フラグ1「エスケープ」
――気が付くと、清太は田んぼの切れ目である川べりに辿り着いていた。道はそのまま真っ直ぐ伸び橋となり、その先の住宅群に続いている。
(ここ……昔、よく遊んだっけ……)
膝が笑ってしまうほど全力で走った清太は、よろよろと橋の袂から草が生い茂る土手に入り、倒れ込んで荒い息を落ち着ける。
(……天気、いいな)
どこまでも広がる、青い空。
川の向こう、住宅群とは言え田舎町。木造平屋か二階建ての新しめの家が、おそらく庭でもあるのだろう間隔を空けて並んでいる。そしてその間隔を埋めるようにして、合間合間に桜が立ち並び、見事に咲き誇っていた。
「綺麗だな……」
思わず呟く。すると――
「――うわわっと!?」
驚く声と、ズササッと草を擦る音が聞こえ、清太は慌てて身を起こす。すると足下――つまり土手の下の方に、何故か警戒するように身構えた女の子が清太を見ていた。
「ん……?」
なんだろう、この状況。というか、いつから彼女は……。
しかしすぐに答えは出る。土手の下の方にいるということはつまり、ここには先客がいたのだ。おそらく今の清太と同様寝っ転がっていたのだろう。入ってきた時には気が付かなかった。
白いパーカーに、下は青いジーンズというラフな格好。髪は肩口で切り揃えられた黒髪、目は清太を少し睨んでいる。
「あー……その、ごめん」
なんとなく謝ってしまい、移動した方がいいかなとも思ったのだけど、まだ息は上がっているし、別にここは彼女の所有地というわけでもないだろうから、そのままの姿勢で固まってしまう。
「いや別に、謝るようなことはしてないじゃない」
身構えていた彼女は、なんだかホッとしたような感じで力を抜いて、片手で頭を掻く。
「そうだけど、なんとなくさ」
「なんとなくって……ねぇ。ま、いいわ。驚いたし、それについての謝罪ってことにしてあげる」
「驚いた?」
彼女は歩いて清太の側まで寄ってくる。その顔を見て、さっきは身構え警戒していたから睨んでいるように見えただけだとわかる。目尻が少しつり上がった切れ長の目は、少し顔をしかめただけで軽く睨んでいるように見えてしまう。きりっとしたその柳眉とは対照的に瞳の黒は大きく、美人というより幼さを残すカワイイ系の顔立ちに見える。睨んでいるように見えたその表情も、もう笑っているように見え……というか実際ちょっと笑ってるような?
「驚くわよ。人が寝て……」
「寝て……?」
「じゃなくて、ここで向こうの桜を眺めてたら、突然走り込んできて倒れ込むんだもん」
「う……それは、本当にごめん」
それだけ聞くと自分が恥ずかしい人みたいだ。いや実際恥ずかしい人だ。警戒されて当然。彼女は言い直したけど、寝てたのなら尚更、危険を感じたのかもしれない。……こんな所で寝ていたというのもどうかと思うけど。
「それで気になってこっそり様子を見ようと思ったら、いきなり声を出すんだもん」
「そうだよね……ん?」
こっそり様子を見ようとした?
「おかしい? 倒れ込んできた人がいきなり呟きだしたら驚くでしょ?」
「ああ……」
警戒していたんだし、当然と言えば当然か。こっそり見るよりも、こっそり逃げた方がいいと思うけど。
……と、自分で思って、ちょっと悲しい。
「ま、ちょっと面白かったけど」
「そうだよね……って、え? 面白い? 怖かったとかじゃなくて、面白いって?」
「まぁまぁ。そんな細かいことはどうでもいいじゃない。ね? それより、キミ、見ない顔だよね。……旅行?」
清太の問いには答えず、少女は傍らのボストンバッグを見ながら聞いてくる。なにが面白かったのか気にはなるけど追求しても恥ずかしいだけな気がして、話が逸れたのならそれに乗っかることにした。しかし、旅行――か。
「違うよ。旅行者じゃない。僕は――」
――逃亡者。思わずそう言ってしまいそうになり、言葉を止める。
「そうよね。見たところ歳はそんな変わらないし、どこも明日から学校だもんね。それに、こんななんにもない田舎町に旅行なんて、あり得ない」
「あ、ははは……。僕は、今日引っ越してきたんだよ」
「引っ越し? ……こんなとこに?」
「じいちゃんとばあちゃんが住んでて、それで」
「ふーん?」
首を傾げ、少女はそのまま隣りにどさっと座り込む。じっと遠くを眺めているその横顔、印象的なのはやはりその目だろうか。遠くを見るその切れ長の目は凛々しく整っていて、しかし大きな瞳はキツい感じを与えず、口元に浮かべた笑みと併せて親しみやすい雰囲気すら感じる。清太はその今にも感情が溢れ出しそうな横顔を眺め――さっき桜を見た時と同じ感想を抱いた。
「綺麗だって――」
「――えっ?」
まさか心を読まれた――? と思ったが、違った。彼女は右手を前に伸ばす。
「桜。綺麗だって呟いてたけど、あの桜はここから見るのが、たぶん一番綺麗だと思う」
「そう、なんだ。……ここに来るの久しぶり、ていうか、春に来たのは初めてだけど、あんなに綺麗な桜が咲くなんて知らなかったよ」
清太がそう応えると、彼女は桜を眺めながら話を続ける。
「おじいちゃんとおばあちゃんが住んでるんだっけ。夏休みか冬休みにしか、ここには来たことないの?」
「夏休みだけだったかな。それも、小学生の時の話だから、来たのは久しぶりなんだ」
「そうなんだ。結構遠くから来たの?」
「うーん、そうだな。朝に家を出て特急乗って……この時間に着いたから」
「今ちょうどお昼だから、三時間くらい? 特急でその時間なら小旅行レベルじゃない」
「まぁそう言われればそうなんだけど。……君は? この町の人だよね」
「もちろんよ。この町で、育ったの」
「そうだよなぁ。じゃないと、この桜の特等席はわからない」
「うん。わたしのお気に入りの場所」
清太も少女と同じように、桜を眺める。
「やっぱさ、春は桜。桜と言えば花見。よね」
「花見かぁ……」
そんなこと、考えもしなかった。……それどころじゃ、なかったから。
「前にね、学校に忍び込んで、校舎の屋上で花見したことあるのよ。いやー、あれは楽しかったー!」
「が、学校に忍び込んで? 屋上で?」
「うん。去年の春にね。日曜に友達数人で学校に忍び込んで、花見したの。屋上っていうか屋根なんだけどね? 天辺が平らになってて、教室と同じくらいの幅があるから結構快適。屋上として作られてないから柵なんてないけど、どうせ一階建てだしね。あ、だから桜も見下ろすっていうよりもほとんど同じ高さなんだよ」
「へぇー……。怒られたりしなかったの?」
「見付からないように気を付けたからね。ていうか、見付からないようにするのがすっごく面白くて。ドキドキした」
「まぁ、わからなくはないかな」
「でしょー? って言いたいところだけど。こういうのは実際やってみないとわかんないもんなのよ」
「……そういうもん?」
「そーいうもんなの」
自慢げに胸を反らす彼女。それを眺める清太。目が合って、ちょっと間を置いてから二人して笑い出す。
ああ、なんか楽しい……。初対面の女の子と、何気ない話をしているだけなのに、何故だろう楽しい。こんな風に笑ったのは随分久しぶりだ。ここ最近は、ずっと悩んでばかりだった。
だけど……そうだ、元々こういう風に、楽しく話せていたはずなのに……。
「あー、笑った笑った。それで?」
「――え? それで、って?」
「ここに走り込んで来た理由。なにもないわけないわよね?」
「う……」
唐突だった。突然、強引に、話を戻された。逃亡者という現実に引き戻された。
しかも彼女は、答えにくいところを突いてきたもんだから……。持ち上げられて、一気に落とされた気分だ。清太が黙ってしまうと、彼女は遠慮するつもりはまったく無いのか、「ん?」とこっちに顔を向け催促してくる。
(うわぁ……)
出会ったばかりの女の子は、目をキラキラと輝かせ、にんまりと笑みを浮かべ、好奇心を顔中、いやいや全身から滲み出させ、もとい溢れ出させている。先ほどのあの横顔から感じた感情の正体。それはこの好奇心だったのだ。
「そ、その……天気がよかったから」
「へーえ? ま、確かにキミが都会から引っ越してきたのなら、この田んぼばかりの田舎町は開放感があって気持ちいいんでしょうね。でもそれにしては、随分思い詰めた顔をしてたけど? 気持ちがいいなー! ウフフフフー! って感じじゃなかったわよ」
「ぐぐ……」
どうやらバッチリと見られていたようだ。寝てたんじゃなかったのか。
……というかそんな表情まで。よく見てるなぁ。
「どっちかというと、まるで叫びながら走ってきたあとって感じだった」
「それは……」
誰にも届かない、叫び――。
「……ちょっとその、前の街でのことを思い出しちゃって」
言い逃れはできそうにない。だけどこれで、納得して退いてくれないだろうか。
「前の街、ね。となると学校でのことかな? 引っ越し前になにかあった?」
退いてくれなかった。好奇心を迸らせているこの少女が、そんな簡単に退くわけはない。グイグイと顔を近づけてきて、思わず仰け反ってしまう。
とはいえ、初対面の相手にそこまで話す義理もない。なにより恥ずかしくてとてもじゃないけど話せない。なんとか言葉を濁して曖昧にしてしまえないだろうか? そうすれば、さすがにそれ以上は追求してこない……と、思う。なんて考えていると……。
「わかった。引っ越し前に女の子に告白とかされちゃって、返事しないでそのまま逃げてきたとか!」
「……え」
「もしくはその逆! 告白だけして逃げてきた……とか……。あれ?」
すでに少女の声は清太の耳には届いていなかった。みるみる顔が青くなり、目を見開き怯えるような顔で少女を見る。そんな様子に気付いたのだろう、笑顔で話していた少女もちょっとだけ真剣な顔になった。
「あの、もしかしてー……ビンゴ?」
「…………」
「女の子に告白されて、返事しないで逃げてきたの?」
まさかそれが正解だとは思っていなかったのだろう。思いつきで言ってみただけかもしれない。でも清太が思い切り顔に出してしまったために、少女は勘付いてしまった。
だけどやっぱり、詳しく話す義理はないのだ。このまま顔を逸らして、黙り込んでしまえばいい。そうすれば気まずくて、彼女も遠慮して立ち去るはず。
だけど――清太は、頷いてそれに応えていた。
「わーお……。ごめん、半分冗談だったんだけど……。そっかそっか……なるほど、女の子からの告白、かぁ」
気まずそうに腕を組んでうんうんと頷いている少女を見て、清太は思わず言葉を続けた。
「……たぶん想像してるのとは少し違うよ。だって――」
――告白してきたのは、一人ではないのだから。
*
清太の高校入学後の一年間は、尋常ではないモテ期だった。
それは春、入学式の日から始まっていた。入学早々遅刻しかけた清太は、同じく走って登校してきた女の子とぶつかり、出会い、なんとなく意気投合。しかもクラスメイトとなった。その後学校生活を通じ……気が付いたら、彼女は清太に恋愛感情を抱いていた。
また、暑くなり始めた初夏。帰宅部である清太はたまたま寄ったコンビニで、別のクラスメイトと出会う。店員と客という形で。その子は学校に内緒でアルバイトをしていて、家計を支えるためだと打ち明けてくれた。清太は学校やクラスメイトには黙っていることを約束し、それ以来彼女は唯一秘密を知る清太にバイトでの愚痴やらを話すようになり……気が付いたら、彼女は清太に恋愛感情を抱いていた。
また、夏休みに入ってからのこと。休みなのにも関わらず登校しようとしていた女の子と出会う。彼女は水泳部で、その練習のために夏休みも学校に通っていた。クラスメイトではなかったが、中学の時に一度同じクラスになったことがあるため、一応顔見知りだった。何故か話の流れで練習を見学することになり、何度かそういうことが続き、記録が伸び悩んでいるのを励ましたりしている内に……気が付くと、彼女は清太に恋愛感情を抱いていた。
また、夏休みが終わり文化祭の準備が始まり、文化祭実行委員になってしまった清太は(もう一人は最初に仲良くなった女の子だった)、その委員会で隣のクラスの女の子と知り合うことになった。その子は引っ込み思案で、押しつけられて委員になった様子。そしてもう一人の男子はやる気がなく、実質彼女が一人で委員をやっているようなものだった。その様子がなんだか放っておけなくて、自分の仕事の傍ら手伝ってあげているうちに……気が付いたら、彼女は清太に恋愛感情を抱いていた。
そして秋、文化祭当日。
後夜祭のキャンプファイヤーで、清太は文化祭実行委員の副委員長の女の子に告白された(隣のクラスの実行委員とはまた別の女の子だ)。その子はずっと、清太のことを見ていたそうだ。一人で仕事をしなくてはいけない、引っ込み思案の女の子を手伝ってあげている清太の姿に惚れたと言い、それまで二言三言しか言葉を交わしたことがなかったのに、好きだ、付き合ってほしいと告白をしてきたのだ。
さすがにすぐには応えることができず、清太はとりあえず友達から、という返事でやり過ごし、彼女も一旦はそれで退いてくれた。
ここまでの説明では、最後の女の子はともかくとして、他の子は恋愛感情を本当に抱いているかなんてわからないじゃないか、自意識過剰なんじゃないか、と思われてしまうだろう。実際自分も、この後起こる出来事まで、彼女たちの気持ちにはまったく気付かなかったのだから。
それは、文化祭が終わり、涼しいよりも寒いと感じ始めた初冬のある日――。
清太は一日の内に、仲の良かった女の子四人から連続で告白を受けたのだ。
……後でわかったことだが、後夜祭での告白は、四人の女の子たちに見られていたらしい(一緒に踊ろうと誘おうとしてくれていたそうだ)。副委員長の告白が四人に影響を与えたのは間違いないだろう。
五人の女の子から告白されたという事実は、清太が隠そうとしたにも関わらずあっと言う間に広まってしまった。
広まった噂には大きな尾ヒレが付き、膨らみ、伝説となり、清太を一目見ようと他のクラスから教室を覗きに来る女の子もいたほどだ。
そして何故か、その後も清太はモテ続けてしまう。認めよう、それ以上のことは確かに自意識過剰によるものなのかもしれない。だけど自然と、耳に入ってくる。あの子も清太のことが好きらしい、隣のクラスのあの美人が清太のことが好きだって噂だ、ある男子が女の子に告白したら振られてしまい、その理由は「清太のことが好きだから」だった、などなど……。
なんでそんなことになっているのか、清太にもよくわからない。しかしそんな噂が広まれば、自然と清太は男子の中で孤立していくことになる。……一部、おこぼれを頂こうとするちょっと変わった友人もいたけれど、清太を妬む男子がほとんどだった。
そんな状況になってしまったため、告白してくれた女の子にもまともな返事をすることができず、時間だけが過ぎていく。その間にも、別の女の子に告白をされたり、噂を聞かされたりして、清太の心は今にも千切れてしまいそうになっていた。
モテる男は辛いな。
清太の一番嫌いな言葉だった。
自分で口にしたことはない。何度も何度も言われた、その言葉。聞くたびに、心を切り裂かれるような、貫かれるような、酷い痛みを本当に感じていた。
そして年が明け冬が明け――三月。再び、最初の五人の女の子に告白をされ、ついに清太は限界を迎える。
悩みに悩んで、数日学校を休んで……それでも、答えは出ない。
そこへ、まったく関係のないところから、救いの手が差し伸べられた。
父の、長期海外勤務が、決まった。
母はそれについていく。清太は、もう高校生だしどっちでもいい、自分で選んでいいと言われた。一緒についてきてもいいし、残るのなら、今住んでいるマンションは出ることになるから、一人暮らし用のアパートを近くに借りることになる。それかもしくは――。
清太は、最後に提示された案にすぐに飛び付いた。
結果、こうして清太は田舎町へと引っ越してくることになる。
両親が用意してくれた、祖父と祖母が住む田舎へ引っ越すという逃げ道。
迷いは、なかった。正確に言えば、迷う余裕もなかった。道を用意された瞬間、すべての思考が吹き飛び、その逃げ道へ駆け込んでいた。正に、考え無しだ。
……もう、限界だったのだと思う。
千切れかけた心は、すべてを放棄して、逃げることを選んだ。
そして今になって、逃げてギザギザに固まった心が、軋みを上げる。
清太は後悔をしていた。
……いいや、逃げて心が落ち着いたからこそ、そんなことを思えるのだ。
あのままでいたら、清太は周りの状況に押し潰されてしまっていただろう。
(そうだ、だから……仕方が、なかったんだ)
頭に浮かんだ、その言葉。そんな風に片付けてしまう自分が、とても嫌だった。
*
「ご……五人?! マジで!?」
土手で出会った少女に、結局清太は事情を掻い摘んで話してしまった。もちろん、どんな女の子とどういう出会いをしたのかとか、細かい内容は省いた。五人の子に告白をされて、しかもそれをきっかけに何故かモテてしまい、悩みに悩み、結局まともな返事ができず引っ越すことを選んでしまった、ということだけだ。
だけどちょっとだけ後悔した。少女は驚き、あからさまに引いている。
「あ、ごめんごめん。いやーさすがにちょっと驚いちゃって。五人かー。そんなマンガみたいなことあるのね。……うーん、顔は普通なのに」
「…………」
ぐさり。なにげに酷いことを言われた気がする。
いや自分がイケメンだなんて思ってないが。
「つまりキミは、五人の中から一人を選ぶことなんてできなかった、ってことよね」
「……まぁ」
「それは一人好きな子がいて、残りの四人に気を遣ったってこと?」
「……え? いや、違うけど……」
「じゃ、キミは五人共にそれなりに好意を抱いていて、だから選べなかったってこと?」
「う……」
「キミ、分かりやすいなー。一番突かれたくないところを突かれたって顔してるよ」
その通り過ぎて、なにも言い返せない。
前の学校でも、友人に指摘されたことがある。
「五人とも、かわいかったの?」
「え?! そ、それは……………………………………うん」
本当に、答えにくいことをズバズバ聞いてくる。
彼女は突かれたくないところを突くのが上手いらしい。
「そんなんじゃ、キミ、そのうち全員からそっぽ向かれちゃうわよ? ……あ、逆にもう逃げてきたのよね」
「ぐ……。そうだよ。僕は五人から一人を選べなかったんだ。だから、逃げたんだよ」
そう言って目を逸らした清太を、少女はじっと見つめてくる。
「だったらどうして、全員断らなかったのよ」
「こ、断る?! え、なんでそんな話になるの?」
「わからないの? 選べないっていう理由はともかくさ、きちっとけじめを付ければよかったのよ。断るって形でね」
「で、でも、僕は……」
彼女の言葉が胸に突き刺さり、動揺し、だけど頭ではその意味をしっかり理解していた。
そうだ、きっとそれが……正しい。放り投げてただ逃げるよりは、間違いなく。
「だいたい、全部ほっぽり出して逃げるのと、全員振るの、同じようなものじゃない。それをしてこなかったのは――」
「…………………………」
その時、自分はどんな顔をしていたのだろうか。彼女は清太の顔を見て、言葉を止めた。
「あー……ま、いいんじゃない?」
「え? いいって、でも……」
「キミも、色々ギリギリだったみたいだしね。もうここまで来ちゃったんだし、だったら今キミを責めてもどうしようもない。反省してるなら、それでいいんじゃない?」
「反省はしているよ。だけど」
「ま、今頃その女の子たちがどうしているのか、気になるところだけどね」
「ぐ……」
今頃――。そうだ、そういうことすべて、考えずに逃げてきた。
「きっとてんてこ舞いね。大騒ぎになってるかもよ? 上を下への大騒動」
「……かもしれない。本当に大騒ぎになるのは、学校が始まる明日かもしれないけど」
「ね、携帯は? 携帯にじゃんじゃん電話やらメールが来てるんじゃないの?」
「……新しいの、買ったよ。新規契約で」
「ひゃー、そういうとこはしっかりしてるというか、徹底してるわねぇ」
考え無しだったクセに。逃げることはしっかりと考えていて、逃げた後はなにも考えていない。
本当に、どうしようもない。改めて、自分が最低な逃げ方をしたのだと自覚する。
「ね、キミ……これからこの町で、どういう風に過ごしていくつもり?」
「どういう風って、それは……」
それは、決まっている。この町へやってきて、そして誓ったこと。
「……同じことを繰り返さないようにするよ」
「同じこと、か。なるほどね」
少女は頷いて、人差し指を顔の前に突きつけてくる。
「これ以上、突っ込んだことは言わないって思ったけど、一つだけ」
「な、なに?」
目がつり上がり、睨むように清太を見てくる。
「気を遣い過ぎない方がいいよ。もっと気楽にっていうかさ、自由にしたらいいと思う」
「僕は、気を遣ったわけじゃないよ。それに、自由って? どういう意味?」
「どういう意味って、そのままの意味に決まってるじゃない」
彼女は顔をしかめ、しかしすぐに口元を緩め、笑顔になる。
「人生、悩んでばっかじゃ窒息しちゃうよ? もっと気楽に、楽しんでいかなきゃ!」
「気楽に……」
少女は楽しそうに、笑顔で言うけれど……今の清太に、同じように笑うことはできなかった。
「気楽になれないってことは、気を遣ってるってことよ」
「だけど……いや、でも僕は……」
言葉が続かない。そのまま清太が黙ってしまうと、少女は再びむっとした表情になり、ぐぐぐいっと息がかかりそうなほど顔を近づけてくる。
「だから普通に生活すればいーの! 食べて、寝て、遊んで、学校行って、勉強して、恋愛だってしたっていい! 自由なことができないなんて、絶対にだめ!」
「そんな、僕には……」
確かに普通の生活を送るつもりだ。目立たず、なにもしないで、ひっそりと。同じことを繰り返さないように。彼女の言うように、自由に過ごすことなんて、そんな生活を送るわけにはいかない。これは償いなのだから。
だけど――
「わかった?!」
「わ、わかったよ」
――気圧されて、思わずそう答えてしまう。
「うん。ならおっけ」
彼女はそう言うと、パッと笑った。
(うわ……)
可愛い。そんな言葉が頭に浮かんで、思わず口に出してしまいそうになった。
彼女の髪が揺れ、頬に触れたと同時に顔が離れていくのが、名残惜しいと感じてしまう。
「じゃ、わたしはこれで。狭い町だし、またどっかで会うと思うけど。その時はおねーさんがまた話を聞いてあげる」
特に返事を期待したわけではないのだろう、少女はズボンに付いた草を払い、手を振って土手を上り始める。清太は呆然としてしまい、声をかけることができない。
しかし数歩歩いたところで、あ、と声を上げて振り返った。
「そうだ、忘れてた。キミ、名前は?」
「あ、春野。……春野、清太」
「春野? 春野って言った?」
「そうだけど?」
「ふーん。そっか、春野……」
「もしかして、知ってるの?」
「ん、まぁね。さっきも言った通り狭い町だから」
「ああ、なるほど」
じいちゃんの家のことを知っているのだろう。それなりに大きい家だったはずだし。
「春野清太、ね。おっけ。わたしは風間涼香。ちゃんと覚えておいてね」
「風間、涼香。わかった、覚えとく」
ようやく、名前を教え合う二人。
「じゃ、清太。またね」
「ああ……また。涼香」
もう一度ひらひらと手を振って、少女――涼香は、今度こそ土手を上がって橋の方へ歩いていってしまった。
「……あぁ」
なにしてるんだろう、と冷静になった頭で思う。初対面の女の子相手に、身の上話をしてしまった。だけど、彼女の言うように気楽にはなれないけど、それでも……気持ちは、少しだけ軽くなった気がする。
結構きついことも言われたけど、それでも、だからこそ。
(そういえば……今みたいに、誰かに自分の話を聞いてもらうのって、初めてじゃないか?)
そうだ、いつも自分が聞く側で――。
「風間、涼香……か」
また会えるだろうか。いや、もう一度会いたいと思う。彼女ともっと話をしてみたい。
「あ~! こんなところにいた~!」
「――ん?」
間延びした声と共に、橋の上から涼香とは違う少女が、こっちを指さしているのが目に入る。どこかで見たことがあるその少女は、橋をトトトとゆっくり渡り(おそらく本人にとってはダッシュ)、清太の寝転がっていた土手までやってくる。
「もう、せーた~? なにしてるの? こんなところで」
小柄な少女が腰に手を当てぷんぷんと、頬を膨らませちょっと怒った顔をしている。
なにより、その特徴的な髪型。トレードマークとも言える、ツインテールは……。
「……七枝?」
清太の従妹、伊奈七枝に違いなかった。