聖女が最後に流した涙は、誰よりも不器用な騎士だけが知っている
本作は、全四章で構成された異世界恋愛短編小説です。
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
━━━━━━━━━
第一章 宣告の広間
━━━━━━━━━
宣告を受ける者は、通常、頭を垂れる。
聖女エルザ・ヴァイスベルクは、垂れなかった。
いや、この瞬間をもって「元」聖女だ。
王宮の大広間。
シャンデリアの光の下に、白い礼服を纏った女性が一人、まっすぐに立っている。左右に貴族たちが並び、誰もその目を正面から見られなかった。それほど、彼女の立ち姿は、今日この場の誰よりも静かに端然としていた。
「エルザ・ヴァイスベルクに対し、魔力の枯渇、体内への瘴気の蓄積および呪いの発生を確認した。国民への被害拡大を防ぐため、即刻の国外追放を命ずる」
王太子の声が広間に満ちた。
本来であれば、魔力が枯渇した聖女には報酬が与えられる。貢献を讃えられ、静かに引退する。それが慣例だった。しかしエルザの場合は違った。魔力の枯渇だけではない。五年間にわたる浄化の過程で体内に溜まり続けた瘴気が、臨界を超え、呪いとして滲み出し始めている。王国が恐れたのは、彼女が「使えなくなったこと」ではない。彼女が「危険になったこと」だった。
貴族たちがざわめく。国外追放の意味を、この場にいる者はみな知っている。
追放者は、国境の儀式場で処刑される。それが暗黙の法だ。重犯罪者と同じ扱い。五年間、国のために命を削ってきた女性が、今日からそう呼ばれる。
俺は三歩後ろに立っていた。筆頭騎士として、今日もここにいる。
エルザの表情は、変わらなかった。
泣かなかった。膝をつかなかった。ただ静かに、まっすぐに王太子を見ていた。その目に怒りはなく、懇願もなかった。長い時間をかけて準備してきた人間の、静かな諦念だけがそこにあった。
(……強い人だ)
そう思った。それ以上の言葉が出てこなかった。感情を言葉にするのが、俺はひどく苦手だ。ただ、その立ち姿を、俺はずっと見ていた。
エルザとは、五年間、同じ戦場を歩いた。
彼女が戦地に出るとき、俺は少し後ろを歩いた。彼女が浄化の術を行使するとき、俺は周囲を警戒し、お守りした。言葉を交わすことは少なかった。任務と任務の間に、短いやりとりがある程度だった。
それでも、五年間で俺は多くのことを見ていた。
疲弊した兵士に回復魔法をかける前、エルザは必ず相手の名前を聞いた。どんなに戦況が逼迫していても、それだけは省かなかった。名前を聞いてから、名前を呼んでから、魔法をかけた。
それが、俺には印象に残っていた。
技術だけの人間ではないと、そのたびに思った。
王太子が宣告を読み上げる間、貴族たちがひそひそと囁き合う間、エルザは一度も視線を落とさなかった。その目は、まっすぐに王太子を見ていた。
俺にはわかる。
あの目は、痛みに慣れた人間の目だ。
聖女として費やした五年間。彼女は一度も「疲れた」と言わなかった。俺が知る限り、一度も。それが今、切り捨てられようとしている。
(この広間の人間を、全員殺せるか)
俺は頭の中で計算した。武装した騎士は十二名。貴族の護衛が六名。王太子の親衛隊が四名。
できる。
できるが、エルゼを救い出すことはできない。
王太子が何かを言っていた。俺の耳にはもう入っていなかった。
エルザが唇を噛んだ、その瞬間が目に焼きついた。
薄いピンク色の唇が、わずかに内側に折れ込む。痛みを呑み込む、その動作。俺にはわからない。ただ、その唇が白く変わりそうになる直前、彼女はゆっくりと力を抜いた。
美しかった。
理不尽の中で、みじめさを拒絶する、そのたった一つの動作が。これほどの仕打ちを受けても、エルザは泣かなかった。
泣いたら、どうなっていただろう。
もしエルザが崩れ落ちたら、俺はもう動いていただろう。剣を抜いていたか、この広間をひっくり返していたか。それを彼女は、知らない。
あなたが強かったから、俺はまだ人の形をしている。膝をつかなかった。五年間捧げた忠誠を、否定されながら、それでも彼女は、この広間の誰よりも気高く立っていた。
(どうして、あなたはそんなに強いんだ)
◆
「執行役および護衛の志願者はいるか」
手順書にある一文だった。誰も名乗り出ない。
エルザの体内に溜まった瘴気は、長時間"接触した者に影響"を与える。一般の騎士では、護衛を務めることができない。
俺は一歩、前に出た。
「アルスター・フォン・グライツ、拝命いたします」
広間が、しんと静まった。
「理由を述べよ」
「聖女殿の体内の瘴気に耐えられる者が必要です。私以外に、その条件を満たす者はおりません」
事実だった。
俺には生まれつき、瘴気への高い耐性がある。護衛と執行、両方を務めることができるのは、この場では俺だけだ。それが建前だった。
もう一つの理由は、口にしなかった。
もし誰かがこの役を担うなら、俺でなければならなかった。それだけのことだ。
王太子が俺を見た。その目には、わずかな驚きと、それをすぐに覆い隠した虚栄心があった。
「……許可する。さすがアルスター、最後まで職務に忠実だな」
宣告が終わり、エルザが退場する際、彼女は一度も頭を下げなかった。貴族たちの列の間を、真っすぐ歩いた。すれ違う者が視線を逸らした。誰一人、彼女の目を見なかった。
俺だけが、見ていた。
廊下の角を曲がる直前、エルザが一瞬だけ立ち止まった。
なぜ止まったのか、俺にはわからなかった。呼吸を整えていたのかもしれない。あるいは、誰かに振り向いてほしかったのかもしれない。
彼女は振り向かず、そのまま、廊下の奥に消えた。
俺は、それを見届けてから、踵を返した。
━━━━━━━━━
第二章 七日間の馬車
━━━━━━━━━
出発の朝、空は灰色だった。
馬車の中にエルザが一人。俺は外の御者台に座り、手綱を握った。他の護衛二名が馬で随行する。
誰も、口を開かなかった。
七日間の道のりだ。国境の儀式場まで、まっすぐ西へ。
一日目は、ほとんど沈黙のまま過ぎた。
出発してしばらくは、王都の建物が遠くに見えていた。俺は前を向いていた。エルザも、後ろを見ているのかどうか、わからなかった。
午後になって、街道が細くなった。
人の数が減り、森が始まった。馬の蹄の音と、車輪の音だけが続いた。
夕暮れ時に馬車を止めて野営の準備をした。他の護衛が食事を用意する間、俺はエルザが降りるための踏み台を出した。
「ありがとうございます……」
彼女が降りながら言った。俺は黙って頷いた。
夕食の後、エルザは馬車の外に腰をかけ、暗くなる空を見上げていた。俺は少し離れた場所に立って、周囲を警戒していた。
彼女は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。ただ、夜が来るまで、そこにいた。
夜になってエルザが馬車に戻った後、俺は外で番をした。眠れなかった。眠るつもりもなかった。
◆
二日目の昼。
小高い丘を越えた際、俺は手綱を引いて馬車を止めた。
下に広がる川と、その向こうの森が、光を受けてよく見えた。
「少し景色がいい場所があります。見ますか」
窓越しに声をかけると、小窓が開いた。
「……いいのですか?」
エルザがそっと窓から覗いた。しばらく、黙って眺めていた。
「きれいですね」
「ここはまだ王国内ですが、景色はきれいです」
「ええ」
細い声だった。それ以上、何も言わなかった。
俺はまた手綱を取り、馬を歩かせた。
二日目の夕方、小窓が開いた。
「アルスター卿」
「……はい」
「名乗り出てくださって、ありがとうございます」
俺はしばらく答えなかった。前を向いたまま、「職務ですので」と言った。
窓の向こうで、小さく笑う気配がした。
「職務でも、感謝しております」
それきり、また静寂が戻った。
◆
三日目の昼。
沢を通り過ぎた際、俺は湧き水で水筒を満たして窓越しに差し入れた。
「飲んでください。今日は陽が強い」
「ありがとうございます」
受け取る際、その手が見えた。細い指。少し乾いた肌。五年間、どれだけの者を救ってきた手か。俺は何も言わず、また前を向いた。
三日目の夜、野営の焚き火が落ち着いた頃、エルザが話し始めた。
「初めて、自分の体に瘴気が溜まっていると気づいたのは、聖女になって二年目の頃でした」
俺は焚き火の側に座ったまま、黙って聞いた。
「浄化をすると、魔物から出た瘴気が消えます。でも本当は、消えるわけじゃなかったんです。私の体に、少しずつ移っていた。最初は気づかないほどの量でした。でも積み重なっていって、五年で、臨界を超えました……」
「……知っていて、続けたのですか」
「ええ」
淡々とした声だった。
「やめれば、兵士たちが死に、村が汚染されます。私一人の問題と、他の多くの命を天秤にかけたとき、やめる選択肢は私には取れませんでした。それだけのことです」
「それだけのこと、と言えるものではないと思います」
言ってから、口が過ぎたかと思った。俺はそういうことを言う人間ではなかった。
しかしエルザは少しの間を置いて、静かに言った。
「そう言っていただけると、少し楽になります」
焚き火が、橙色の光を放っていた。エルザの横顔が、その光の中にあった。俺は視線を火の方に戻した。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「はい」
「後悔は、ありますか」
エルザが少し考えた。
「続けたことへの後悔は、ありません。ただ、もっと早く誰かに話していれば、別の方法があったかもしれない。それだけは思います」
「……そうですか」
「あなたには、話しています。初めて話した人です」
俺は何も言えなかった。
「……怖くないですか。私の傍にいて。瘴気の影響が出るかもしれないのに」
「耐性がありますので、お構いなく」
「そういうことではなくて」
そういうことではなくて、と彼女は繰り返した。
「私のことを、怖いと思いませんか。呪いを持つ者として」
俺は少し考えてから言った。
「思いません」
「どうして」
「あなたが選んだことの結果です。怖れるものではない」
エルザが静かになった。
しばらくして、「ありがとうございます」とだけ言った。
夜風が吹いた。焚き火の炎が揺れた。
俺は立ち上がり、エルザに毛布を一枚差し出した。
「夜は冷えます」
「ありがとうございます」
エルザは毛布を受け取って、両肩に掛けた。
「アルスター卿は、眠らなくていいのですか」
「番がありますので」
「……そうですか」
少しの間があった。
「あなたは、勇敢な方です」
「そうですか」
「ええ。そのままでいてください」
何を言いたいのか、よくわからなかった。ただ、「御意」と言おうとして、やめた。
「わかりました」
そう答えた。エルザが、また小さく笑った。
星のない夜だった。馬車の灯りが、ぼんやりと砂利道を照らしている。
俺は手綱を、少しだけ緩めた。馬の歩みが、わずかにゆっくりになった。
(もう少しだけ長く、この道が続けばいいのに……)
そう思ってしまった。
◆
四日目の朝、エルザが聞いた。
「アルスター卿は、瘴気が怖くないのですか。体の中に入り込んでくるものが」
「怖い、という感覚がよくわかりません。もともと感じないので」
「そうですか」
しばらくの沈黙の後、エルザが続けた。
「羨ましいです。私はずっと怖かった。体の中で何かが積み重なっていくのを感じていて、いつか限界が来るのはわかっていた。でも、やめられなかった」
俺は前を向いたまま言った。
「怖くても続けたのなら、それは弱さではないと思います」
返事がなかった。
しばらくして、「そうですね」という声だけが聞こえた。
昼頃、道沿いの小さな村を通り過ぎた。洗濯物を干していた老婆が、馬車に頭を下げた。子供たちが手を振っていた。
エルザが、小窓から手を振り返していた。
それだけのことだった。しかし俺には、その仕草が目に入った。追放されながら、見知らぬ村の子供に手を振れる人間がどれだけいるか。
俺は何も言わなかった。
四日目の夜。
野営の火を囲んでいる時だった。
他の護衛二人が寝入り、爆ぜる薪の音だけが響く時間。エルザが馬車から降りてきて、俺の隣に座った。
「昼間、村の子供たちに手を振っていましたね」
俺が口を開くと、エルザは膝を抱えたまま、火を見つめて小さく頷いた。
「……あの子たちの笑顔を守るために、私は五年間、瘴気を吸い込んできたのだと思いました。だから、最後にああして笑い返してもらえて、報われた気がしたんです」
そこまでは、いつもの凛とした彼女の声だった。
「でも、本当は……。本当は、自分が壊れていくのが、怖かったんです」
彼女の大きな瞳から、一粒の雫が零れ落ち、地面に吸い込まれた。
「浄化をするたび、指先の感覚が冷たくなっていく。体の中に泥のようなものが溜まっていく。誰も助けてくれない、誰にも代わってもらえない。……自分が消えてしまうことを考えると、足が震えて止まらないんです」
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
昼間の気丈な振る舞いも、王宮で見せた静かな諦念も、すべては彼女が自分に強いた「聖女」という仮面に過ぎなかったのだと、俺は今さらながらに悟った。
「それでも、あなたは強い人だと思います」
俺は不器用な言葉を投げていた。
「……強くなんてありません。アルスター卿の方がよほど……強いです」
彼女は顔を覆い、声を押し殺して泣いた。
五年間、国中の祈りと期待を背負い、一度も「疲れた」と言わなかった女性が、今、俺の前でただの震える一人の女性になっていた。
(あなたが、これほどまでに脆く、必死に命を繋ごうとしていたからこそ、俺は……)
俺は何も言わず、彼女の細い肩に手を置こうとして、止めた。
今の手は、彼女を救うためのものではなく、彼女を終わらせるための剣を握る手だからだ。
ただ、彼女の涙が枯れるまで、俺は火を絶やさないように薪をくべ続けた。
「……すみません。お見苦しいところを」
しばらくして、彼女は袖で乱暴に目元を拭った。鼻を赤くして笑おうとするその顔は、王宮で見たどの瞬間よりも、俺の胸を締め付けた。
「執行人である、アルスター卿にお話しするようなことではなかったですね……」
「謝らないでください……明日も早いのでお休みください」
「……そうですね」
彼女は少しだけ、本当に少しだけ、安心したように口角を上げた。
この夜の彼女の涙は、誰も知らない。
(俺だけに、留めておこう)
数日後、俺は剣を振るう。
◆
五日目の午後。雲が出てきた。
「そんなに難しいお顔をしないでください、アルスター卿」
「……していません」
「しています。この旅路の間、ずっとそのお顔です」
俺は何も言えなかった。
「私は、覚悟しています。だからあなたが苦しそうにしているのを見る方が、かえってつらいんです。私のことは気にしないでください」
「……そういうことを、言わないでください」
「どうして」
「俺が、困るので」
エルザが笑った。小さな声で、でも確かに笑った。今回の旅で初めて聞く、笑い声だった。
「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったんです」
「……いえ」
「でも、少しだけ嬉しかったです」
「何がですか」
「あなたが困ってくれたことが」
俺は前を向いたまま、それ以上何も言えなかった。胸の奥で何かが軋んだ気がしたが、それ以上考えなかった。
五日目の夜、エルザが聞いた。
「左腕の輪は、忠誠の証なのですか」
「ええ。騎士に任じられる際に、王家より授けられます」
「外せないのですか」
少し間があった。
「外せません。壊すことも、外すことも。壊そうとすれば呪いが発動します」
「……そうですか」
エルザは少し黙っていた。
「任務を放棄したり忠義に逆らうことをすると、私は死んでしまいます」
「では、あなたは国に逆らうことはできないのですね……」
「ええ」
俺は短く答えた。それ以上は言わなかった。エルザも、それ以上は聞かなかった。
しばらくの沈黙の後、エルザが静かに言った。
「ありがとうございます」
「何が、ですか」
「いろいろ、です」
どういう意味か、俺には正確にはわからなかった。でも、何となく、わかるような気もした。
◆
六日目の夕方、陽が低く傾いた頃、エルザが静かに言った。
「アルスター卿が、これまでで一番きれいだと思った場所はどこですか」
唐突な質問だった。俺は少し考えた。
「南方への遠征中の道に、一面の草原がありました。夕暮れ時で、草が全部、金色に見えて。鳥が群れで空を渡っていて。それを、ただ眺めていた時間があります」
「良いですね」
「ええ」
「……見てみたかったです」
その言葉を、俺はどう受け取ればいいかわからなかった。「見たかった」ではなく、「見てみたかった」だった。もう叶わないと、はっきり知っている言い方だった。
返す言葉が見つからないまま、前を向いていた。
「アルスター卿」
「はい」
「あなたは、後悔しませんか。この任務を引き受けたことを」
しばらく、考えた。
「後悔は、任務を終えてからするものだと思っています」
「……それが答えですか」
「今の俺には、それだけです」
エルザが少し笑った気がした。「そうですね」と、小さく言った。
それきり、日が沈むまで、二人は黙っていた。
六日目の夜。
他の護衛が交代で眠っている間、俺は馬車の側に立っていた。
中から、かすかな寝息が聞こえた。
左腕のリングを見た。鈍い銀色。外せない。壊せない。壊そうとすれば呪いが発動し、持ち主は死ぬ。王国への忠誠の証。俺が騎士である限り、外れることのないものだ。
(……明日だ)
俺は思った。
(明日、俺は剣を持ってあの人の前に立つ)
旅路の間、ずっと考え続けていた。俺はなぜ、この任務を引き受けたのか。護衛のためか。執行のためか。
正直に言えば、答えは出ていた。最初から出ていた。
ただ、その答えを実行するために、俺は一つのことをしなければならない。それがどれほど痛みを伴うか、わかっていた。
わかっていて、やると決めていた。
一瞬で終わらせる。
左腕のリングをもう一度見た。明日の朝、俺がすることを想像した。
(痛みは、たぶん、想像よりひどい……)
大事なのは、そのあとのことだ。
馬車の中から、かすかな寝息が聞こえていた。
今夜だけは、この人に穏やかに眠っていてほしかった。それだけ思った。
◆
夜が明け、七日目の朝が来た。
馬車に乗る前、エルザが空を見上げた。
昨日まで曇っていた空が、今日は晴れていた。国境方向の地平線が、薄い橙に染まっていた。
「おはようございます。いい朝ですね」
エルザが言った。
「ええ」
「……不思議です。こんなにいい朝なのに、今日が最後の日だと思うと」
俺は黙っていた。
「でも、いいんです。いい朝に、最後の日が来てよかった」
彼女は振り向いて、俺を見た。
「アルスター卿、七日間、ありがとうございました。あなたと話せて、よかったです」
俺は何も言えなかった。
「行きましょうか」
エルザが先に歩き始め、馬車に向かった。俺はその後を追った。
━━━━━━━━━
第三章 国境の儀式場
━━━━━━━━━
石造りの低い祭壇が、現れた。
周囲には、季節を迎えた草花が広がっている。馬車が止まった。
エルザが降りた。
朝の心地よい空気の中で、彼女は静かに周囲を見回した。覚悟した人間の目だった。俺は黙って、その隣に立った。
儀式場の祭壇の手前に、花が一輪、風に揺れていた。この場所で終わった人が、これまでにも何人もいる。そのことを、俺は初めて、強く感じた。
護衛の一人が手順書を開いた。
エルザが祭壇の前に進み、跪こうとした。
「立っていてください」
俺は言っていた。
エルザが振り向く。
「立ったまま、受けてください」
短い沈黙の後、エルザは頷いた。
俺は剣を抜いた。金属の擦れる音が、朝の静けさの中に広がった。
手順書が読み上げられる。
罪状。
宣告。
執行の命。
その言葉が、耳に入ってくるようで、入ってこなかった。
「……では、執行をお願いします」
手順書の内容を読み終えたらしく、護衛の一人が俺に指示をしていた。
俺は剣を持って、エルザの前に立った。
彼女の目が、俺を見た。怯えていなかった。五年間の選択を抱えたまま、ここまで来た人間の目だった。
「七日間、ありがとうございました」
小さな声だった。
俺は答えなかった。答えられなかった。
剣を、上げた。
エルザが目を閉じる。
その顔を、俺は見た。
(やれ。任務だ)
(できる)
(やれ)
(でき……)
剣が、止まった。
一瞬だった。その一瞬に、七日間が全部入っていた。緩めた手綱。差し入れた水筒。丘の上で止めた馬車。「俺が、困るので」と言った夜。「見てみたかったです」という言葉。そして、俺しか知らない涙。
エルザの目が閉じられている。その顔は、怖れていなかった。五年間の選択の重さを、全部受け入れた人間の顔だった。
(俺はあなたを、ここで終わらせたくはない)
俺は刃を返した。
自分の左の前腕に、力の限り振り下ろした。
重い音がした。
草の上に、血が落ちる。鋭い痛みが腕から肩まで走った。
忠誠の輪が、赤く濡れた草の上を転がった。
呪いが、解かれた。
護衛の二人が動く。
「何をしている!」
俺は右手だけで剣を構えた。左腕から血が滴る感覚があった。
「すまない……」
低い声が出た。
二人は一瞬止まったが、それでも構えを取った。俺は最小限の動きで、二人を制した。利き手は残っている。五年間の戦場で培ったものは、腕一本では消えなかった。
二人が動かないことを確認して、俺は振り返った。
エルザが、そこにいた。
目を開けたまま、俺を見ていた。
草の上に転がったリングを見て、俺の腕を見て、また俺の顔を見た。
何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
言葉にできることは何もなかった。七日間かけても言えなかったことを、今さらここで言葉にできるはずがなかった。
ただ、剣を鞘に収めた。右手で左腕を押さえた。それだけだった。
━━━━━━━━━
第四章 奇跡の先へ
━━━━━━━━━
「腕が……」
エルザが一歩踏み出した。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです」
彼女の声が、初めて揺れた。怒っているような、泣きそうなような、そのどちらでもあった。
俺は右手で左腕を押さえながら言った。
「国境を越えれば、王国の管轄外になります。行きましょう」
「でも……」
「エルザ殿」
初めて、名前を呼んだ。
「歩けますか」
エルザは少し息を呑んだ。それから、頷いた。
俺たちは国境の方へ歩き始めた。
境界線が見えてきた。石を積み上げた低い壁。その向こうが、俺たちの行く場所だ。
視界が、少し揺れた。
血を失っている。布で縛ってはあるが、十分ではない。左腕の感覚が、遠くなってきていた。足が、地面を確かに踏んでいるのかどうか、少し曖昧になってきた。
「アルスター卿」
エルザの声がした。
俺の右腕に、細い手が触れた。支えようとしている。
「お気遣いなく」
「無理です……」
譲らない声だった。
俺は黙って、少しだけその手に体重を預けた。
境界まで、あと数歩だった。
「待ってください」
エルザが立ち止まった。
彼女は俺の左腕を見た。布が赤く染まっている。
「触れさせてください」
「あなたには、もう魔力が……」
「触れさせてください」
俺は黙った。
エルザの両手が、そっと俺の左腕に触れた。
何も起きなかった。
五秒、十秒。
エルザが目を閉じた。その顔が、わずかに歪んだ。何かを探している。失われたと思っていたものを、手探りで探している。
俺は静かにしていた。
エルザの指が、傷口の上に、そっと重なった。震えていた。緊張なのか、力を使おうとしているのか、わからなかった。
白い光が見えた。
俺は目を疑った。
エルザの手の中に、かすかな光が灯っていた。小さく、頼りなく、それでも確かにそこにあった。枯れたと思っていた泉が、底の方でまだ水を蓄えていたような、そういう光だった。
温かい。
痛みが、徐々に引いていく。
エルザが手を離した。傷は完全には塞がっていなかった。しかし、血が止まっていた。
「……エルザ殿」
彼女は自分の手を見ていた。信じられない、という顔で。
「師匠が言っていました。枯渇した魔力が回復した前例は、一件もないと。だから私も、もう二度と使えないものだと思っていた」
声が、かすかに震えていた。
「でも……使えた」
エルザは自分の手を握ったり開いたりした。信じられないという仕草だった。
俺はエルザの顔を見た。
彼女の目に、光が揺れていた。涙をこらえている。悲しい涙ではなかった。
「どうして戻ったんでしょう」
「わかりません」
「……あなたが、あんなことをしたから、でしょうか」
俺は答えなかった。
「私のために腕を……だから……」
「理由はわかりません。ただ、よかった」
俺はそれだけ言った。エルザが少し俯いた。一粒だけ、涙が草の上に落ちた。
(……よかった)
気づいたら、そう言っていた。
エルザが俺を見た。少しの沈黙の後、彼女は笑った。今回の旅で、一番はっきりした笑顔だった。
「行きましょう」
エルザが言った。
俺は頷いた。
二人で、石の壁を越えた。
足元の草が、朝露で濡れていた。遠くで、鳥の声がした。静かで、どこまでも静かだった。
しばらく歩いた。霧が薄れてきた頃、草原が広がり始めた。光が、斜めに差し込んでいる。
エルザが足を止めた。その顔が、光の方を向いた。
「……きれい」
呟いた。
草の葉先が、朝露と光を受けて輝いていた。金色ではなかった。でも、十分にきれいだった。
「南の草原には、もっと広い場所があります」
俺は言った。
エルザが振り向いた。
「連れて行ってくれますか」
「行きましょう」
短く答えた。
エルザが、また笑った。
俺は少しだけ、その笑顔を見た。七日間で何度か見た笑顔の中で、今のそれが、一番はっきりしていた。
二人で歩き始めた。
左腕はまだ完全には癒えていなかった。動かすたびに鈍い痛みがあった。それでも歩けた。エルザが隣にいた。
しばらく行くと、西の草原が広がっていた。
「ここも、きれいですね」
エルザが言った。
「ええ」
俺は答えた。
その後、しばらく二人は黙ったまま歩いた。
行く場所は南と決まっていた。だが、お金も、計画もない。ただ、歩いていた。
今は、それで、十分だと思った。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「聖女が最後に流した涙は、誰よりも不器用な騎士だけが知っている」、いかがでしたか?
良かった!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!
また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)




