4.あんまり腕引っ張らないでよっ!
有栖さんはとても同い年とは思えないほどに幼く見える。
学生服を着ていなければ誰も高校生だとは思わないだろう。
横に並んで歩いている今も、友達か何かというよりは妹といった感じがする。
「それでそれで、みっちゃんは購買で何を買うつもりなのですか?」
「みっちゃん?」
「……ごめんなさい、い、嫌なのですか?」
「嫌じゃないよ! 私……下の名前、男っぽくて好きじゃないから、そういうふうに渾名で呼んでもらえた方が嬉しいかな。ありがと」
私がそう言うと、有栖さんは満面の笑みで返してくれた。
「マリちゃんマリちゃん! アリス、褒められてしまったのです!」
腕に抱きかかえている、例のぬいぐるみを丁寧に優しく撫でる。
「…………」
結局私は、有栖さんからマリスを取り上げるのに失敗してしまった。
置いてくるよう言ったのだが、あの赤眼の上目遣いでじぃっと見られると、どうにも抵抗できなくなってしまうのだ。
周囲の目がどうにも気にかかる。
皆マリス人形を見て、表情を引き攣らせている。
マリス人形はまずい。ちょっと破壊力があり過ぎる。
購買は本校舎と体育館の間にある。
それなりに広いし、昼休みももう中盤に差し掛かっている時間だというのに、まだ人でごった返している。
しかしマリス人形のインパクトか、有栖さんの周囲だけちょっと通りやすくなってしまっている。
便利でありがたかったけれども、後々尾を引きそうで怖い。
どうにも私の思う普通の高校生活から一歩遠ざかってしまった感がある。
このことを後にナツキへ言ったら笑われてしまいそうだ。
「みっちゃん本当にありがとありがとなのです。みーちゃんがいなかったら、アリスは教室の隅でお腹を空かせて一人震えているところだったのです」
有栖さんはうっとりとした表情でクリームパンを手にしている。
頬ずりしそうな勢いだ。
「はは……そんなに感謝してもらえると私も嬉しいよ」
私は梅のおにぎりを選ぶ。
有栖さんは私が選んだおにぎりを、じーっと見つめてきた。
「みっちゃん、おにぎり派なのですね」
「え? う、うん」
有栖さんはあんなに嬉しそうに持っていたパンを元あった場所に直し、梅のおにぎりを持って来た。
「やっぱり、アリスもこっちにするのです!」
「いいの? あんなにずっとクリームパンって言ってたのに……」
「はいっ! アリス、みっちゃんと同じのがいいのです! みっちゃんと同じものが食べたいのです! みっちゃんと同じがいいのです! むしろみっちゃんになりたいのです!」
言うと有栖さんは私との距離を詰め、パタパタと手を上下させる。
手の動きに合わせ、マリス人形がブンブンと振り回される。今にも腕とか首とかが千切れてしまいそうだ。
100円ちょっとで随分と懐かれてしまったものだ。
おにぎりを買った私と有栖さんは教室へ戻る。
廊下でも有栖さんの人形のせいで何度か怪訝な視線を向けられたが、不思議と行き道のときよりも抵抗感はない。
慣れてしまったのか、有栖さんの純粋な言動にほだされてしまったのか、あるいはその両方か。
いや、今でもマリス人形は捨ててほしいけれども。
窓側の二席をくっ付け、二人で向かい合っておにぎりを食べる。
そういえばナツキに屋上に来るよう言われていたような……まあ、いっか。
彼女も昼休みは小説を読んでいるだけだ。
私はいつも、その横でお弁当をがっついているだけ。
約束というほどのものでもなかったし、別に私が来なかったからといって大騒ぎするようなことはないか。
後で友達ができたといえば、いつも通りの呆れた調子で上辺だけの祝福をくれることだろう。
それからまた人類だの完成だの、意味があるのかないのかどこに辿り着けるのかもわからないような話を長々聞かせてくれるに違いない。
「おいしいのです! 実はアリス、おにぎりを食べたのは初めてなのです!」
有栖さんの笑顔は天使のように可愛らしく、見ていると心が落ち着いてほっこりする。
しかしその横に並んでいるマリス人形を見れば、一瞬で現実に引き戻される。
「ほーら、マリちゃんも、あーんするのです。一口あげるのです」
「……そんなに押し当てたら人形汚れちゃうよ」
なんだろう。
友達はできたけれど、他に新しい友達を作るのが一気に難しくなったような気がする。
他の人の目が気になってちらりと後ろを向くと、こっちを見ていた女子生徒がさっと視線を逸らした。
「みっちゃん、どうしたのですか?」
「う、ううん! なんでもないよ! なんでも!」
思わず取り繕うような言い方になってしまう。
そんな私の慌てぶりを見て有栖さんは不思議そうに首を傾け、それから楽しげに笑った。
つられて私も笑ってしまう。
いい子なんだけどなぁ……マリちゃんがなぁ……。
こっそり捨てたら怒られちゃうかなぁ……。
食べ終えた後、お茶を飲んでいたら分けてほしいと頼まれた。
どうやらいつも彼女は飲み物の買う派だったらしい。
向こうから言い出しづらいだろうし、それくらい確認しておけば良かった。。
水筒を貸すと、有栖さんはわずかに顔を赤らめながらコップの端を加え、お茶を飲む。飲みながら、私の方を上目遣いで見つめてくる。
気恥ずかしくなって、私は思わず教室の外へと目を向けた。
いやいやいや、私そういう気はないよって……何を意識しているんだ私は。
と、そのときちょうど教室にナツキが入ってくるところだった。
時計を見ればもう昼休み終了の十分前だ。
にしても帰ってくるのが早い。
教室でやりたいことでも何かあるのだろうかとか考えていると、ナツキは神経質そうに入り口から教室中に視線を走らせ、そして私のところで止まった。
私を見つけたナツキは安堵したような、それでいて少し怒っているような表情だった。
ああ……ナツキ、寂しがりやだからなぁ……。
ごめんね、私やっぱり屋上に行った方が良かったね。
まあナツキなら、有栖さんを見てドン引きするような、やわな神経は持っていないだろう。
そう思っていたのだが、こちらに一直線に向かってきていたナツキも、有栖さんの姿を確認すると歩みを止めた。
ナツキは唖然とした顔をしている。
いつも大事に抱えている本が、彼女の緩んだ握力をすり抜け床に落とされた。
しかしナツキはそれを拾おうともしない。
彼女が驚く表情を見せるのは珍しい。
さすがにマリちゃん人形はショッキングだったか。
ナツキは表情を引き締め直し、それから教室中を走って私のすぐ傍まで来た。
「……普通ちゃん、ちょっと急ぎの用事があるから今すぐついて来てくれないかい」
ナツキは早口だった。
それから有栖さんの方を振り返る。
「いや、ゴメンね有峰有栖さん。実はボク、この子と大事な大事な大事な話があるんだ。だから、ちょっと貸してもらうよ」
「それ……アリスも聞いちゃダメなのですか? みっちゃんと一緒にいたいのです」
有栖さんが私の方へ手を伸ばし、腕を掴んでくる。
ナツキはぐいっとその手を引き話す。
「いやいや、本当に悪いね。急ぎの用なんだ。休み時間の残り時間もそう長くないから、その手を離してくれ」
「じゃあ……アリスがダメなら、マリちゃんも連れて行ってほしいのです」
ぐいっとマリス人形を差しだしてくる有栖さん。
「……うん、ほら、だからボクにはちょっと二人だけで話したいことがあってね。だからマリちゃんも遠慮してもらおうかな。行くよ、普通ちゃん」
ナツキは私を強引に立ち上がらせ、腕を引っ張って歩かせる。
「ちょ、ちょっとナツキ!」
数歩歩いたところで、私はナツキを呼び止める。
「なんだい普通ちゃん、今はお願いだからボクの言う通りにしてくれないかい?」
私はチラリと後ろを見てから、ナツキに耳打ちする。
「有栖さん、付いてくる気満々だよ」
私の忠告を聞き、ナツキが有栖さんを振り返る。
「どうしても付いてくるつもりらしいねキ。仕方がない、そのマリちゃんを連れて行ってあげるから、有峰有栖さんはそこの席に座っておいてもらえるかな」
「いいのですか! じゃあマリちゃんをよろしくお願いしますのです! マリちゃんを迷子にしちゃあ嫌なのですよ」
「ああ、わかったよ」
ナツキは有栖さんからマリス人形を受け取る。
それからにっこりわかって数度頭を撫で、小さな声で私に「屋上まで走るよ」と言われた。
「……え?」
ナツキの真意を掴めず戸惑っていると、ナツキは急に手にしたマリス人形を振りかぶり、窓に向かって投げつけた。
マリス人形はガラスを突き破り校舎外へと放り出される。
あまりの突然のことに、よくぞぬいぐるみなんかで強化ガラスを割れるものだなぁと、私はそんな場違いな感心を抱く。
「マ……マリスちゃぁぁぁあああんっ!!」
有栖さんの絶叫が教室中に響く。
それと同時に、ナツキが私の手を引いて走り出した。
「ちょちょちょちょっとっ! 今の酷いんじゃないの!?」
「いや、さすがのボクもちょっと心苦しかったよ。でもあの人形を持ってこなかったのは正解だと思うよ。呪われそうだし」
ナツキは無表情でさらっと言ってのける。
絶対悪かったと思ってないよね。
屋上まで駆け登ってから、ナツキは内側から鍵を掛ける。
「すぐ出るんだからそこまでしなくても……」
「一応……ね。保険は多い方がいい。常に最悪を想定して動くべきっていうだろう。最悪の事態ってのは五回に一回は来るものなのさ。それを笑顔で迎え入れられるほど、ボクは暢気じゃあないんでね」
「最悪の事態? よくわかんないけど、ひょっとしてナツキ嫉妬してるんじゃないの? 私が昼こっちに来なかったから……」
「……それに関しては釈明したいことが山ほどあるから、何なら本にまとめて普通ちゃんの家に全三十巻に及ぶ長編に仕立てて送ってあげてもいいのだけれど、しかしそれとこれとは本当に話が別なんだよ普通ちゃん」
大きく首を振り、ナツキは屋上の渕まで歩く。
「キミは、柩ヶ丘女子中学校を覚えているかい? 三年前、薬物蔓延が理由で廃校になったってところさ」
「そりゃあ覚えてるけど……」
当時世間に大きな衝撃を与えた有名な事件だ。
金持ちの御嬢様ばかりの集まる学校だったこともあって大規模な情報規制が引かれていたのか、大部分は公表されず終いになっている。
しかし大まかなことだけでも十二分にショッキングな大事件であった。
「ボクはちょっと思うところがあって、中学時代、暇なときは柩ヶ丘中学のことを調べ回っていたんだよ。廃校最後の一年間のことを、関係者の間では『地獄の一年間』と呼んでいるらしい。
実際に学校の中で広まっていたのは薬物だけじゃあなかった。生徒間の不信感を生み、不安感を煽る、薬物乱用へと繋がる強烈な悪要因が学校中に転がっていたのさ。その悪要因のひとつが、有峰有栖、彼女その人だ。意識させない方がいいと思ってたけど、こうなっちゃうんじゃあ先に言っておいた方が良かったね」