第四話 白灰の下に埋もれる名
「愛とは、声をかけられずに死ねるものだ。
それでも人は、名前を呼ばれたくて生き続けてしまふ。」
― 或る遺稿より
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春が深まり、校内には緑が滲んでいた。
しかし、私の周囲だけが、どこか色を失くしていた。
楓は、姿を見せなかった。
三月堂にも、下宿にも。
まるで風景から切り取られたかのやうに、跡形もなく、消えてしまったのだ。
代わりに、私の傍には――灰原が居た。
「尚紀。大丈夫か?」
彼は静かに、私の横に腰を下ろした。
講義の終わり、誰もいない廊下の窓辺。
私は黙ったまま、遠くの校舎を眺めていた。
その視界の隅で、彼の手が、わずかに震えていたのを覚えている。
「……君、最近やつれてる。寝てるか?」
「眠れない」
「彼女のことか」
私は言葉を詰まらせた。
「……あの男に、奪われたのか?」
「……分からない」
「違う」
彼は、はっきりとした声音で言った。
「奪われたんじゃない。**連れていかれたんだ。楓さんは」
「――君の代わりに、“あの男”に屈したんだよ」
その言葉に、私は反射的に灰原を睨みつけた。
だが、彼は微笑んだだけだった。どこか、哀しみを滲ませたように。
「君は、知らなくていい。……そう思っていた」
「でも、違った。君は、もう後戻りできない場所に立ってる」
灰原は、ゆっくりと上着の内ポケットから、何かを取り出した。
一冊の小さなノート。
それは、古びた革表紙で、端が擦れていた。
「これを読んでくれ。……彼女の“影”が、ここに全部ある」
ノートを受け取ると、わずかに手が痺れた。
何か、触れてはいけないものを手にしてしまった感覚だった。
表紙には何も書かれていなかった。
ただ、裏表紙の内側に、小さく墨で綴られていた。
「彼を、救うために書く」
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一頁目。
筆跡は灰原のものだった。整っていて、癖のない文字。
けれど、それゆえに、抑圧された何かが滲み出ていた。
三月堂の奥の席、彼女は左手でグラスを持つ。
右の薬指には、いつも透明な指輪。
触れられた跡が消えぬように、それで自分を護っているのか。
尚紀は、彼女に惹かれている。
それは仕方のないことだ。彼の瞳には、もともと“愛されたい”という色がない。
だから僕は、黙っていた。
隣にいて、沈黙を受け取ることに、幸福を覚えていたのだ。
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二頁目をめくる手が、震えた。
まるで、それ以上読み進めることが、自分の“何か”を壊してしまうような気がしたのだ。
だが、ページは勝手に風に煽られて捲れ、三頁目が開かれた。
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僕は知っていた。
楓が、墨田という男と関係していることも。
彼女が、あの夜、泣いていたことも。
尚紀が、彼女の涙を知らずに眠っていたことも。
だから僕は、封筒を送った。
警告だった。彼を守るための、最後の線引きだった。
それでも彼が、まだ彼女を追うなら――
僕は、彼を守るために、裏切るしかない。
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私はノートを閉じた。
灰原の顔を見られなかった。
けれど、その沈黙が――すべてを語っていた。
「なぁ、灰原……君は、なぜ俺に、これを?」
しばらくして、ようやく絞り出すように訊いた。
灰原は、ほんの少しだけ笑った。
「君が、“俺の尚紀”であるうちは――
……俺は、どれだけでも汚れていいと思ったんだ」
その夜。
私は、眠れなかった。
灰色の夜が、部屋の隅から侵食してきたような気がした。
翌日、私は灰原を避けようとした。
だが彼は、迷いなく、私の前に立った。
まるで、それが“いつものように”起きるべき出来事であるかのやうに。
「君は、まだ彼女を探しているのか?」
「……ああ」
私はそれだけ言った。
灰原は、少しだけ口角を上げた。だが、笑ってはいなかった。
「尚紀。どうして、君はそんなに弱いんだ?」
「え……?」
「誰かの声がなければ生きられない。
触れられなければ、自分の輪郭が分からない。
……それなのに、どうして君は、僕の声じゃダメなんだ?」
灰原の聲が、急に近くなった。
顔を向けると、ほんの数十センチの距離に、彼の眼があった。
その眼は、どこか潤んでいて――だが、濁っていた。
「君は、彼女に縋った。
あの女の、形ばかりの温もりに溺れた。
でも君は知らなかっただろう? 僕が、君の手に何度触れたか。
君の寝顔を、どれだけ見つめてきたか。
あの夜、彼女の部屋の外で、何度名前を呟いたか……」
私は一歩、下がった。
だが、足が震えていた。
寒さではない。恐怖と、なによりも“理解してしまった”ことへの戦慄だった。
「ねぇ、尚紀」
灰原の聲が、囁くように変わった。
「僕は、君のために罪を犯せるよ。
君のために、誰かを消せる。
君が“壊れた”って言えば、僕はその“壊れた世界”を全肯定してやれる。
君が彼女を追い続けるなら……いっそ、彼女を消してしまえばいいと思ってる」
そのとき私は、確信した。
灰原 彰人は、私のために“歪んでしまった”のだ。
そして、その歪みは、もはや誰にも戻せない。
遠くで、鐘の音が鳴っていた。
構内放送が流れ、生徒たちの足音が響いていた。
なのに、私たちの周囲だけが――まるで、音のない箱の中にいるようだった。
私は、ただ立ち尽くしていた。
目の前の親友が、自分のために狂ってしまったという事実が、
その重さに、今ようやく追いついた。
「灰原……やめろ。そんなこと、言うなよ」
「なぜ?」
彼は一歩近づく。
その一歩に、執着と、祈りと、破壊衝動が詰まっていた。
「僕は、君の隣に居ることを選んだ。
彼女と寝た夜も、雨に濡れて帰ってきた夜も、君の手が震えていた夜も……
僕だけが、全部、君の姿を見てきたんだ」
言葉が鋭く突き刺さる。
灰原はもう、“親友”の顔をしていなかった。
それでも、私の名を呼ぶ声だけが、どうしようもなく優しかった。
私は、答えられなかった。
言葉にすれば、彼を壊してしまう氣がした。
けれど、何も言わなければ――それでも壊れるのだと、分かっていた。
「尚紀。
僕はね、君が彼女を追い続けるなら、君を殺してしまいたいと思う。
そうすれば、君は永遠に“僕の中”に居られるから」
その一言で、私は背筋に戦慄が走った。
けれど、奇妙なことに――それでも、彼の目が泣いているように見えたのだ。
遠くで風が吹いた。
桜の残り香が、どこからか漂っていた。
その匂いに混じって、微かに煙草の香りがした氣がした。
「あたしのこと、本当に知りたいなら――
やめた方がいいわよ」
――楓の聲が、記憶の奥で、私の耳に囁いていた。
その夜、私は部屋で眠れなかった。
灰原の言葉が、何度も胸を叩いた。
そして私は夢の中で、楓の背中と、灰原の手のひらを交互に見ていた。
どちらも、触れれば壊れてしまいそうだった。
そして僕は知っている。
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人は、誰かを守るために狂うのではない。
誰にも守られたかった記憶だけが、狂気を生むのだ。
― 蒼井尚紀の日記より