんで私、他人の家でのんびりお風呂入ってるの……怖っ!」
記憶がない? いや、たぶんそういう感じの展開ではない。ちょっと混乱しているだけ。いうなれば私はそういうノリの生き物なのだ。
お湯が鼻に入ってツンとする。
ああもう。思い出してきた。
全てはあいつが一晩中寝かせてくれなかったせいだ。ノンストップで6連戦。死ぬかと思った。精神的に飽和して最後の方とかもう何も覚えていない。完全に理性を失ったケダモノのツイスターゲームだった。屈服させてどちらが上か分からせて服従させるためだけの一方的なツイスターゲームだった。良い子のみんなは生半可な気持ちでツイスターゲームの挑戦を受けちゃいけないよ。あ、やったことなくても分かるよね、ツイスターゲームって?
っていうか本当に、初めてだったのに、あんな何度も何度も……。
「あ~もう……どんだけ(乳酸)出したのよ……まだ(筋肉痛が)残ってる……」
内股に(筋肉痛が)残っている感じがする。
もみほぐすと6回分の溜まりに溜まった乳酸が名残惜しそうに私の身体から出て浴槽に溶けていく。脱力して手足を湯船に遊ばせる。ちなみに筋肉痛の原因は現代科学ではまだ分かっておらず、乳酸が溜まってうんぬんというのは俗説らしい。じゃあ何が体に残っていたんだという話だが、細かいことはいいじゃない。
檜風呂から出る。ふくらはぎから水をしたたらせながら、ぺたぺたと脱衣所へ向かう。
東京にはやたらお風呂にこだわった狭小住宅がよくあるらしいが、この家は風呂以外も立派だった。熱海の温泉旅館でしょとツッコミたくなる古くて大きな家だ。
脱衣所は旅館よりもトレーニングジムの更衣室に似ているかもしれないが、鍵つきロッカーの風情でやっぱり旅館でしょと再度ツッコミたくなる。
髪を乾かした後、私は洗面台の鏡に身体を映した。
一片の曇りもない完璧な肢体だ。
全身に溜まった乳酸も困りものだが、髪に乳酸が溜まるのが一番大変なことになるので、鏡に顔を近づけて目を凝らす。
まだいくぶんしっとりした髪に触れると、鏡の私も同じ動きをした。
私は私を見て鼻で笑った。
「ほんと、どこの美少女だよ、お前」
冗談めかして言ったが、嘘は言っていない。
こんな大きな家に住んでいるのは、容姿のおかげに決まっている。
彼がそれを認めてくれているから……。
鏡に映る顔がどこか憂いを帯びているように見えて、私は無理に笑顔を作った。けれど映ったのは諦めの笑顔だった。
「でも仕方ないでしょ。この顔も含めて、私なんだから……」
そのとき、鏡に映る私の背後にスッと人影が立った。
「きゃーっ!」
振り返った先にいたのは彼だった。
私はそばの脱衣カゴからバスタオルを引っ張って体を隠す。
「なんて声出してんだよ」
裸でいるときに男に踏み込まれたら誰だって同じ声が出るわ、変態!
「早く出てってよ」
脱衣カゴで彼をぺしぺし叩いて抗議する。
「今さら恥ずかしがることでもないだろ? 昨日さんざん」
「シャラーップ! ツイスターゲームの話はなかった! いいね!」
この男はこの期に及んで首をひねって「ツイスターゲームって何?」って顔をしている。
お風呂の中だけが私に許された唯一のオアシスだったのだ。
脱衣所ですら気を休められないなんて、ほんと可哀想な私。
「……ったく」
暴れていた手首を掴まれた。カゴが手から離れて落ちた。
私はそれでも最後の抵抗として顔を逸らす。
「抵抗したって、僕が翠玲を好きにできることに変わりないんだ」
「ちょ……ちょっと仲良くなったからって、勘違いしないでよ。私はまだ、あるま君のこと、許したわけじゃないし」
彼は意地悪な笑みを浮かべた。
「まだ? いつかは許すってこと?」
「ゆっ……許さないよ……でも」
私は唇を噛んで言い澱む。
記憶の水底から泡が浮いてくるように言葉が蘇った。
――男が征服地の姫を愛する物語は数あれど、戦利品が自分を奪った男を愛するなんてありえない。
刃物色の瞳が、私をくだらない石ころみたいに見下ろしている。
背筋がぞくっとした瞬間、下半身に熱い滾りがすとんと落ちる。明言するのもおぞましいけれど、それは悪くなかった。
見えない抵抗を試みるつもりで、精一杯、気持ちを奮い立たせる。
私は許さない。
身体は許しても心まで許すつもりはない。
私の全てを奪ったこの男を、許したくない。
けれどいつか、全て投げ出して、許してしまいそうで怖い。
怖いのだ。
惚れた弱みが――。
「ふん……」
彼の手が離れた。
逃げ場を求めるように私はロッカーを開く。自分の制服がたたんで置いてある。
本来なら私なんか袖を通せるはずもない高校の制服だが、彼の意向で同じ高校に通うことになっている。
着替えはじめる。
お察しの通り、着替えすら一人になれない運命にある私。
でもまだ彼でよかった。この家は男所帯だ。一応女手もあることにはあるが、あの女と私は因縁が深すぎる。
誰に見られても誰と過ごしても気が休まることがない中で、唯一気負わずに済む相手が彼だ。
実際、見てないふりとかじゃなく、本当に景色のひとつとしてしか認識してない。目の前で絶世の美少女が生着替えしてても彼の視線には性的な含みが一切ない。今はすごく助かる。でも大丈夫、私に女の魅力がないとか、彼が女に興味がないとかじゃないから大丈夫……って、なんでこんなやつのことを弁護してるんだ私?
制服に着替え、ロッカーを閉めようとした。
そのとき。
「翠玲。忘れてる」
「え? ああ……」
彼が私を呼び止めた。
その手がロッカーから取り上げたのは赤い革帯の輪――。
――首輪だった。
ちゃんと人間用に作られたもので留め具とリードをつなぐ金具が同じ側についている。それに普段使いできるようデザインされている。高校生には買えない感じのやつ。
露骨に嫌な顔を浮かべて私はたずねた。
「それってさ……つけなきゃ、ダメ?」
「僕の目の黒いうちはつけてもらう約束だろ」
無駄だと分かっていながら抗弁を続ける。聞こえないくらい小さな声で。
「どうせ嵌めるなら、指輪がいい」
「聞こえてるけど、無理だよ。僕が解放すると、首輪にしかならないから」
そういう意味だけじゃないんだけどなぁ。
この家に置いてもらう条件として、彼のそばにいようとする限り、これは必須だった。
彼は留め具を外し、首輪を一本の帯にする。
ペットに首輪をつけるのは飼い主の役目、ということになっている。だから私は自分で首輪をつけたりしない。ただ待つように顎を持ち上げる。
留め具が前に来るように、首輪をつけるときの私たちは恋人のようにお互いを向き合う。
彼の手が首の後ろに回った。
(うぁ……顔近い……まつ毛長い……なんか良い匂いもする……)
端正な目鼻立ちと、乙女心がくすぐられる三重奏に唾を飲んだ。もちろん彼が私を優しく見ることはない。
「ところで――いつ僕に意見して良くなったの?」
首輪が首を締めつけて食い込んだ。
油断していた――。
気道が塞がれ、喉から空気が勝手に漏れた。
「いっ……」
「ちょっときつかった? 緩めようか?」
「あっ、あ、う……」
声が出ず、こくこくと震えるようにうなずく。
けれど彼はなかなか緩めてくれない。ベルトに指をかける素振りをしながら、赤くなってきた頬に手を添わせてゆっくり滑らせる。わななく唇を爪の先でなぞりながら、その弾力を確かめるように軽く押したり、また顎を持ち上げたりして様々な角度から私の窒息を眺めるだけだ。
それが私の反応を堪能しているだけで助ける気はないんだと分かっていても、私は首輪に触れられない。
次第に苦しさが、まるで彼に首を絞められているような気持ちを起こさせる。
頭がぼんやりして、息がしたい。苦しい。苦しい。けれど官能的だ。
身体が小刻みに震えはじめた頃、ようやく穴一つ分締め付けが緩む。窮屈さが消え、頬に込み上げていた熱がすっと体に落ちる。
それと同時に膝の力が抜け、私は彼の体にしがみついてしまった。
「はあ、はあ……ごめ……ごめんなさい……」
彼はしっとりと柔らかく侮蔑を込めて息をついた。
「落ち着くまで、いいよ。それにしても感慨深いよね。まさか、お前がここまで堕ちるなんて」
「い、言わないで……だって私は……」
口を閉じられた。指先が、私の唇を押さえている。
彼は私をまっすぐに見つめていた。真剣な眼差しは、けれどかすかに恐怖に怯えても見える。
「それ以上はダメだ。忘れるな。君は浮葉翠玲だ」
ええ……分かってる。
そして、あなたの名は墨染在天。私の飼い主で、ご主人様。
名前を漢字で書かれるのが嫌いらしくて基本ひらがなで通しているから、あるま君だ。
あるま君は静かに言う。ゆっくりと、諭すように、温かい手のひらで私の頬を包む。
「君は浮葉翠玲なんだ。僕のクラスメートで、きょうだいで、恋人で、所有物だ。異論は認めない」
私は熱っぽい呼吸をしながら、小さくうなずくことしかできなかった。
(続く)
初投稿です。至らない点があったらごめんなさい。