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その国がどこにあるかとか、どういう名前だとかは関係ない。知っておくべきは彼はぬるま湯のように平和な国から旅行に来た男で、その国の実状など知ろうと思ったこともない、ということである。その国は古くからの伝統を、風習を、プライドを捨て、国際社会で生き残るために経済大国の論理を、価値を、傲慢を受け入れていた。その途上を、すなわち捨てたものは多く、されど得たものは少ないという時期を正にその国は通過しつつあった。
「もしもし。ナッツか。着いたぜ」
空港の出口近くで、シャツにジーパン、サングラス姿の男がスーツケースを左手で引きつつ、右手の携帯電話に話しかけている。
「了解。悪いな、迎えに行けなくて」
電話から声がする。彼の友人の声だ。この友人は本人は認めないが勤めている会社から五年前に左遷されて以来この国に住んでいる。初めはジェスチャーとつたない英語でしかコミュニケーションがとれなかったそうだが、今では現地の言葉もほとんど問題なく扱えるようになったらしい。
ちなみにナッツというのはピーナッツが好きだった彼の学生時代のあだ名だ。それがあって男は今でも彼のことをナッツと呼んでいる。ちなみに男はナタデココ大好きココである。
「いやいや、空港からまだまだ電車に乗らなきゃダメだろ。そんな所までさすがに呼べないぜ」
ナッツの家は空港のある町からはかなり遠いところにある。田舎という訳ではないが空港が要るほど開発が進んでいる訳でもない。
「まあな。実際洒落にならない位遠いぞ。気を抜くなよ。向こうと違って治安が良いってことは無いんだからな」
ふと声を低くする。本気の忠告なのだろう。
「わかったよ。気を付けていく。奥さんによろしくな」
ナッツは三年前に現地の女性と結婚した。そして、娘も一人生んでいる。ナッツ一家とは半年前に会ったことがある。ナッツが家族を連れて帰郷してきたのだ。正直ちょっと嫉妬する位よくできた奥さんとかわいい子だった。ちなみにココは独身で、彼女もいない。
「ああ。お前も早くカミさんもらえよ」
若干のうらやましさをめざとく感じ取ったのかナッツが言う。にやにや笑いが目に浮かぶ。
「うるさい。じゃあな、また明日な」
今はまだ昼下がりだが今からでは真夜中になってしまう。そもそも電車も途中でなくなる。今日はこの町で一泊して、明日の電車でナッツの家まで向かうことになっている。
「じゃあな。気を付けて来いよ」
それで電話は切れた。もう一度念を押してきた。これだけ言うということは自分も何かひどい目に遭ったのだろうか。
ココはショルダーバッグを持ってこなかったことを心から後悔した。荷物はほとんどスーツケースの中なのだ。これでは地図とかをすぐ見ることができない。そのくせパスポートはズボンのポケットの中だ。まあ、旅行慣れしていないと言えばそれまでだが。
「昔っから俺はどこか抜けてるんだよな。もっと深く考えて行動しないと」
仕方ないので空港近くの店で一番まともそうな携帯用の鞄を購入する。柄は正直気に入らない。路上で荷物整理する訳にもいかないので近くの喫茶店に入り、窓際のテーブルに座る。幸運にも席が個別に分かれているタイプの喫茶店だった。とりあえずコーヒーをメニューを指さして注文する。コーヒーの到着を待つ間に、スーツケースを開きさっき買った鞄に荷物を移す。
荷物整理しているとコーヒーが来た。ひとくち飲んでみたがふたくち目はやめておいた。
ようやく荷物を整理し終わってソファにどっかりと座り直す。正直疲れた。飛行機の中でもたっぷりと休んだはずだがあれはノーカウントだったようだ。窓から外の景色を眺めてあらためて外国に来たんだと実感する。いや、した気分になっているだけかもしれないが。
今回の旅行はただの気晴らしだ。忙しい時期が過ぎて仕事がふっと楽になったのだ。このままだとまとまった休暇をぼんやりと消化してしまう、それはなんかいやだ、そうだ今は外国にいる親友の所で少々刺激のある休暇でも取ろう。
と、スーツケース片手に来たわけだがすでにホームシックになりそうだ。元がインドア派なので急激な環境の変化についていけない。
「異国の地で休暇を、なんてやめた方がよかったのかなあ・・・・・・」
と呟きつつうっかりコーヒーをすすり、少し後悔する。なんか俺はこのハンパな味のコーヒーみたいだ。ちゃんと苦みがあるわけではなく、ただまずい。そこまで考えたところでため息を吐いて、席を立った。コーヒーは、残した。
そのまま数十分間バスで待ち、ようやく来たバスに乗り、予約した宿と電車のある町へ向かう。
バスを降りて、見たこともないような形で、見たこともないようなでかい木が何本も地面から突き刺さっている道路の左側の歩道を歩く。広い通りだがどこか閑散としており、所々道路が壊れている。車も人もほとんど通っていない。当然店もあまり開いていない。まるで廃墟だが地図によれば、宿はこちらにあるようだ。
宿屋に向かって通りをぶらついていたそのとき、脇道から飛び出してきた女の子が歩道を走っていた自転車にぶつかった。勢いに負けて転がる女の子に何か(おそらくは気を付けろとかそんなん)言い捨てて自転車は走り去っていった。近くで起こった当て身事故に思わず近寄って女の子のそばにしゃがみこんでココは
「大丈夫か?」
と英語ですらない彼の母語で聞いた。理解できるはずがない、と気付いた彼が英語で言い直すより早く
「タスケテクダサイ」
と女の子は言った。現地語である。ココは少々後悔した。しまった、言葉もわからないのに関わるんじゃなかった、と。
「悪いな。言葉わかんないや」
言い捨てて自分も自転車の男と同じく行ってしまおうとした。情けないとは思うがどうすることもできない。幸いけがもなさそうだ、と勝手に判断してそそくさと立ち去ろうとした。
しかし、女の子はココのシャツの袖にすがるようにつかみ、
「タスケテクダサイ、タスケテクダサイ」
と言った。必死に何かを繰り返し言っていることはココにも分かったが、だからといってどうすることもできない。
すがる手をふりはらうこともできないハンパな男が、どうしようかと立ち尽くしていると、女の子の様子変わった。何かを見て目を見開き、顔は青ざめ、がたがた震えだした。
思わずその視線の先に目をやったココは、女の子が飛び出してきた通りを見るからにスーツ姿の男が四人、こちらに近付いて来るのを見た。歩いている。
そのときの娘の怯え方は尋常では無かったが、当て身の際に足を痛めたらしく、立ち上がることもできず呻き声とも叫び声ともとれる悲痛な声を出すことしかできていなかった。
男達が現れてからの出来事は実際には全てが二秒ほどの間の出来事であり、ココが次の行動を決定するのに要した時間であった。
ココは女の子を抱きかかえ、いままで歩いてきた通りを走って戻った。視界の端で男達も走り出したのが見えた。特に何か考えがあったわけではないが、こちらの方が安全なイメージがあった。走りながら左右を見て隠れられそうな建物を必死に探す。男達はまだこの通りに出てはいないはずだが早くしないと隠れるところを見つかってしまう。
その時たまたま通りの反対側、斜め向こうにこの通りに直行する別の通りが見えた。車がないことを音でだけ確認し、通りを全力疾走で横断する。通りに入り、足をゆるめず次の道を探し、進み、次々と角を曲がる。考えなしではあるが方向感覚はある。元の道に戻るなどというへまはしない。昔は鬼ごっこが得意だったこともある。
おそらくはかなり引き離したと思われる辺りでココはホームレスと思しき人々がたむろしているのを見つけた。助けてもらおうと近付いて行って、言葉の壁を思い出した。助けてもらいたいが、言葉は通じないという事実に声が詰まった瞬間、
「タスケテクダサイ、オワレテルンデス」
と腕の中の少女が言った。相変わらず何を言っているのかはココにはわからなかったがホームレス達がかくまってくれようとしていることは分かった。女の子を下ろすと、ホームレスに手招きされて、寝床に案内された。彼らの寝床のスペースへ入れられて、彼らへの感謝とそこの臭いへの嫌悪感でココは複雑な気分になった。
男達は巻いたはずなのでここまで来ることはないだろう。そう思ってココは少し安堵感を覚え、そしてとんでもないことに気付いた。
鞄が無い。
あの鞄の中にはパスポートこそ入っていないが現金も入っていたし、着替えも当然入っていた。なにより、宿代と電車のチケットが入っていた。
いま現在の異常な状況を忘れ、しばし呆然としていたココであったが、袖を引かれる感触に女の子に顔を向ける。彼女は、
「アリガトウ」
と言った。何を言っているのか理解できなかったが、それが感謝の言葉であることはわかった。
なぜなら彼女が顔中涙でぐちゃぐちゃにしながらそう言ったからだ。
その後も少女は泣きながらえんえんとその言葉を言い続けた。
泣き続ける女の子の頭をなでてやりながらココは、えらく刺激的な休暇になったもんだ、と思った。