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ミチと願いの交差点で

作者: 穂乃果
掲載日:2026/10/02

そこには、空がなかった。


 暗いわけではない。明るいわけでもない。


 上を向けば星のようなものが瞬いているのに、次の瞬間には深い海の底が見えた。魚の群れが頭上を泳ぎ、その向こうを巨大な鳥が横切ったかと思えば、いつの間にか夕焼けに染まった街並みへ変わっている。


 足元も同じだった。


 石畳を踏んだはずなのに、一歩進めば草が鳴る。その次には雪があり、さらに歩けば浅い水の上に立っていた。


 どれも知らない場所だった。


 なのに、ときどき懐かしい。


「……なんだ、ここ」


 少年は立ち止まった。


 自分がどうやってここへ来たのか、覚えていない。


 いや。


 それ以前のことなら覚えている。


 走っていた。


 誰かのところへ行こうとしていた。


 急がなければならなかった。


 間に合わなくなると思った。


 そこまでは覚えているのに、誰のところへ向かっていたのかだけが、どうしても思い出せない。


 名前も。


 顔も。


 声さえも。


 胸の奥に、何か大切なものを置き忘れてきたような感覚だけが残っていた。


「おーい!」


 少年は声を上げた。


 返事はない。


「誰かいないのかー!」


 今度は少し大きく叫んでみた。


 やはり返事はない。


 代わりに、遠くで鐘が鳴った。


 聞いたことのない鐘だった。


 一度。


 二度。


 三度。


 音が消えるころには、遠くにあった街も消えていた。


 代わりに広がっていたのは、黄色い花畑だった。


「……なんなんだよ」


「ミチだよ」


「うわっ!?」


 少年は飛び退いた。


 いつからそこにいたのか、一人の誰かが立っていた。


 男なのか女なのか分からない。


 子どものようにも見えるし、大人のようにも見える。


 白い服を着ていた気がしたのに、目を瞬いたときには黒い外套になっていた。髪の色さえ、見ようとするたび違って見える。


 ただ、不思議と怖くはなかった。


「誰だよ、お前」


「ミチ」


「名前?」


「そう呼ぶ人もいる」


「じゃあ名前じゃないのか?」


「名前でもいいよ」


「どっちだよ」


 その誰かは、少し笑った。


 少年は眉をひそめる。


「ここは?」


「だから、ミチ」


「お前もミチで、ここもミチなの?」


「そう」


「ややこしいな!」


「よく言われる」


「他にも人いるのかよ」


「いたよ」


 過去形だった。


 少年は辺りを見回した。


 花畑の向こうに海が見える。その海の上を、巨大な建物がゆっくり空へ昇っていった。


 あれは船なのだろうか。


 そう思った途端、船は無数の光になって消えた。


「ここ、どこなんだ?」


「どこでもないよ」


「じゃあ、あれは?」


 少年は海が消えた場所を指差した。


「どこか」


「……お前、説明する気ないだろ」


「説明すると違うものになるから」


「意味分かんねえ」


「うん」


 ミチは嬉しそうだった。


 腹が立つ。


 少年はもう一度歩き始めた。


 行く場所など分からない。それでも立ち止まっているよりはましだった。


 ミチはついてきた。


「なんでついてくるんだよ」


「君が歩くから」


「俺が止まったら?」


「止まる」


 少年が立ち止まる。


 ミチも止まった。


 少年が一歩下がる。


 ミチも一歩下がった。


「真似すんな!」


「君がやったんだよ」


「やってねえよ!」


 ミチがまた笑った。


 少年は諦めて歩いた。


 しばらくすると、奇妙なことに気づいた。


 道がない。


 最初からそうだったはずなのに、今さら気づいた。


 草原にも、雪原にも、石畳にも、水の上にも、一本として道らしいものはない。


「なあ」


「なに?」


「ミチなんだよな?」


「うん」


「道、ないじゃん」


 ミチは少し考えた。


「まだ歩いてないからね」


「俺、ずっと歩いてるけど」


「君の後ろを見て」


 振り返った。


 少年は息を呑んだ。


 一本の道があった。


 遠くまで続いている。


 石畳でも土でもない。


 少年が踏んできた場所だけが、淡く光っていた。


「……俺が作ったの?」


「歩いたからできた」


「先は?」


「ないよ」


「は?」


「まだ歩いてないから」


 少年は前を見る。


 何もない。


 振り返れば、道がある。


「道って、先にあるもんじゃないのか?」


「そういう道もある」


「これは?」


「違う道」


 少年はしばらく考えて、頭を掻いた。


「やっぱ意味分かんねえ」


「それでいいよ」


 また、それだ。


 ここでは分からないことが、悪いことではないらしい。


 歩いているうちに、少年は奇妙なものをいくつも見た。


 二つの月が浮かぶ夜。


 空を覆うほど巨大な樹。


 鉄でできた鳥の群れ。


 地平線まで続く墓標。


 塔のようなものが逆さまに空から生えている世界もあった。


 どれも一瞬だけ現れ、消えていく。


「これ、全部どっかにあるの?」


「あるものもある」


「ないのも?」


「まだないものもある」


「じゃあ、これからできる?」


「できないかもしれない」


「……もう聞かねえ」


「そう?」


「聞くと分かんなくなる」


「それはいいことだね」


「絶対お前とは仲良くなれねえ」


「そうかな」


 ミチが笑った。


 少年も少しだけ笑った。


 どれほど歩いたのか分からない。


 腹は減らなかった。


 喉も渇かなかった。


 眠くもならない。


 時間というものが、ここにはないのかもしれない。


 それでも少年は歩いた。


 なぜ歩いているのか、自分でも分からなかった。


 ただ、止まってはいけない気がした。


 胸の奥に残った何かが、ずっと先を指している。


 やがて。


 少年は声を聞いた。


 ほんの小さな声だった。


 風の音かと思った。


 それでも足が止まる。


「……今、なんか言った?」


「僕は何も」


 少年は耳を澄ませた。


 何も聞こえない。


 歩き出そうとしたとき、また聞こえた。


 今度は確かだった。


 遠い。


 途方もなく遠い。


 ここからではない。


 それでも、なぜか分かった。


 声だった。


『――て』


 少年は振り返る。


「誰かいる」


「いるね」


「どこ?」


「知らない」


「探せないの?」


「僕は探さないよ」


「なんで!」


「僕の願いじゃないから」


 少年は黙った。


 また声がした。


『――けて』


 胸が痛んだ。


 理由は分からない。


 知らない声だ。


 男なのか女なのかすら分からない。


 それなのに、どうしようもなく胸がざわつく。


「……助けて、って言ってる」


「そう聞こえる?」


「聞こえるよ」


「じゃあ、君にはそうなんだね」


「お前には聞こえないの?」


 ミチは答えなかった。


 少年は声のした方を見る。


 何もない。


 ただ、遠くに小さな光があった。


 さっきまではなかったはずだ。


 星より小さい。


 けれど、目を離せなかった。


「向こうに誰かいるのか?」


「いるかもしれない」


「行ける?」


「分からない」


「またそれかよ!」


 少年は苛立って叫んだ。


「さっきから何にも分かんねえじゃん! ここがどこなのかも、あれがどこなのかも、どうやって行くのかも!」


「うん」


「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」


 ミチは少年を見た。


 初めてだった。


 その姿が、変わらなかった。


 子どもでも大人でもない。


 男でも女でもない。


 ただ、そこにいる。


「君は、どうしたい?」


 少年は口を開きかけた。


 答えられなかった。


 どうしたい。


 そんなことを聞かれたのは、いつ以来だろう。


 どこへ行くべきかではない。


 何をしなければならないかでもない。


 正しいのはどちらかでもない。


 ただ、自分がどうしたいのか。


 もう一度、声がした。


『――助けて』


 今度は、はっきり聞こえた。


 少年は拳を握った。


「……助けたい」


 何も起こらない。


 少年はミチを見る。


「何も起きないぞ」


「うん」


「助けたいって言った」


「聞いたよ」


「じゃあ道出せよ!」


「僕は道を作らない」


「ミチだろ!?」


「うん」


「仕事しろよ!」


 ミチは声を上げて笑った。


「笑うな!」


「ごめん、ごめん」


 まったく悪びれず、ミチは目元を拭った。


「でも、君はもう知ってるよ」


「何を」


「道の作り方」


 少年は足元を見る。


 そして、振り返った。


 自分が歩いてきた後ろにだけ、淡い道が続いている。


「……歩けって?」


「僕は何も言ってない」


「言ってるようなもんだろ」


 少年は前を見る。


 遠くに、小さな光。


 その間には何もない。


 道もない。


 目印もない。


 辿り着ける保証すらない。


「もし、違う場所に着いたら?」


「あるね」


「途中で消えたら?」


「あるかもしれない」


「俺が俺じゃなくなったら?」


 ミチは少しだけ黙った。


「それも、あるかもしれない」


「名前とか、忘れる?」


「うん」


「今までのことも?」


「たぶん」


 少年は胸元を握った。


 怖かった。


 何を忘れるのかも分からないのに、失いたくないと思った。


 それでも遠くから、声がする。


『助けて』


「……それでも行く?」


 ミチが聞いた。


 少年は長いこと答えなかった。


 自分の名前を口にしようとして、やめた。


 なぜか今は、それより大切なことがある気がした。


「行く」


「どうして?」


 少年は遠くの光を見た。


「まだ、助けてないから」


 ミチは目を細めた。


「そっか」


 少年が一歩を踏み出す。


 何もなかった場所に、淡い光が灯った。


 二歩目。


 また一つ。


 三歩目。


 光は少しずつ、遠くの何かへ向かって伸びていく。


「なあ、ミチ」


「なに?」


「これ、どこに繋がるんだ?」


「知らない」


「最後までそれかよ」


「道は、行き先を決めないから」


 少年は振り返った。


 ミチはもう、ずいぶん遠くにいた。


 いや。


 少年の方が遠くへ来たのかもしれない。


「じゃあな!」


 手を上げる。


 ミチも手を上げた。


「またね」


「また会うの?」


「分からない」


「だと思ったよ!」


 少年は笑った。


 そして、前を向いた。


 光へ向かって歩いていく。


 一歩ごとに道が生まれる。


 やがて少年の姿は小さくなり、無数の景色の向こうへ消えていった。


 あとには一本の淡い道だけが残った。


 けれど、それも少しずつ薄れていく。


 最後の光が消える直前。


 ミチは、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「いい願いだね」


 返事はない。


 代わりに、遥か遠く。


 少年が消えていったのとはまるで違う方角で、また一つ、小さな光が灯った。


 ミチはそちらを見る。


 知らない世界。


 知らない誰か。


 まだ形にもなっていない、何か。


 それでも。


 そこには確かに、願いがあった。


 ミチは歩き出す。


 道はない。


 だからこそ――どこへでも行ける。

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