序文
彼は、大切な、大切なものを置いて逃げてきた――。
真っ直ぐ伸びるその道は、車が二台ぎりぎりすれ違えるかどうかの狭い道幅。しかし左右を田んぼに挟まれていて、見晴らしがよく狭苦しい感じはしない。彼が今まで住んでいた、ビルやマンションが乱立するコンクリートの街並みの広い道路の方が、よっぽど窮屈に感じる。
開放感のある景色。言ってしまえば、田舎。
春。風はまだ少し肌寒いが、晴天、暖かい日差しの中、道の真ん中を歩くボストンバッグを抱えた少年。まだ幼さを残す顔立ちには、穏やかで気持ちの良い春の陽気とは裏腹に、翳りがあり、思いつめた表情を浮かべ、まるで日陰を歩いているかのように重い雰囲気を纏っていた。
何故なら彼は、逃げてきたから。都会から、田舎町へ。この土地に、逃げてきたのだ。
ここに来てようやく、そのことを実感し、酷い罪悪感に襲われていた。
彼は思う。どうして、自分は今、田舎のたんぼ道を歩くようなことになってしまったのだろう。……いいや、そんな他人事のように言うことは許されない。何故なら答えは明白で、逃げる道を自分が選んでしまったからに他ならない。目の前に逃げ道を用意され、それに飛び込んだのだ。状況に耐えられず、耐えきれず。ただ逃げることを選び、抱えていたすべてのものを、問題を、放り投げ置いてきてしまった。
涙がこぼれ落ちそうになるのを必死で堪える。泣くことなど、もっとも許されないはずだ。
後悔は、している。後先考えずに逃げてしまったこと、残してきたもののこと、考えるだけで心が軋み、悲鳴を上げたくなる。
だから……彼は、決めた。
二度と同じ事は繰り返さない。この田舎町で、静かに目立たないように過ごそう。
それだけが、逃げることを選んだ彼に唯一できる、残してきたものに対する償い。
そしてそれは、置いてきたすべてと決別する、覚悟。
「…………っ!!」
唐突にこみ上げてきた自分の中のナニカに突き動かされて、彼は駆けだした。
全力疾走。心に渦巻くそのナニカは、しかし言葉にならなくて、声に出せなくて、心の中で叫び声をあげる。誰にも届くことのない悲鳴を上げながら、がむしゃらに走る――。
四月。春野清太、高校二年生。
都会から、祖父母の住む田舎町へ、彼は逃げていた。
――自分に好意を抱いてくれた、女の子から。