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第五話 色を持たぬ夜

「最後に残るのは、名でもなく、身体でもない。

 ただ、“記憶”という形のない残骸だけだ。」

― 或る遺稿より

-------------------------------


 五月のはじめ、私は《三月堂》を再び訪れた。

 あの店は、変わっていなかった。

 けれど、そこに“彼女の痕跡”だけがなかった。


 女給に訊くと、こう返ってきた。


「茜沢さんなら……数日前に、辞めはったんですよ。

 ええ、いきなり荷物持って、誰にも何も言わずに」


 私は無言で頷いた。

 店の奧のピアノ椅子には、誰も座っていなかった。

 そこに置かれていたのは、小さな香水瓶だけだった。


 その夜、私は最後の手紙を受け取った。

 墨田岳陽からだった。


「君は、彼女を知りすぎた。

 けれどそれは、“見ていただけ”に過ぎない。

 本当に触れたいなら、私のところまで来なさい」


 ― 帝大文学部研究室 夜七時


 私は震える手で手紙を握り締めた。

 すでに灰原とは連絡を絶っていた。

 連絡を絶ったのではない――私の中で、彼が“誰か”ではなくなったのだ。


 夜、帝大。

 人気のない構内を抜け、古い石造りの文学部棟へ。

 月の光が、校舎の窓に滲んでいた。


 研究室の扉を開けると、墨田岳陽がそこにいた。


「いらっしゃい。蒼井くん」


 彼は穏やかに笑った。

 その声音には怒気も敵意もなかった。

 けれど、私はその瞬間に確信した――この男は“人間の皮をかぶった傀儡”だと。


「楓さんは、どこだ」


 私は問うた。

 墨田は軽く頷き、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。


「彼女は、自分の過去をここに置いていったよ。

 読むかね? それとも……君自身で、彼女の“行き先”を選ぶか」


 ノートは黒革で綴じられていた。

 表紙には、達筆な筆でたった一文字――


 「茜」

 それが、彼女の「本当の名」なのだと直感した。


 ページを捲ると、淡々とした筆致で過去が記されていた。



-------------------------------

 あの人に初めて会ったのは、十五のとき。

 私は既に家を捨てて、京橋の裏宿で、芸妓見習いとして生きていた。


 彼は、最初の“客”だった。

 けれど、彼は私を抱かなかった。

 ただ、香水を贈った。


 「自分が誰かを殺したいと思ったときだけ、これを纏いなさい」と。


 私は、それからずっと、彼の“娘”として飼われた。

 名前を変え、言葉を教わり、本を読まされ、そして

――身体を“貸す”ことも、仕事だった。

-------------------------------



 私はページを閉じた。

 墨田は、静かにコップに水を注いでいた。


「彼女は、君に“救われたかった”のではない。

 “誰かの記憶にだけ残りたかった”。

 その役目を、君に与えたのだよ」


 私は息を呑んだ。

 胸の奥が冷たくなり、心臓の音だけが耳に響いていた。


「彼女は、もうこの街にはいない」


「――どこへ行った」


「君には、探せない場所さ。

 “あの夜、最後に見送ったのは私”だったからね」


 机の上に置かれた、封筒。


「これを受け取って、帰るといい。

 もう、君に残された選択肢はそれしかない」


 封筒の中には、列車の切符が一枚――行き先は“能登・穴水”。


 彼女がかつて、一度だけ口にした「生まれ故郷」の名だった。


 あたしが死ぬときは、

 誰にも看取られたくないの。

 でも、誰かに見つけてほしいとは……思ってるのよ。


 ――昔、楓がぽつりと呟いた言葉が、耳に蘇った。


 私は、黙って封筒を受け取った。


 墨田は笑っていた。


 けれど、あの男の目には――

 ほんの僅かだけ、虚無に近い“寂しさ”が滲んでいた。


 能登・穴水行きの列車は、静かに動き出した。


 私は窓の外を見つめながら、封筒に残されていたもうひとつの紙片を開いた。

 それは、彼女の手による走り書きだった。


 「尚紀くん。

 貴方がこれを読んでいる頃、私はもう、“楓”ではありません。

 本当の名も、貴方には教えられないままです。

 けれど、ひとつだけ――

 貴方が私に触れてくれた夜、私は確かに、“人間”だったのです。」


 涙は出なかった。

 けれど、その言葉が“遺書”だと気づいたとき、

 私は喉の奥が詰まって、声を出すこともできなくなった。


 穴水に着いたのは、黄昏時だった。


 小さな漁村。

 濃い潮の香りと、寂れた家々。

 風が吹くたび、瓦の軋む音が、骨のように響いた。


 私は聞き込みを始めた。

 けれど、「茜沢楓」という名を知る者は誰一人いなかった。

 それどころか、旅館にすら空き部屋はなく、

 私は無人の倉庫の隅で、寒さに震えながら眠る羽目になった。


 数日後。

 山の中腹、古びた神社の裏手にある廃屋で――彼女は見つかった。


 すでに、呼吸はなかった。


 着物は乱れておらず、化粧もしていなかった。

 ただ一人、布団にくるまれて、まるで眠るように。


 枕元に置かれていたのは、硝子の香水瓶と、一通の手紙。


「これを見つけてくれるのが、

 誰かは分からないの。

 でも、きっと――貴方だって、どこかで信じてしまってる。

 貴方が、最後まで私を探してくれる人だって。


 そう信じることだけが、

 今の私を、“人間”としてこの場所に留めてくれるの。


 ありがとう。

 もしこれが、貴方の手に届いていたなら――

 それだけで、私の人生は、ほんの少しだけ報われます。」


 私は、その場で崩れ落ちた。

 涙は出なかった。声も出なかった。


 ただ、自分の心の中から、音という音が消えていった。


 遺体の引き取りも、手続きも、誰も名乗り出なかった。

 彼女は、本当に“誰のものでもなかった”のだ。


 私は、そのまま一週間、町から出られなかった。

 灰原からの手紙も、墨田からの連絡も、すべて無視した。


 ただ、毎夜夢の中で、彼女の背中が遠ざかっていくのを見ていた。


 呼んでも、振り返らなかった。

 名前を、最後まで教えてはくれなかった。


 私は、手紙を胸に抱いたまま、動けなかった。


 外では、静かに雨が降っていた。

 屋根を打つ音が、体の奥に染み込んでいくようだった。

 それは、涙の代わりだった。

 泣けなかった。泣く資格が、私にはなかった。


 香水瓶の中には、まだわずかに、液体が残っていた。

 蓋を開けると、ほんのりとした香りが立ちのぼる。

 あの日、彼女の首筋に触れたときの匂いだった。


 私は、何もせず、ただその場に座っていた。

 時間は止まり、思考も停止していた。


 気がつけば、日が昇り、また沈んでいた。

 何度、そうして過ごしたか分からない。


 やがて、私は香水瓶を持って、町を離れた。


 何のために生きているのかも分からないまま、

 東京へ戻る汽車に揺られながら、ずっと、彼女の最後の手紙を繰り返し読んだ。


「もしこれが、貴方の手に届いていたなら――

 それだけで、私の人生は、ほんの少しだけ報われます。」


 けれど、私の人生は――もう、報われる場所にはいなかった。


 帰京後、私は大学を辞めた。

 人と会うこともなくなった。

 誰も、灰原のことを口にしなかった。

 彼がどうなったのか、今でも分からない。


 墨田は消息を絶った。

 新聞の片隅に、小さな退任記事が載っていただけだった。

 そこに、「理由」は記されていなかった。


 私は、いまでもたまに、三月堂を訪れる。

 あの店はまだある。けれど、あの椅子には、誰も座らない。


 香水瓶は、いまも手元にある。

 封を切るたび、彼女の気配が指先に纏わりつく。

 それは、もう“香り”ではない。

 記憶の“遺臭”だ。


 ある夜、私は机に向かって、日記を開いた。

 窓は少しだけ開けてある。

 風が、部屋に冷たい夜気を運んでくる。

 テーブルの端には、小さな硝子瓶と、

 薬包紙に包まれたものが静かに置かれている。


 もし、彼女がいなかったら、

 私は今も“生きているふり”をしていたのだろう。


 けれど今は、ただ、眠りたいのだ。

 少しだけ、深く、

 誰の夢にも干渉されない場所で。


 彼女が最後に選んだのは、孤独ではなかった。

 静けさだったのだ。

 そして私も、

 その静けさの中へ、ゆっくりと沈んでいこうと思う。




-------------------------------

 部屋の灯りは落ちて、

 ただ雨音だけが、

 遠くの誰かの夢のように、静かに続いていた。


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