エピローグ 掌に残る硝子の香
夜の銀座に、懐かしい風が吹いていた。
けれど、それはもうかつての熱も、煙も、気配も含んではいなかった。
ただ、“記憶だけが擦り減った街”がそこにあるだけだった。
三月堂の扉を開けると、小さな鈴の音が鳴った。
今はもう、ピアノも撤去され、奥の席には誰も座っていなかった。
灯りも以前より幾分白く、あの頃の翡翠色のゆらぎはなかった。
「……お久しぶりです。もしかして、お知り合いでしたか?」
カウンターの奥にいた若い女給が声をかけてきた。
灰原 彰人は、黙って頷いた。
「そうですか。あの方……いつも奥に座っていらした方ですよね。
ご友人だった方から、これを預かっていて……」
差し出されたのは、古びた革のノートだった。
灰色にくすんだ表紙、擦れた角、どこか温もりの残る紙の手触り。
そしてその封に、小さく挟まれていた香水の試香紙。
懐かしい――いや、ずっと忘れたかった匂いだった。
夜の帳が落ちてゆく頃、灰原は静かに尚紀の部屋を訪ねた。
まだ家賃は払われていたという。
引き払われることも、誰かに片付けられることもなく――
その部屋は、彼が居た頃の空気をそのまま残していた。
机の上に、香水瓶があった。
それは空っぽだった。
ただし、栓の隙間からは、まだ僅かに“彼女”の匂いが滲んでいた。
灰原は、ノートの最終頁を開いた。
「君がこの日記を読んでいるなら、
きっともう、俺は君に何も答えることができない場所にいるだろう。
それが“どこ”かは、敢えて書かない。
けれど――君は、もう分かっていると思う。
俺は、きっと君に気づくのが遅すぎた。
君の目を、真正面から見たことが、一度でもあっただろうか。
ありがとう。
本当に、ありがとう。
でも、もう俺は、夢を見ない夜の方が、穏やかなんだ」
ページの端には、香水のしみがうっすらと残っていた。
灰原はページに触れた手を、そっと口元にあて、静かに震えながら笑った。
声は出なかった。
涙も出なかった。
けれどその笑みは、生きてしまった人間の、どうしようもない痛みそのものだった。
外では、小雨が降り始めていた。
香水瓶をポケットに、ノートを胸に抱き、
灰原 彰人は、誰にも見られぬよう、そっと部屋を出た。
――硝子の香りは、もう消えていた。
けれど彼の掌には、
“何もなかったはずの時間”が、確かに残っていた。