ミチと願いの交差点で
そこには、空がなかった。
暗いわけではない。明るいわけでもない。
上を向けば星のようなものが瞬いているのに、次の瞬間には深い海の底が見えた。魚の群れが頭上を泳ぎ、その向こうを巨大な鳥が横切ったかと思えば、いつの間にか夕焼けに染まった街並みへ変わっている。
足元も同じだった。
石畳を踏んだはずなのに、一歩進めば草が鳴る。その次には雪があり、さらに歩けば浅い水の上に立っていた。
どれも知らない場所だった。
なのに、ときどき懐かしい。
「……なんだ、ここ」
少年は立ち止まった。
自分がどうやってここへ来たのか、覚えていない。
いや。
それ以前のことなら覚えている。
走っていた。
誰かのところへ行こうとしていた。
急がなければならなかった。
間に合わなくなると思った。
そこまでは覚えているのに、誰のところへ向かっていたのかだけが、どうしても思い出せない。
名前も。
顔も。
声さえも。
胸の奥に、何か大切なものを置き忘れてきたような感覚だけが残っていた。
「おーい!」
少年は声を上げた。
返事はない。
「誰かいないのかー!」
今度は少し大きく叫んでみた。
やはり返事はない。
代わりに、遠くで鐘が鳴った。
聞いたことのない鐘だった。
一度。
二度。
三度。
音が消えるころには、遠くにあった街も消えていた。
代わりに広がっていたのは、黄色い花畑だった。
「……なんなんだよ」
「ミチだよ」
「うわっ!?」
少年は飛び退いた。
いつからそこにいたのか、一人の誰かが立っていた。
男なのか女なのか分からない。
子どものようにも見えるし、大人のようにも見える。
白い服を着ていた気がしたのに、目を瞬いたときには黒い外套になっていた。髪の色さえ、見ようとするたび違って見える。
ただ、不思議と怖くはなかった。
「誰だよ、お前」
「ミチ」
「名前?」
「そう呼ぶ人もいる」
「じゃあ名前じゃないのか?」
「名前でもいいよ」
「どっちだよ」
その誰かは、少し笑った。
少年は眉をひそめる。
「ここは?」
「だから、ミチ」
「お前もミチで、ここもミチなの?」
「そう」
「ややこしいな!」
「よく言われる」
「他にも人いるのかよ」
「いたよ」
過去形だった。
少年は辺りを見回した。
花畑の向こうに海が見える。その海の上を、巨大な建物がゆっくり空へ昇っていった。
あれは船なのだろうか。
そう思った途端、船は無数の光になって消えた。
「ここ、どこなんだ?」
「どこでもないよ」
「じゃあ、あれは?」
少年は海が消えた場所を指差した。
「どこか」
「……お前、説明する気ないだろ」
「説明すると違うものになるから」
「意味分かんねえ」
「うん」
ミチは嬉しそうだった。
腹が立つ。
少年はもう一度歩き始めた。
行く場所など分からない。それでも立ち止まっているよりはましだった。
ミチはついてきた。
「なんでついてくるんだよ」
「君が歩くから」
「俺が止まったら?」
「止まる」
少年が立ち止まる。
ミチも止まった。
少年が一歩下がる。
ミチも一歩下がった。
「真似すんな!」
「君がやったんだよ」
「やってねえよ!」
ミチがまた笑った。
少年は諦めて歩いた。
しばらくすると、奇妙なことに気づいた。
道がない。
最初からそうだったはずなのに、今さら気づいた。
草原にも、雪原にも、石畳にも、水の上にも、一本として道らしいものはない。
「なあ」
「なに?」
「ミチなんだよな?」
「うん」
「道、ないじゃん」
ミチは少し考えた。
「まだ歩いてないからね」
「俺、ずっと歩いてるけど」
「君の後ろを見て」
振り返った。
少年は息を呑んだ。
一本の道があった。
遠くまで続いている。
石畳でも土でもない。
少年が踏んできた場所だけが、淡く光っていた。
「……俺が作ったの?」
「歩いたからできた」
「先は?」
「ないよ」
「は?」
「まだ歩いてないから」
少年は前を見る。
何もない。
振り返れば、道がある。
「道って、先にあるもんじゃないのか?」
「そういう道もある」
「これは?」
「違う道」
少年はしばらく考えて、頭を掻いた。
「やっぱ意味分かんねえ」
「それでいいよ」
また、それだ。
ここでは分からないことが、悪いことではないらしい。
歩いているうちに、少年は奇妙なものをいくつも見た。
二つの月が浮かぶ夜。
空を覆うほど巨大な樹。
鉄でできた鳥の群れ。
地平線まで続く墓標。
塔のようなものが逆さまに空から生えている世界もあった。
どれも一瞬だけ現れ、消えていく。
「これ、全部どっかにあるの?」
「あるものもある」
「ないのも?」
「まだないものもある」
「じゃあ、これからできる?」
「できないかもしれない」
「……もう聞かねえ」
「そう?」
「聞くと分かんなくなる」
「それはいいことだね」
「絶対お前とは仲良くなれねえ」
「そうかな」
ミチが笑った。
少年も少しだけ笑った。
どれほど歩いたのか分からない。
腹は減らなかった。
喉も渇かなかった。
眠くもならない。
時間というものが、ここにはないのかもしれない。
それでも少年は歩いた。
なぜ歩いているのか、自分でも分からなかった。
ただ、止まってはいけない気がした。
胸の奥に残った何かが、ずっと先を指している。
やがて。
少年は声を聞いた。
ほんの小さな声だった。
風の音かと思った。
それでも足が止まる。
「……今、なんか言った?」
「僕は何も」
少年は耳を澄ませた。
何も聞こえない。
歩き出そうとしたとき、また聞こえた。
今度は確かだった。
遠い。
途方もなく遠い。
ここからではない。
それでも、なぜか分かった。
声だった。
『――て』
少年は振り返る。
「誰かいる」
「いるね」
「どこ?」
「知らない」
「探せないの?」
「僕は探さないよ」
「なんで!」
「僕の願いじゃないから」
少年は黙った。
また声がした。
『――けて』
胸が痛んだ。
理由は分からない。
知らない声だ。
男なのか女なのかすら分からない。
それなのに、どうしようもなく胸がざわつく。
「……助けて、って言ってる」
「そう聞こえる?」
「聞こえるよ」
「じゃあ、君にはそうなんだね」
「お前には聞こえないの?」
ミチは答えなかった。
少年は声のした方を見る。
何もない。
ただ、遠くに小さな光があった。
さっきまではなかったはずだ。
星より小さい。
けれど、目を離せなかった。
「向こうに誰かいるのか?」
「いるかもしれない」
「行ける?」
「分からない」
「またそれかよ!」
少年は苛立って叫んだ。
「さっきから何にも分かんねえじゃん! ここがどこなのかも、あれがどこなのかも、どうやって行くのかも!」
「うん」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」
ミチは少年を見た。
初めてだった。
その姿が、変わらなかった。
子どもでも大人でもない。
男でも女でもない。
ただ、そこにいる。
「君は、どうしたい?」
少年は口を開きかけた。
答えられなかった。
どうしたい。
そんなことを聞かれたのは、いつ以来だろう。
どこへ行くべきかではない。
何をしなければならないかでもない。
正しいのはどちらかでもない。
ただ、自分がどうしたいのか。
もう一度、声がした。
『――助けて』
今度は、はっきり聞こえた。
少年は拳を握った。
「……助けたい」
何も起こらない。
少年はミチを見る。
「何も起きないぞ」
「うん」
「助けたいって言った」
「聞いたよ」
「じゃあ道出せよ!」
「僕は道を作らない」
「ミチだろ!?」
「うん」
「仕事しろよ!」
ミチは声を上げて笑った。
「笑うな!」
「ごめん、ごめん」
まったく悪びれず、ミチは目元を拭った。
「でも、君はもう知ってるよ」
「何を」
「道の作り方」
少年は足元を見る。
そして、振り返った。
自分が歩いてきた後ろにだけ、淡い道が続いている。
「……歩けって?」
「僕は何も言ってない」
「言ってるようなもんだろ」
少年は前を見る。
遠くに、小さな光。
その間には何もない。
道もない。
目印もない。
辿り着ける保証すらない。
「もし、違う場所に着いたら?」
「あるね」
「途中で消えたら?」
「あるかもしれない」
「俺が俺じゃなくなったら?」
ミチは少しだけ黙った。
「それも、あるかもしれない」
「名前とか、忘れる?」
「うん」
「今までのことも?」
「たぶん」
少年は胸元を握った。
怖かった。
何を忘れるのかも分からないのに、失いたくないと思った。
それでも遠くから、声がする。
『助けて』
「……それでも行く?」
ミチが聞いた。
少年は長いこと答えなかった。
自分の名前を口にしようとして、やめた。
なぜか今は、それより大切なことがある気がした。
「行く」
「どうして?」
少年は遠くの光を見た。
「まだ、助けてないから」
ミチは目を細めた。
「そっか」
少年が一歩を踏み出す。
何もなかった場所に、淡い光が灯った。
二歩目。
また一つ。
三歩目。
光は少しずつ、遠くの何かへ向かって伸びていく。
「なあ、ミチ」
「なに?」
「これ、どこに繋がるんだ?」
「知らない」
「最後までそれかよ」
「道は、行き先を決めないから」
少年は振り返った。
ミチはもう、ずいぶん遠くにいた。
いや。
少年の方が遠くへ来たのかもしれない。
「じゃあな!」
手を上げる。
ミチも手を上げた。
「またね」
「また会うの?」
「分からない」
「だと思ったよ!」
少年は笑った。
そして、前を向いた。
光へ向かって歩いていく。
一歩ごとに道が生まれる。
やがて少年の姿は小さくなり、無数の景色の向こうへ消えていった。
あとには一本の淡い道だけが残った。
けれど、それも少しずつ薄れていく。
最後の光が消える直前。
ミチは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「いい願いだね」
返事はない。
代わりに、遥か遠く。
少年が消えていったのとはまるで違う方角で、また一つ、小さな光が灯った。
ミチはそちらを見る。
知らない世界。
知らない誰か。
まだ形にもなっていない、何か。
それでも。
そこには確かに、願いがあった。
ミチは歩き出す。
道はない。
だからこそ――どこへでも行ける。




