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 ねえ、ピーウィー聞いて。わたしは眠りから目覚めさせられたの。体を揺さぶられて、強引に!

 それは真夜中のことだった。

「もう、なあに?」

 文句が出るのも当然だと思うの。部屋の中はまだ暗いし、枕元にある目覚まし時計を見たら、まだ二時半よ。

 夜中の二時半! 自分の目を疑っちゃった。信じられないよ。どうしてこんな時間に起こしたりするの? 夢も見ないほどぐっすり眠ってたってのに。

 目の前に立つシルエット、暗いから判んない。けど多分、いやきっと、パパだと思う。

「どうしたの?」

 もう一度聞くその声が刺々しくなっちゃうのも仕方ない。

「……」

 ぼそぼそとしたパパの声はひどく聞き取りにくいの。まるで虫の鳴き声。

「着替えて」

「えっ?」

 やっと聞こえた言葉はそれだった。でもどういう意味?

 そうなのよピーウィー。パパは言うの。これから出掛けるって。

「どこへ行くの?」

 わたしは聞いた。でも答えてくれない。

 黒い影となったパパからは変な威圧感が漂ってくるの。何だか怖くなってわたしは言うとおりにしたわ。

 で、灯りをつけようとしたら「ダメだっ!」怖い顔で止められたの。

 どういうこと? 灯りをつけちゃいけないの?

 これも説明してくれないから仕方ない。わたし、暗い中で着替えたわ。シャツを着て、スカートをはいて、靴下をはいて。


 考えてみればパパに合うのは久しぶりのことだった。だって、ずっと家に帰ってこないんだもん。前に顔を見たのは一週間くらい前だったと思う。

 思えば、それ以前からパパの様子はおかしかった。平日なのに家にずっと閉じこもっていたり、かと思うと何日も帰ってこなかったり。夜遊びとかするタイプじゃないのに。一度は喧嘩したのか目の周りに痣が出来てたこともある。

 そしてこの一週間あまり、家に戻らずに外で何をしてたのかな? そもそも泊まる所はどうしたんだろう? 別にママと喧嘩したって訳ではなさそうだし。

 判らないわ。ねえ、ピーウィー。

 パパがいない間、でもママは別に取り乱したりはしなかった。ということから考えると戻ってこない理由を知ってるんだと思う。

 そしてずっと暗い顔をしてふさぎこんでいた。変に声を掛けたら怒られそうで、ママに理由を訊くことは出来なかったけど。

 ねえ、ピーウィー。わたしは思うの。パパは浮気してたんじゃないかな?

 わたしとママを捨てて愛人の元に走ったの。ママとの間にはもう話し合いがついていて、だから揉めることもなかった……。

 あ、でも違う。言いながら気が付いちゃった。だって目の前のパパの格好を見てよ。

 無精ひげが伸び放題で、頬がこけて、顔色が悪くって。ずっと着たままでいるのか、スーツは薄汚れているし。これが恋する男の姿とは思えない。

 ……。

 だとすると。考えられるのは……パパは何かと闘っているのかな? 判んないけど、何か巨大な悪の組織とか、そんなようなものと。

 ぷっ。自分で言っておきながら、ごめん、笑っちゃった。悪の組織って、マンガじゃないんだから。それはちょっと無いかもね。

 でも、ね。何かから逃げてるっていうのは、あるかもしれない、と思うの。

 現に今だって、窓際に立って、チラチラとカーテンの隙間から外の様子を窺ってる。その不安そうな横顔ときたら。

 誰かに見張られているんじゃないかって、気になって仕方ないって感じ。

 そうか。それで電気をつけさせない理由も判ったわ。それってわたし達が起きてるって教えてるようなもんだもん。内緒で家を出ようってことかしら?


 部屋を出て居間へ入ると、すでにママは起きていて、ばっちり出掛ける準備が出来ていた。

 どうしちゃったの? いつになく厚化粧で、高価そうな服を着て。

 ファーのついたコートに豹柄のタイトスカート、ラメ入りの黒いストッキング!

 こんなに気合の入った格好のママを見るのは、生まれて初めてかもしれない。

「あらユウ、お早う、すぐに出掛けるわよ」

 奇妙に明るい笑顔。それはわたしを不安にさせた。

 ねえ、ピーウィー。どうやらママは早速、起きぬけのお酒を飲んだらしいわ。キッチンに焼酎の空き缶が転がってるのを見つけちゃった。

 ママは常に飲んでいる。そうでなきゃ「かったるくてやってらんない」んだそうだ。

 キッチンドランカーっていうの? よく知らないけど、ママはそれみたい。

 お酒を飲まなきゃいられない。そうでないと気分が落ち込んだり、ヒステリーを起こしたりするんだって。

 思えば昔から、気分の浮き沈みが激しい人だった。それは子供心に感じてはいたの。ママの機嫌をうかがうので、わたしは随分と神経をすり減らしてきた気がするわ。

 特に朝から晩までずっとお酒を飲むようになったのは、やっぱりパパの様子がおかしくなったここ二、三ヶ月のことだ。

 常に何かしら呑んでいる。キッチンの床はずらーっと空き缶や空き瓶が並んでるの。

 だからわたし、帰るのが最近すごく嫌だった。だって家に入ると暗い部屋で酔いつぶれているママが待ってるのよ。気分は一気にブルーよ。

 ママがそんな状態だから家事はわたしがやるしかなかった。つまり料理も洗濯も掃除も全部。電気やガスの料金の振込みだってやってたんだから。学生の本分である勉強なんてやってる暇ない!

 もう疲れちゃってたの。


 それで今日。突然の真夜中の出発。

「旅行に行くの、小旅行」

 浮かれた声でママは言い、小躍りしてる。荷物はもうワゴン車に積んであるって。

 ちょっと待ってよ。どういうこと? わたしに一言の相談もせずにいつそんなこと決まったの?

 子供のわたしの意見はまるで無視して、大人の都合で勝手に物事が進んでいくなんて、いい気持ちはしない。

「ユウは持ってく物ないか?」

 小旅行でしょ。すぐ戻るんでしょ? なら特に無い。大切にしてるピーウィーさえいれば他にも何もいらないわ。


 それにしても部屋の中は空っぽ。パパが消えて一週間、その間にあれは起こったの。

 家に黒い服を着たいかつい顔のおっさん達がやってきて、家具とか電化製品とかママの宝石とか時計とか高価そうな服とか。勝手に持っていってしまったのだ。

 二日前には学校から戻ったらテレビまで無くなってたのには驚いた。あれからわたし、テレビを見てないんだから。昨日は友達と話を合わせるのが大変だった。

 何なのあいつら! 何の権利があって家の物を持っていくのかしら?

 でもママはお酒を飲んでばかりで奴らに何も言わないし。子供のわたしは黙って見てるしかなかった。

 ねえ、ピーウィー。この家で何が起こってるの?


 家を出るとパパは左右を確かめて、特に階段とエレベーターのあるホールの付近に用心深く目を光らせてた。

 わたし達の住むマンションはやっぱり真夜中っていうこともあって、静かだ。

 そりゃそうよね。だって午前二時半だよ。起きてるのは夜中に働いてる人だけだと思うの。それと不眠症の人。

 キョトキョトと鳩みたいに首を回して、パパはなおも周囲に気を配っている。

 そんなパパの様子を見てたら悲しくなってきた。だってなんだか惨めなんだもの。

 わたし達はエレベーターで一階まで降りたわ。

「パパ」

 わたしは小声で呼び止めた。何故かパパは地下の駐車場に行かずに、エントランスから外へ出ようとしてるから不思議になって。

「いいから来なさいっ」

 真剣な面持ちでパパが手招きしてる。仕方ない。ついていく。

 あれママがいない? 振り返るとフラフラと浮き足立ちで、遅れてついてくるママがいた。きっとお酒の酔いが回ってきたのね。相変わらず困った人だ。

 外はけっこう寒かった。薄着で出たのを後悔する。ああ、お気に入りのコートを着てくればよかったかも。

 夜の街は人のいる気配がなかった。まるでわたし達だけ残して人類が消滅しちゃったみたいな気がする。

 何を建てるつもりかしらないけど、ずっと建設予定地と書かれた看板が立つ空き地、その端に隠れるようにしてパパのワゴン車が止まっていた。

「パパ、どうして車がここにあるのよ?」

 聞いてみても「うん、まあ……」と語尾を濁してはっきりしない。やっぱり変だ。

「さ、乗って」

 いつも通り助手席にママが、後部シートにわたしが座って。パパがアクセルをふかす。

「行くよ」

「出発しんこー!」

 いきなりママが奇声を張り上げた。「あははは」気持ち良さそうに笑ってる。全くわたしより子供みたいだ。

 ワゴンは動き出す。何も見えない闇に向かって。

 ふと呼びかけられた気がして振り返った。遠ざかっていくマンションが見える。

 その時にわたしは気付いた。灯りのついたマンションホールに黒い影が立っているのを。

 人? ううん、違う。

 ねえ、ピーウィー信じてくれる? あれは人の形をしてるけど、人じゃなかった。

 じゃ何?

 判らない。鬼とか悪魔とか幽霊とかモンスターとか? とにかく人ではない、何か、だ。

 本当よ、ピーウィー。嘘じゃない。


 いつの間にか眠っていたみたい。体に伝わってくる振動を感じた。

 ここは車の中? そうかわたし達一家は真夜中に旅に出たんだっけ。

 外はまだ暗い。

 高速道路を走っているのかしら? 急速度で流れ去っていくネオンライトやビルの灯り、看板のイルミネーション。夜の街を低空飛行でもしているみたいだ。それはとっても神秘的な眺めだった。

「ねえ、ここはどの辺なの?」

 気になって聞いてみたの。運転しているパパに。でも返事がないの。まるで無視してるみたい。

「ねえってば!」

 そこで異変に気付いた。ハンドルを握り、前方を見つめ、運転に集中している……ように見えるパパ。

 でもその顔はマネキン人形みたいに動かないの。

 隣を見ると、ママも全く同じ。マネキン人形のように凍り付いて動かない。

 それでも不思議なのは普通に車が走っていることなの。道を外れることもなく、他の車にぶつかったりすることもなく。

 またあれが、マボロシが始まったんだ。そう思ったの。

 ピーウィーは知ってるでしょ? わたしがこうしてマボロシを見る能力があることを。

 小さい頃からそうだった。それが始まると、そこで時は止まり、風はやみ、音は消えてしまう。人が彫像のように凍り付いてしまって、代わりに木や石や金属が喋りだす。

 そんな不思議な世界は場所とか時間に関係なく、いつも突然に始まって突然に終わるの。

 幼少の頃はこれはわたしだけじゃない。誰にでもあることなんだって思ってたけど、そうじゃなかった。少なくともわたしの周りには同じような能力を持つ人間はいなかった。

 ママに話すと怒られたりしたわね。頭がおかしいと思われるからやめなさいって。

 しだいにわたしにも判ってきた。いいにしろ悪いにしろ、普通とはかけ離れた能力を持つと、他人が怖がるってことに。最悪の場合仲間はずれにされることになる。

 経験からわたしはこの能力を自分一人の胸にしまっておくことにした。


 マボロシを見ながらわたしは考えていたの。この先どうなるんだろうって。

 嫌な予感がしたわ。すごく嫌な予感。頭の中で声がしている。引き返せって、それは言ってるの。

 横を向くと車窓のガラスにクラスで一番仲の良い、里奈の顔が映っていた。

 初めて出来た親友。その里奈が心配そうな顔をしてる。

『もう会えないの?』

 声は聞こえないけど、開いた口の形からそう言ってるのが判った。

「そんなことないよ。このちょっとした小旅行が終わったら、すぐに学校に戻るから」

 でもね、そう言いながら自信がなかった。

 判らない、でもそんな予感がしたの。もうここへ戻ってくることはないんじゃないかって。


 眠っていた。再び目を開けると外はもう明るい。朝になってたの。わたし達一家はなおも走る車の中にいる。

 夜の魔法、マボロシは終わったみたい。普通にパパもママも喋り、動いている。

「ママ、今日は水曜日だけど、学校はどうするの?」

 わたしは聞いてみた。

「いいのよ。行かなくて」

 意外な返事だった。

 ずる休みしようもんなら、いつも鬼のように怒るくせに。

 なのに。「今日は特別。大丈夫。ちゃんと学校には家庭の事情ですって、連絡してあるから」だって。

 家庭の事情? この小旅行が?

 全然意味判んない。どういう事情があるっていうんだろ? 思わず問い詰めたくなったわ。

 でもやめた。もういいや。よく判んないけど、子供のわたしはいつもパパとママの気まぐれに付き合うしかないんだから。


 それでどうしてだか途中、動物園に寄っていくことになったの。

 わたしは知らなかったけど、パパによると有名な動物園らしい。看板を見つけて、「いい機会だ、行ってみるか」って、やけにはしゃいだ声で言ったの。

「いいんだよ。急ぎの旅でもないんだから、のんびりいこう」だって。

「うーん。どっちでもいいわ」

 眠いのか面倒くさそうにママが言って、「行ってもいいよ」とわたしは言った。

 考えてみれば動物園なんて久しぶりだ。小学生の低学年だった頃に行った記憶があるけど……あれ以来?

 

 さすがに名が知られた動物園だけあって、中は広くて綺麗で、平日だっていうのに結構混んでた。

 珍しい動物もいるみたいだし。キンシコウとか、オカピとか、コビトカバとか。他のとこでは見られないんだって。

 あまり乗り気じゃなかったけど、見初めたら面白い。動物たちの仕草を観察してると飽きないわ。

 でもママは退屈そうだった。動物なんて興味ないんだと思う。特に匂いが駄目みたい。

「くさいー」とか文句ばかり言って、園内にレストランを見つけると「あすこで待ってるから」ってさっさっと逃げ込んじゃった。

 全くママらしい。テーブルにつくと、早速生ビールを注文してる。アル中め。

 一方のパパは言いだしっぺだけあって、こういうとこ大好きみたい。

 今はマンション住まいだから駄目だけど、子供の頃は代々、犬を飼い続けてきたっていうから。動物全般が好きなんだと思う。知識も豊富でいちいち説明してくれるんだ。

 象の歩く速度は時速四十キロもあって人よりはるかに早いとか、キンシコウはチベットに生息する霊長類で西遊記に登場する孫悟空のモデルになったとか、そういった豆知識や習性なんかを。わたしは、ふーん、とか言って頷いてあげてた。特に知りたくもなかったんだけど。親に対するサービスってやつよ。

 それで、ね、パパが一番興味をひかれた動物って何だと思う? それはサルだったの。

 ううん。別に海外の珍しいものじゃなくて、フツーのニホンザル。それがすっごく気に入っちゃったみたい。

 地面をすり鉢上に掘って作られたサル用のケージ。そこを手すりにもたれてじーっと見下ろしてんの。

 広さは学校の校庭くらいもあってね、中は凝ってるの。山があって、池があって、木もたくさん植えられてる。

 サルたちはそこで群れを作って生活してるのね。

「見てごらん」

 パパが言うの。

「岩山のてっぺんに偉そうな大きいサルがいるだろ? あれがここのボスなんだ」

 確かにそのサルは見るからに威厳があった。胸を張っちゃって、しかめっ面をして、いかにも権力を振りかざしてるって感じなの。

 その周りを数匹のメスザルが付き従ってて、コザルが遊んでる。他のオスザルはボスザルを怖れてか近づかないの。

 しばらくすると餌の取り合いが始まった。もう大騒ぎよ。誰もボスザルに逆らえない。歯を剥きだして威嚇すると、他のサルは餌を置いて逃げちゃうの。

 かと思うと反抗するのもいるのね。ボスザルに餌を渡そうとしないの。

 ナンバー2の座にいるのかな。結構体格もいいし、顔も厳ついの。

 でも結局ボスに負けて、コテンパにやられちゃった。

 かわいそう。傷を負って逃げ惑う姿は痛々しくて惨めなの。

「弱肉強食」

 ポツリとパパが漏らした。

「このサルの集団は人間社会の縮図だね」

 とっても淋しそうにパパは笑う。

「強い者が全てを手にし、弱い者は逃げ回るしかないのさ」

 しみじみと噛み締めるようにそう言った。

 どうしちゃったの? とっても辛そうな顔になって、何だか怖いよ。

「あ、ごめんごめん。さ、そろそろ行こうか」

 わたしが心配してるのが判ったのか、パパはいかにもな作り笑いをしてみせた。

 やっぱりおかしいよパパ。何を考えてるの?


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