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聖女が最後に流した涙は、誰よりも不器用な騎士だけが知っている

作者: おでこ
掲載日:2026/04/06

本作は、全四章で構成された異世界恋愛短編小説です。


一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/


━━━━━━━━━

第一章 宣告の広間

━━━━━━━━━


 宣告を受ける者は、通常、頭を垂れる。


 聖女エルザ・ヴァイスベルクは、垂れなかった。


 いや、この瞬間をもって「元」聖女だ。


 王宮の大広間。

シャンデリアの光の下に、白い礼服を纏った女性が一人、まっすぐに立っている。左右に貴族たちが並び、誰もその目を正面から見られなかった。それほど、彼女の立ち姿は、今日この場の誰よりも静かに端然としていた。


「エルザ・ヴァイスベルクに対し、魔力の枯渇、体内への瘴気の蓄積および呪いの発生を確認した。国民への被害拡大を防ぐため、即刻の国外追放を命ずる」


 王太子の声が広間に満ちた。


 本来であれば、魔力が枯渇した聖女には報酬が与えられる。貢献を讃えられ、静かに引退する。それが慣例だった。しかしエルザの場合は違った。魔力の枯渇だけではない。五年間にわたる浄化の過程で体内に溜まり続けた瘴気が、臨界を超え、呪いとして滲み出し始めている。王国が恐れたのは、彼女が「使えなくなったこと」ではない。彼女が「危険になったこと」だった。


 貴族たちがざわめく。国外追放の意味を、この場にいる者はみな知っている。

 追放者は、国境の儀式場で処刑される。それが暗黙の法だ。重犯罪者と同じ扱い。五年間、国のために命を削ってきた女性が、今日からそう呼ばれる。


 俺は三歩後ろに立っていた。筆頭騎士として、今日もここにいる。


 エルザの表情は、変わらなかった。


 泣かなかった。膝をつかなかった。ただ静かに、まっすぐに王太子を見ていた。その目に怒りはなく、懇願もなかった。長い時間をかけて準備してきた人間の、静かな諦念だけがそこにあった。


(……強い人だ)


 そう思った。それ以上の言葉が出てこなかった。感情を言葉にするのが、俺はひどく苦手だ。ただ、その立ち姿を、俺はずっと見ていた。


 エルザとは、五年間、同じ戦場を歩いた。

 彼女が戦地に出るとき、俺は少し後ろを歩いた。彼女が浄化の術を行使するとき、俺は周囲を警戒し、お守りした。言葉を交わすことは少なかった。任務と任務の間に、短いやりとりがある程度だった。


 それでも、五年間で俺は多くのことを見ていた。


 疲弊した兵士に回復魔法をかける前、エルザは必ず相手の名前を聞いた。どんなに戦況が逼迫していても、それだけは省かなかった。名前を聞いてから、名前を呼んでから、魔法をかけた。


 それが、俺には印象に残っていた。


 技術だけの人間ではないと、そのたびに思った。


 王太子が宣告を読み上げる間、貴族たちがひそひそと囁き合う間、エルザは一度も視線を落とさなかった。その目は、まっすぐに王太子を見ていた。


 俺にはわかる。


 あの目は、痛みに慣れた人間の目だ。


 聖女として費やした五年間。彼女は一度も「疲れた」と言わなかった。俺が知る限り、一度も。それが今、切り捨てられようとしている。


(この広間の人間を、全員殺せるか)


 俺は頭の中で計算した。武装した騎士は十二名。貴族の護衛が六名。王太子の親衛隊が四名。


 できる。


 できるが、エルゼを救い出すことはできない。

 

 王太子が何かを言っていた。俺の耳にはもう入っていなかった。


 エルザが唇を噛んだ、その瞬間が目に焼きついた。


 薄いピンク色の唇が、わずかに内側に折れ込む。痛みを呑み込む、その動作。俺にはわからない。ただ、その唇が白く変わりそうになる直前、彼女はゆっくりと力を抜いた。


 美しかった。


 理不尽の中で、みじめさを拒絶する、そのたった一つの動作が。これほどの仕打ちを受けても、エルザは泣かなかった。


 泣いたら、どうなっていただろう。

 もしエルザが崩れ落ちたら、俺はもう動いていただろう。剣を抜いていたか、この広間をひっくり返していたか。それを彼女は、知らない。


 あなたが強かったから、俺はまだ人の形をしている。膝をつかなかった。五年間捧げた忠誠を、否定されながら、それでも彼女は、この広間の誰よりも気高く立っていた。


(どうして、あなたはそんなに強いんだ)


   ◆


「執行役および護衛の志願者はいるか」


 手順書にある一文だった。誰も名乗り出ない。


 エルザの体内に溜まった瘴気は、長時間"接触した者に影響"を与える。一般の騎士では、護衛を務めることができない。


 俺は一歩、前に出た。


「アルスター・フォン・グライツ、拝命いたします」


 広間が、しんと静まった。


「理由を述べよ」


「聖女殿の体内の瘴気に耐えられる者が必要です。私以外に、その条件を満たす者はおりません」


 事実だった。

俺には生まれつき、瘴気への高い耐性がある。護衛と執行、両方を務めることができるのは、この場では俺だけだ。それが建前だった。


 もう一つの理由は、口にしなかった。


 もし誰かがこの役を担うなら、俺でなければならなかった。それだけのことだ。


 王太子が俺を見た。その目には、わずかな驚きと、それをすぐに覆い隠した虚栄心があった。


「……許可する。さすがアルスター、最後まで職務に忠実だな」


 宣告が終わり、エルザが退場する際、彼女は一度も頭を下げなかった。貴族たちの列の間を、真っすぐ歩いた。すれ違う者が視線を逸らした。誰一人、彼女の目を見なかった。


 俺だけが、見ていた。


 廊下の角を曲がる直前、エルザが一瞬だけ立ち止まった。


 なぜ止まったのか、俺にはわからなかった。呼吸を整えていたのかもしれない。あるいは、誰かに振り向いてほしかったのかもしれない。


 彼女は振り向かず、そのまま、廊下の奥に消えた。


 俺は、それを見届けてから、踵を返した。



━━━━━━━━━

第二章 七日間の馬車

━━━━━━━━━


 出発の朝、空は灰色だった。


 馬車の中にエルザが一人。俺は外の御者台に座り、手綱を握った。他の護衛二名が馬で随行する。


 誰も、口を開かなかった。


 七日間の道のりだ。国境の儀式場まで、まっすぐ西へ。


 一日目は、ほとんど沈黙のまま過ぎた。


 出発してしばらくは、王都の建物が遠くに見えていた。俺は前を向いていた。エルザも、後ろを見ているのかどうか、わからなかった。


 午後になって、街道が細くなった。

 人の数が減り、森が始まった。馬の蹄の音と、車輪の音だけが続いた。


 夕暮れ時に馬車を止めて野営の準備をした。他の護衛が食事を用意する間、俺はエルザが降りるための踏み台を出した。


「ありがとうございます……」


 彼女が降りながら言った。俺は黙って頷いた。


 夕食の後、エルザは馬車の外に腰をかけ、暗くなる空を見上げていた。俺は少し離れた場所に立って、周囲を警戒していた。


 彼女は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。ただ、夜が来るまで、そこにいた。


 夜になってエルザが馬車に戻った後、俺は外で番をした。眠れなかった。眠るつもりもなかった。


   ◆


 二日目の昼。

 小高い丘を越えた際、俺は手綱を引いて馬車を止めた。


 下に広がる川と、その向こうの森が、光を受けてよく見えた。


「少し景色がいい場所があります。見ますか」


 窓越しに声をかけると、小窓が開いた。


「……いいのですか?」


 エルザがそっと窓から覗いた。しばらく、黙って眺めていた。


「きれいですね」


「ここはまだ王国内ですが、景色はきれいです」


「ええ」


 細い声だった。それ以上、何も言わなかった。


 俺はまた手綱を取り、馬を歩かせた。


 二日目の夕方、小窓が開いた。


「アルスター卿」


「……はい」


「名乗り出てくださって、ありがとうございます」


 俺はしばらく答えなかった。前を向いたまま、「職務ですので」と言った。


 窓の向こうで、小さく笑う気配がした。


「職務でも、感謝しております」


 それきり、また静寂が戻った。


   ◆


 三日目の昼。

 沢を通り過ぎた際、俺は湧き水で水筒を満たして窓越しに差し入れた。


「飲んでください。今日は陽が強い」


「ありがとうございます」


 受け取る際、その手が見えた。細い指。少し乾いた肌。五年間、どれだけの者を救ってきた手か。俺は何も言わず、また前を向いた。


 三日目の夜、野営の焚き火が落ち着いた頃、エルザが話し始めた。


「初めて、自分の体に瘴気が溜まっていると気づいたのは、聖女になって二年目の頃でした」


 俺は焚き火の側に座ったまま、黙って聞いた。


「浄化をすると、魔物から出た瘴気が消えます。でも本当は、消えるわけじゃなかったんです。私の体に、少しずつ移っていた。最初は気づかないほどの量でした。でも積み重なっていって、五年で、臨界を超えました……」


「……知っていて、続けたのですか」


「ええ」


 淡々とした声だった。


「やめれば、兵士たちが死に、村が汚染されます。私一人の問題と、他の多くの命を天秤にかけたとき、やめる選択肢は私には取れませんでした。それだけのことです」


「それだけのこと、と言えるものではないと思います」


 言ってから、口が過ぎたかと思った。俺はそういうことを言う人間ではなかった。


 しかしエルザは少しの間を置いて、静かに言った。


「そう言っていただけると、少し楽になります」


 焚き火が、橙色の光を放っていた。エルザの横顔が、その光の中にあった。俺は視線を火の方に戻した。


「一つだけ、聞いてもいいですか」


「はい」


「後悔は、ありますか」


 エルザが少し考えた。


「続けたことへの後悔は、ありません。ただ、もっと早く誰かに話していれば、別の方法があったかもしれない。それだけは思います」


「……そうですか」


「あなたには、話しています。初めて話した人です」


 俺は何も言えなかった。


「……怖くないですか。私の傍にいて。瘴気の影響が出るかもしれないのに」


「耐性がありますので、お構いなく」


「そういうことではなくて」


 そういうことではなくて、と彼女は繰り返した。


「私のことを、怖いと思いませんか。呪いを持つ者として」


 俺は少し考えてから言った。


「思いません」


「どうして」


「あなたが選んだことの結果です。怖れるものではない」


 エルザが静かになった。


 しばらくして、「ありがとうございます」とだけ言った。


 夜風が吹いた。焚き火の炎が揺れた。


 俺は立ち上がり、エルザに毛布を一枚差し出した。


「夜は冷えます」


「ありがとうございます」


 エルザは毛布を受け取って、両肩に掛けた。


「アルスター卿は、眠らなくていいのですか」


「番がありますので」


「……そうですか」


 少しの間があった。


「あなたは、勇敢な方です」


「そうですか」


「ええ。そのままでいてください」


 何を言いたいのか、よくわからなかった。ただ、「御意」と言おうとして、やめた。


「わかりました」


 そう答えた。エルザが、また小さく笑った。


 星のない夜だった。馬車の灯りが、ぼんやりと砂利道を照らしている。


 俺は手綱を、少しだけ緩めた。馬の歩みが、わずかにゆっくりになった。


 (もう少しだけ長く、この道が続けばいいのに……)


 そう思ってしまった。


   ◆


 四日目の朝、エルザが聞いた。


「アルスター卿は、瘴気が怖くないのですか。体の中に入り込んでくるものが」


「怖い、という感覚がよくわかりません。もともと感じないので」


「そうですか」


 しばらくの沈黙の後、エルザが続けた。


「羨ましいです。私はずっと怖かった。体の中で何かが積み重なっていくのを感じていて、いつか限界が来るのはわかっていた。でも、やめられなかった」


 俺は前を向いたまま言った。


「怖くても続けたのなら、それは弱さではないと思います」


 返事がなかった。

 しばらくして、「そうですね」という声だけが聞こえた。


 昼頃、道沿いの小さな村を通り過ぎた。洗濯物を干していた老婆が、馬車に頭を下げた。子供たちが手を振っていた。


 エルザが、小窓から手を振り返していた。


 それだけのことだった。しかし俺には、その仕草が目に入った。追放されながら、見知らぬ村の子供に手を振れる人間がどれだけいるか。


 俺は何も言わなかった。


 四日目の夜。

 野営の火を囲んでいる時だった。


 他の護衛二人が寝入り、爆ぜる薪の音だけが響く時間。エルザが馬車から降りてきて、俺の隣に座った。


「昼間、村の子供たちに手を振っていましたね」


 俺が口を開くと、エルザは膝を抱えたまま、火を見つめて小さく頷いた。


「……あの子たちの笑顔を守るために、私は五年間、瘴気を吸い込んできたのだと思いました。だから、最後にああして笑い返してもらえて、報われた気がしたんです」


 そこまでは、いつもの凛とした彼女の声だった。


「でも、本当は……。本当は、自分が壊れていくのが、怖かったんです」


 彼女の大きな瞳から、一粒の雫が零れ落ち、地面に吸い込まれた。


「浄化をするたび、指先の感覚が冷たくなっていく。体の中に泥のようなものが溜まっていく。誰も助けてくれない、誰にも代わってもらえない。……自分が消えてしまうことを考えると、足が震えて止まらないんです」


 一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。

 昼間の気丈な振る舞いも、王宮で見せた静かな諦念も、すべては彼女が自分に強いた「聖女」という仮面に過ぎなかったのだと、俺は今さらながらに悟った。


「それでも、あなたは強い人だと思います」


 俺は不器用な言葉を投げていた。


「……強くなんてありません。アルスター卿の方がよほど……強いです」


 彼女は顔を覆い、声を押し殺して泣いた。

 五年間、国中の祈りと期待を背負い、一度も「疲れた」と言わなかった女性が、今、俺の前でただの震える一人の女性になっていた。


 (あなたが、これほどまでに脆く、必死に命を繋ごうとしていたからこそ、俺は……)


 俺は何も言わず、彼女の細い肩に手を置こうとして、止めた。


 今の手は、彼女を救うためのものではなく、彼女を終わらせるための剣を握る手だからだ。


 ただ、彼女の涙が枯れるまで、俺は火を絶やさないように薪をくべ続けた。


「……すみません。お見苦しいところを」


しばらくして、彼女は袖で乱暴に目元を拭った。鼻を赤くして笑おうとするその顔は、王宮で見たどの瞬間よりも、俺の胸を締め付けた。


「執行人である、アルスター卿にお話しするようなことではなかったですね……」


「謝らないでください……明日も早いのでお休みください」


「……そうですね」


 彼女は少しだけ、本当に少しだけ、安心したように口角を上げた。


 この夜の彼女の涙は、誰も知らない。


 (俺だけに、留めておこう)


 数日後、俺は剣を振るう。


   ◆


 五日目の午後。雲が出てきた。


「そんなに難しいお顔をしないでください、アルスター卿」


「……していません」


「しています。この旅路の間、ずっとそのお顔です」


 俺は何も言えなかった。


「私は、覚悟しています。だからあなたが苦しそうにしているのを見る方が、かえってつらいんです。私のことは気にしないでください」


「……そういうことを、言わないでください」


「どうして」


「俺が、困るので」


 エルザが笑った。小さな声で、でも確かに笑った。今回の旅で初めて聞く、笑い声だった。


「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったんです」


「……いえ」


「でも、少しだけ嬉しかったです」


「何がですか」


「あなたが困ってくれたことが」


 俺は前を向いたまま、それ以上何も言えなかった。胸の奥で何かが軋んだ気がしたが、それ以上考えなかった。


 五日目の夜、エルザが聞いた。


「左腕の輪は、忠誠の証なのですか」


「ええ。騎士に任じられる際に、王家より授けられます」


「外せないのですか」


 少し間があった。


「外せません。壊すことも、外すことも。壊そうとすれば呪いが発動します」


「……そうですか」


 エルザは少し黙っていた。


「任務を放棄したり忠義に逆らうことをすると、私は死んでしまいます」


「では、あなたは国に逆らうことはできないのですね……」


「ええ」


 俺は短く答えた。それ以上は言わなかった。エルザも、それ以上は聞かなかった。


 しばらくの沈黙の後、エルザが静かに言った。


「ありがとうございます」


「何が、ですか」


「いろいろ、です」


 どういう意味か、俺には正確にはわからなかった。でも、何となく、わかるような気もした。


   ◆


 六日目の夕方、陽が低く傾いた頃、エルザが静かに言った。


「アルスター卿が、これまでで一番きれいだと思った場所はどこですか」


 唐突な質問だった。俺は少し考えた。


「南方への遠征中の道に、一面の草原がありました。夕暮れ時で、草が全部、金色に見えて。鳥が群れで空を渡っていて。それを、ただ眺めていた時間があります」


「良いですね」


「ええ」


「……見てみたかったです」


 その言葉を、俺はどう受け取ればいいかわからなかった。「見たかった」ではなく、「見てみたかった」だった。もう叶わないと、はっきり知っている言い方だった。


 返す言葉が見つからないまま、前を向いていた。


「アルスター卿」


「はい」


「あなたは、後悔しませんか。この任務を引き受けたことを」


 しばらく、考えた。


「後悔は、任務を終えてからするものだと思っています」


「……それが答えですか」


「今の俺には、それだけです」


 エルザが少し笑った気がした。「そうですね」と、小さく言った。


 それきり、日が沈むまで、二人は黙っていた。


 六日目の夜。

 他の護衛が交代で眠っている間、俺は馬車の側に立っていた。


 中から、かすかな寝息が聞こえた。


 左腕のリングを見た。鈍い銀色。外せない。壊せない。壊そうとすれば呪いが発動し、持ち主は死ぬ。王国への忠誠の証。俺が騎士である限り、外れることのないものだ。


(……明日だ)


 俺は思った。


(明日、俺は剣を持ってあの人の前に立つ)


 旅路の間、ずっと考え続けていた。俺はなぜ、この任務を引き受けたのか。護衛のためか。執行のためか。


 正直に言えば、答えは出ていた。最初から出ていた。


 ただ、その答えを実行するために、俺は一つのことをしなければならない。それがどれほど痛みを伴うか、わかっていた。


 わかっていて、やると決めていた。


 一瞬で終わらせる。


 左腕のリングをもう一度見た。明日の朝、俺がすることを想像した。


 (痛みは、たぶん、想像よりひどい……)


 大事なのは、そのあとのことだ。


 馬車の中から、かすかな寝息が聞こえていた。


 今夜だけは、この人に穏やかに眠っていてほしかった。それだけ思った。


   ◆


 夜が明け、七日目の朝が来た。


 馬車に乗る前、エルザが空を見上げた。


 昨日まで曇っていた空が、今日は晴れていた。国境方向の地平線が、薄い橙に染まっていた。


「おはようございます。いい朝ですね」


 エルザが言った。


「ええ」


「……不思議です。こんなにいい朝なのに、今日が最後の日だと思うと」


 俺は黙っていた。


「でも、いいんです。いい朝に、最後の日が来てよかった」


 彼女は振り向いて、俺を見た。


「アルスター卿、七日間、ありがとうございました。あなたと話せて、よかったです」


 俺は何も言えなかった。


「行きましょうか」


 エルザが先に歩き始め、馬車に向かった。俺はその後を追った。



━━━━━━━━━

第三章 国境の儀式場

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 石造りの低い祭壇が、現れた。


 周囲には、季節を迎えた草花が広がっている。馬車が止まった。


 エルザが降りた。


 朝の心地よい空気の中で、彼女は静かに周囲を見回した。覚悟した人間の目だった。俺は黙って、その隣に立った。


 儀式場の祭壇の手前に、花が一輪、風に揺れていた。この場所で終わった人が、これまでにも何人もいる。そのことを、俺は初めて、強く感じた。


 護衛の一人が手順書を開いた。


 エルザが祭壇の前に進み、跪こうとした。


「立っていてください」


 俺は言っていた。


 エルザが振り向く。


「立ったまま、受けてください」


 短い沈黙の後、エルザは頷いた。


 俺は剣を抜いた。金属の擦れる音が、朝の静けさの中に広がった。


 手順書が読み上げられる。


 罪状。

 宣告。

 執行の命。


 その言葉が、耳に入ってくるようで、入ってこなかった。


「……では、執行をお願いします」


 手順書の内容を読み終えたらしく、護衛の一人が俺に指示をしていた。


 俺は剣を持って、エルザの前に立った。


 彼女の目が、俺を見た。怯えていなかった。五年間の選択を抱えたまま、ここまで来た人間の目だった。


「七日間、ありがとうございました」


 小さな声だった。


 俺は答えなかった。答えられなかった。


 剣を、上げた。


 エルザが目を閉じる。


 その顔を、俺は見た。


(やれ。任務だ)


(できる)


(やれ)


(でき……)


 剣が、止まった。


 一瞬だった。その一瞬に、七日間が全部入っていた。緩めた手綱。差し入れた水筒。丘の上で止めた馬車。「俺が、困るので」と言った夜。「見てみたかったです」という言葉。そして、俺しか知らない涙。


 エルザの目が閉じられている。その顔は、怖れていなかった。五年間の選択の重さを、全部受け入れた人間の顔だった。


 (俺はあなたを、ここで終わらせたくはない)


 俺は刃を返した。



 自分の左の前腕に、力の限り振り下ろした。



 重い音がした。

 草の上に、血が落ちる。鋭い痛みが腕から肩まで走った。


 忠誠の輪が、赤く濡れた草の上を転がった。


 呪いが、解かれた。


 護衛の二人が動く。


「何をしている!」


 俺は右手だけで剣を構えた。左腕から血が滴る感覚があった。


「すまない……」


 低い声が出た。


 二人は一瞬止まったが、それでも構えを取った。俺は最小限の動きで、二人を制した。利き手は残っている。五年間の戦場で培ったものは、腕一本では消えなかった。


 二人が動かないことを確認して、俺は振り返った。


 エルザが、そこにいた。


 目を開けたまま、俺を見ていた。


 草の上に転がったリングを見て、俺の腕を見て、また俺の顔を見た。


 何も言わなかった。


 俺も何も言わなかった。


 言葉にできることは何もなかった。七日間かけても言えなかったことを、今さらここで言葉にできるはずがなかった。


 ただ、剣を鞘に収めた。右手で左腕を押さえた。それだけだった。



━━━━━━━━━

第四章 奇跡の先へ

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「腕が……」


 エルザが一歩踏み出した。


「大丈夫です」


「大丈夫じゃないです」


 彼女の声が、初めて揺れた。怒っているような、泣きそうなような、そのどちらでもあった。


 俺は右手で左腕を押さえながら言った。


「国境を越えれば、王国の管轄外になります。行きましょう」


「でも……」


「エルザ殿」


 初めて、名前を呼んだ。


「歩けますか」


 エルザは少し息を呑んだ。それから、頷いた。


 俺たちは国境の方へ歩き始めた。


 境界線が見えてきた。石を積み上げた低い壁。その向こうが、俺たちの行く場所だ。


 視界が、少し揺れた。


 血を失っている。布で縛ってはあるが、十分ではない。左腕の感覚が、遠くなってきていた。足が、地面を確かに踏んでいるのかどうか、少し曖昧になってきた。


「アルスター卿」


 エルザの声がした。


 俺の右腕に、細い手が触れた。支えようとしている。


「お気遣いなく」


「無理です……」


 譲らない声だった。


 俺は黙って、少しだけその手に体重を預けた。


 境界まで、あと数歩だった。


「待ってください」


 エルザが立ち止まった。


 彼女は俺の左腕を見た。布が赤く染まっている。


「触れさせてください」


「あなたには、もう魔力が……」


「触れさせてください」


 俺は黙った。


 エルザの両手が、そっと俺の左腕に触れた。


 何も起きなかった。


 五秒、十秒。


 エルザが目を閉じた。その顔が、わずかに歪んだ。何かを探している。失われたと思っていたものを、手探りで探している。


 俺は静かにしていた。


 エルザの指が、傷口の上に、そっと重なった。震えていた。緊張なのか、力を使おうとしているのか、わからなかった。


 白い光が見えた。


 俺は目を疑った。


 エルザの手の中に、かすかな光が灯っていた。小さく、頼りなく、それでも確かにそこにあった。枯れたと思っていた泉が、底の方でまだ水を蓄えていたような、そういう光だった。


 温かい。


 痛みが、徐々に引いていく。


 エルザが手を離した。傷は完全には塞がっていなかった。しかし、血が止まっていた。


「……エルザ殿」


 彼女は自分の手を見ていた。信じられない、という顔で。


「師匠が言っていました。枯渇した魔力が回復した前例は、一件もないと。だから私も、もう二度と使えないものだと思っていた」


 声が、かすかに震えていた。


「でも……使えた」


 エルザは自分の手を握ったり開いたりした。信じられないという仕草だった。


 俺はエルザの顔を見た。


 彼女の目に、光が揺れていた。涙をこらえている。悲しい涙ではなかった。


「どうして戻ったんでしょう」


「わかりません」


「……あなたが、あんなことをしたから、でしょうか」


 俺は答えなかった。


「私のために腕を……だから……」


「理由はわかりません。ただ、よかった」


 俺はそれだけ言った。エルザが少し俯いた。一粒だけ、涙が草の上に落ちた。


 (……よかった)


 気づいたら、そう言っていた。


 エルザが俺を見た。少しの沈黙の後、彼女は笑った。今回の旅で、一番はっきりした笑顔だった。


「行きましょう」


 エルザが言った。


 俺は頷いた。


 二人で、石の壁を越えた。


 足元の草が、朝露で濡れていた。遠くで、鳥の声がした。静かで、どこまでも静かだった。


 しばらく歩いた。霧が薄れてきた頃、草原が広がり始めた。光が、斜めに差し込んでいる。


 エルザが足を止めた。その顔が、光の方を向いた。


「……きれい」


 呟いた。


 草の葉先が、朝露と光を受けて輝いていた。金色ではなかった。でも、十分にきれいだった。


「南の草原には、もっと広い場所があります」


 俺は言った。


 エルザが振り向いた。


「連れて行ってくれますか」


「行きましょう」


 短く答えた。


 エルザが、また笑った。


 俺は少しだけ、その笑顔を見た。七日間で何度か見た笑顔の中で、今のそれが、一番はっきりしていた。


 二人で歩き始めた。


 左腕はまだ完全には癒えていなかった。動かすたびに鈍い痛みがあった。それでも歩けた。エルザが隣にいた。


 しばらく行くと、西の草原が広がっていた。


「ここも、きれいですね」


 エルザが言った。


「ええ」


 俺は答えた。


 その後、しばらく二人は黙ったまま歩いた。


 行く場所は南と決まっていた。だが、お金も、計画もない。ただ、歩いていた。


 今は、それで、十分だと思った。



ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


「聖女が最後に流した涙は、誰よりも不器用な騎士だけが知っている」、いかがでしたか?


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