葛藤と焦燥と。:前編
「じゃあ、僕は行ってくるからね」
玄関で彼女がいるであろう部屋に声を掛けた。――無反応。
最近ではいつものことだったから僕は大して気にも止めずに家を出た。
外は随分と冷え込んでいる。
古いのか、中々還暦のある雰囲気だったがそれでも構造はしっかりしているようですきま風は無かったので僕はこのアパートを気に入っていた。
二階から階段を使い、アパートを出る。
肌を刺すような冷たい風が身体に吹き付けてきたために思わずマフラーを巻き直しながら寒空を仰ぎ見た。
――綺麗な、冬晴れだった。
気温と裏切るその天気に僕は内心毒づきながらも、駅へと向かった。
「あの!」
賑わう食堂でそんな細い声が聞こえた。
僕は自分が呼ばれているとも知らず、聞き流していた。
「あの……」
トントンと肩を叩かれ、声の主を振り返った。
「えっと、君は確か」
「山下詩織です」
僕の問いに即答してくれた山下さんは大学の中では彼女の一番身近にいた存在だったと思う。
よく彼女と一緒にいるためか、僕も前に二,三度会話をしたことがある。
――名前を覚えてなかったのは僕の記憶力のせいだ。
「山下さんが僕に聞きたいことってのは、あの子のことかな?」
山下さんは躊躇なく頷いた。
どうやら“あの子”で通じたようだ。
「最近、来てないでしょう――? 携帯にメール入れても返信来ないし電話も繋がらないし……心配なんです」
口から吐息をつき、目を伏せる。マスカラを塗った長い睫毛が肌に陰って女の色気を感じた。
「――で、ルームメイトの僕に彼女の安否を確かめたかったわけね」
「安否って、大袈裟ですね」
僕の、冗談を少し混ぜた言葉に控えめな笑い顔を作ってくれた。
「……彼女は、大丈夫だよ。体の具合が少し思わしくないみたいだけど」
まさかこんなにも彼女のことを心配している山下さんに“死にたいと泣いていた”などと言えるはずがない。
「そうですか」
あの子にお大事にとお伝えください、と山下さんは丁寧に一礼して人々の雑踏の中に消えていった。
「良かったのか? 本当は体調が悪いわけじゃないんだろう」
僕が目の前のオムライスに意識を集中しようとした時、前方から聞き慣れた声が耳に入る。
せっかくのランチタイムを邪魔された僕は不服そうに――そして心を見透かしたような言葉に驚きつつそいつを見た。
「悠……何で分かったんだ」
「そりゃあお前から色々聞かされてきたし、ただ具合が悪いわけじゃないってくらい分かるさ」
佐々木悠は、僕の唯一の相談相手かつ悪友という中々いいポジションにいる奴で、その洞察力に僕はいつも驚かされる。
「そっか」
「それで、今はどんな感じなんだ?」
悠は箸の先を僕に向け、偉そうに言葉の続きを待つ。
「死にたい、ってさ」
自棄的に呟きスプーンを置いた。食欲はもう無い。僕は堪らなく、彼女が心配になった。
「お前が焦ってもしょうがないことだ。口先だけの言葉を呟くより、今は傍にいてやれ」
悠はそれだけ言うと、僕の放棄したまだ手の付けていないオムライスを目敏く見つけ、それを自分の方に引き寄せると夢中で咀嚼し始めた。