EPISODE 02:HUSK ─ 空殻
地下通路は腐敗した鉄と湿気の匂いが充満していた。灯音の手元のライトが、壁に染みついた煤や、ひび割れた案内板を照らしていく。
「なんか、こういうとこって出そうでやだ。オバケに異能って効くのかな」
「“生きてる異能者の方がよっぽど怖い“んじゃなかったか?」
焔は片手に炎を灯しながら、前方を警戒する。足音は二人のものしか聞こえないはずなのに、どこかで何かが這うような不気味な気配が絶えず背後からついてきていると錯覚するほどだ。
長い通路の先、出口と思われる場所から差し込むわずかな自然光が、やがて視界に広がっていく。そこは地下鉄の旧路線跡地──既に使用を停止されたまま放置され、朽ち果てた廃駅だった。崩れた看板、地割れした床、ホームに散乱する瓦礫。その中央に、ひときわ目立つ影がひとつ、佇んでいる。
背を向けたまま、肩で荒く呼吸をしているその男は全身から熱の波を発していた。焔が眉を寄せる。
「いた。あいつか」
「未登録異能者」とは、国家管理下にない異能保持者の総称である。
異能が発現した国民には、法的義務として申告と登録が課せられているが、様々な理由でその網の目を逃れて潜伏する者が後を絶たない。
登録した異能者はそのほとんどが軍に入るためのアカデミーに入学し、そこで基礎訓練や座学、異能の制御を学ぶ。今現在登録異能者であっても一般社会で生活している者は、そのアカデミーに入るための適正試験で“適性が低い“と判断された者のみだ。
そして一般社会に潜む未登録異能者の多くは、能力を制御できずに暴走を起こすか、あるいは己の欲求のままに異能を使用し、犯罪や破壊行為に走る。ときに彼らは災害と見なされ、軍による「排除対象」となるのだ。
「完全にブースター使ってんな。体温、常人の比じゃねえぞ」
焔が男を睨みつける。
大抵の場合、未登録異能者とブースター使用はセットだ。本来違法であるはずのブースターをどこから手に入れてるのかは分からないが、社会からはみ出たという負い目か、異能を手に入れたという万能感が彼らの手を犯罪に染めさせるのだろうか。
「わざわざ悪いことすんなっつーの」
灯音がそう呟いた直後、インカムに通信音が走った。
『対象者の心拍変動と温度上昇を感知。ブースター使用反応、確定だ』
律の冷静な声が、二人の耳に届く。
『錯乱と暴走の兆候が出ている。言語接触は試みろ。ただし応答なければ即制圧に移れ。優先は“確保”だ』
「言われなくてもやるっての」
焔が短く返し、一歩踏み出すと、未登録異能者が振り返った。虚ろな目と、焦点の合っていない瞳孔。その全身から、蒸気のように熱が立ち上る。
「おい!お前未登録だろ。おとなしく確保されろ。これ以上、無駄に体力使うな」
男は何も答えなかった。代わりに、背後の地面がバチバチと音を立て、ひび割れながら赤熱していく。次の瞬間、熱風が爆発的に吹き出した。廃駅の鉄骨が軋む音。空気が振動し、灼熱の矢が焔の頬を掠めた。
「チッ……やる気かよ!」
焔が異能を発動させる。彼の手のひらから高密度の熱が凝縮され、宙に爆縮する。男の炎を相殺するようにぶつけ、灯音が側面から滑り込んだ。
「あんまり異能使うなって言われたじゃん!」
「知らねえよ、抑えるしかねえだろ!」
二人の間を飛び交う怒鳴り声。だが攻撃は正確だった。灯音が手にした小型スタン弾を投げつけ、男の足元で閃光と音響が炸裂する。その隙に焔が突進した。
「──っ!」
男は唸り声を上げながら異能を発動させるが、その発熱は明らかに不自然だった。熱の収束が甘い。ブースターの副作用だ。制御しきれない熱が周囲に漏れ出し、自傷に近い反応を起こしている。
「おら、寝てろッ!」
右腕を振り抜き、熱圧で爆砕させるギリギリ寸前の加減で男の腹を撃ち抜く。崩れ落ちた相手を、地面に押し倒し、左手で肩を押さえつけた。
その瞬間——
男の瞳が見開かれ、全身が痙攣を起こした。
「おい……おい!ちょっと待て、やべえ、こいつ──」
体内に蓄積された熱エネルギーが暴走し始めていた。焔が押さえつけた肩から、脈動するように皮膚が赤く変色し、筋肉が無秩序に収縮を繰り返す。灯音が慌てて駆け寄る。
「ブースター過剰投与!? 自滅する気だったの!?」
口から泡が溢れ、皮膚が不自然に紅潮していく。焔が咄嗟に腕を退けると、男はそのままビクンと跳ね、やがて動かなくなった。
「……死んだか」
あたりに静寂が戻る。熱は消え、鉄錆の匂いと焦げた空気だけが辺りに残された。短く息をついた焔が、ヘッドセットに向かって言う。
「おい律。あー、未登録異能者の確保に失敗。ブースター副作用による過負荷で、錯乱のまま死亡。……生体反応、完全に消失した」
『了解、確認した。司法解剖のため、遺体はそのまま回収して基地へ持ち帰れ。第四部隊に引き渡す』
「はああ……クソが……」
焔がうんざりしたようにしゃがみ込みながら、深いため息を吐いた。沈黙の中、灯音が顔をしかめる。
「やだなー、また持ち帰り案件。死体回収ってさ、地味に一番テンション下がるんだけど」
死体を運ぶのだけは何度やっても慣れなかった。腕の中の体はまだ温かいのに、どこにも生の気配がない。ただの“肉”になった人間は、妙に軽くて、それでいて嫌に重い。
未登録異能者の死体は必ず司法解剖される。この男も解剖室の冷たい台の上で、体の中を隅々まで調べられてから異能データとサンプルを回収され、一枚の報告書となったら役目は終わりだ。
焔は額に汗を浮かべたまま、黙って死体に手を合わせた。人が死んだ後の沈黙には、何よりも先に敬意が必要だと律に教えられたからだ。
──死者は情報だ。それ以上でもそれ以下でもないが、情報は丁寧に扱え。人が生きてきた証だ。
焔の耳の奥で、律の声が反響していた。
「……じゃあ袋に詰めるか。灯音、手伝え」
「えー……やだ。あたし後ろから照らす係」
「ふざけんな、手ェ貸せって!」
廃駅の静寂に、二人のやり取りと死体を引きずる音だけが響いた。