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ヘドロの雨は、日本を壊す。日本の壊れ方はまだ触れない。大体、ヘドロなんぞが世紀の大事件を起こすのは終盤で、このことは忘れてもらって構わない。
五月だ。悪魔とか、優しい日々とか、触法行為の綱渡りとかはお好きか。
まず、ここは演劇サークルの部室である。春。一つの海を越えただけで世界を知った気になっている先輩や、一人の女を好きにしただけでちょっと軟派でカジュアルなエリート、それこそが自分だと思っている先輩など、様々な人が聖也を取り巻く。
そしてここ、聖也の隣。そこに『先輩』はいる。パイプ椅子にちょこんと可愛く座っている。
紗子、イワサキ・サエコは大学三年。聖也が演劇サークルに入ったのは彼女のおかげ。人酔いしていた聖也に声をかけたその姿、まさに天使であった。
艶がかった黒髪をショートヘアに。群青を指先に咲かせ、いつもどこかに鮮烈な赤を身につけている彼女。紗子は人の目を引く女性であった。
今日の赤は革のブレスレットの赤で、その細腕を強調している。
着ているのはミルクチョコレート・ブラウンのワンピースなので、やっぱり赤が映えていた。
紗子は所謂、変なヤツである。
「先輩」
そう呼んで太縁メガネのレンズ越しに目を合わせると、紗子は見つめ返してくる。
見つめ返してきて、人差し指を顎に当て、その指は魅惑的で、首を小さく傾げて、ああなんて愛らしい。
「なあに」
「先輩、ありがとうございます」
そう、自然と笑みを作る聖也の口角。パイプ椅子に座り直すと、尻の痛みを感じた。
「何よう。なんだか知らんが、今日で最後みたいじゃん」
「違います、違います」
「まだ寂しいから一緒にいてくれたらハッピーなんだけど」
その微笑みに脳と心の臓を優しく揺らされ、そして掻き回される。二年の先輩が語っている武勇伝などは今どうでもいい。その指でくるくるりと掻き回されたら、それを幸せと言うのだ。一度でいいから幸せになってみたい。あとちょっと、もうちょっとだ。
ずいぶんと安上がりな幸せに、早くも枯れかけである青春を溶かしている。
「サークル、楽しいので。お礼、言いたくて」
聖也は自身の黒髪を指でいじくりながら言う。言い終わって、息を一つ吐く。考えるのと同時に言葉は口から巣立っていくので、いつも聖也はびくびくしているのであった。
「うるさくていいサークルだよね」
「先輩はうるさいのがお好きなんですか」
紗子の笑み。
「聖也くんは静かなのが好きだよね」
紗子の綺麗な身体の中に、自分という情報のひとかけらがあるのが嬉しかった。楽しいと感じるのも、このサークルがいいサークルなのも、全部紗子のおかげ。
「私、うるさいのが好きなんだ。声の大きいものは世界を変える」
「でも、出る杭は打たれるんじゃないんですか」
一つの感情、しまったなあ、これが聖也のくぐもった脳に現れた。
「でもさ、声が小さいのが世界を変えてるとこ、見たことないよ」
声が小さいの。……僕みたいな? 紗子はどこか遠くを見つめていて、聖也は自分に勝手に落胆して、武勇伝は佳境に入った。浮気を武勇伝と呼ぶのかは人それぞれであるが。
「大きなものは脳に刻まれるのさ。大きな変化。『国境の長いトンネルを抜けると雪国』でしょ。大きな感情。『メロスは激怒』するでしょ」
国文科らしい紗子が見られた。優越感によって紗子は輝く。また、彼女はどちらかというと新しい文学が好きで、
「あとは爆発と殺人と」
このようにイマドキの魅力的な物語の始まりを提案してくるのであった。
「物騒ですね」
リミッターでもかかっているかのように聖也の口はうまく動かない。これを壊せば、それは大きな変化?
「あとは悪魔かなあ」
聖也はそのにっこり顔に全てを捧げていたい。
「先輩はどうして僕に優しいんですか」
眉を上げてすぐさま紗子は答える。
「同い年に相手にされてないからだよ」
「……そうですか」
落胆、その自分の感情に落胆。天使のように優しい彼女に、羽衣を纏ったような美を持つ彼女に、これ以上求めていたなんて。
心の寂しい自分が嫌いな聖也である。
そう、聖也は偏った見方と思い込みでできた、つまらない人間であるのだ。
その太縁眼鏡を取れば、幾分かマシになるだろうか。聖也は近視用の他に、色眼鏡でもかけているのだろう。
「聖也君」
「何です」
黒目が聖也を映している。
「人間とは、欲しい言葉を投げかけてくれないものだよ」
思わず黙ってしまった。言葉に脳が凝固する。
紗子は悪戯心を孕んだ、艶やかな笑顔を見せている。紗子はいくつ笑顔を持っているのだろうか、ちょっと新鮮な顔だ。
「僕、僕の言葉も、先輩にとっては欲しくない言葉ですか」
聖也は瞬きをできなくなる。こういう時に自分は笑ってしまうのだなあ、と気づきを得る。
「うん、そうだね」
「そうですか……」
暗い感情。そんなの、聞きたくない。
「ふふ」
目を伏したその瞬間、紗子がどんな顔をしているかなんて聖也は知る由もない。
「ね? 人間は、欲しい言葉を投げかけてくれないでしょ?」
この人は、この人は、この人は!
耳元での言葉。伝わる熱にゆだってしまうのは、おかしいことだろうか。その表情を知りたいのは。でも見られないのは。
「ねー、ちょっと外に出ようよ」
「僕もですか、本気ですか」
「ここ、埃っぽいからやだ。一旦木々の葉擦れの音を聞きに行こうじゃないか」
連れションしてきまーす、と紗子は立ち上がった。極めて自然だった。彼女はおーう、いってらっしゃい、の言葉に何も思わない様子だった。
周囲は『連れション』をどう思っただろうか。聖也が知らないだけで、火のないところに煙がたったかもしれない。そう思うと、少し嬉しい。
ネイチャー・スピリチュアルが好きなのか、紗子は外の空気が好きだ。聖也も、木の長老やら街並みやらを好きになりたい。
「雨降ってるね」
雨は透明なのだろうか。汚れているとか、悪い気が溜まっているとか、そうでないとか。
これを綺麗とは思えない聖也である。天気が悪い、と言うではないか。雨は、悪。
先輩、濡れるなあ。
「あの、傘。入ってください」
傘立てから一本抜く。黒い撥水生地のヤツを差し出す。
「ねえ聖也君」
傘を広げる。
「何ですか」
傘をさす。
「傘、盗ったでしょ」
聖也は外の空気を吸っている。案外悪くない。
「盗りましたよ」
傘を傾けてやる。
紗子は可愛い。紗子は小さくて弱い。紗子はつまらない世界をエンジェル・マジックで変えてくれる天使。
冗談だった。怒ってもらうのもいいかなあ、という打算だった。
「はあ、呆れた」
紗子は傘に入った。
高揚感。まず高揚感を第一に得た。理由がわからぬ高揚感だった。
「こういう傘はすぐバレるじゃんか」
天使はそんなことを言ってため息をつき、その吐いた呆れは空と混じって、それはずるくて、それは見てはいけないもののような気がして。
「ビニ傘にするとかさあ、あるじゃん」
雨粒が傘に当たる、背徳の音がして。
「ビニ傘だったら沢山あるからさ、ワンチャン完全犯罪だよ」
紗子が愛おしい。
「聞いてるの」
「えっと、聞いてますよ」
二人は歩き出す。不自然に外に出て、不完全犯罪もどきをした。
上等なワンピースが濡れなくて良かった。
紗子は嬉しそうだ。
はじめまして。松野うせです。チーズが好きです。あとは少年漫画が好きです。チーズも漫画もニワカですから、ライトに楽しんでいます。小説も軽く行きたいです。
青春モノを書いてみたくて書きはじめました。普通の人間を書きたいです。
頓挫したらごめんなさい。
褒めてくれると嬉しいです。




