しんどい! 魔王が自宅に!
幸せがぶっ壊れるのは往々にしてうまくいき過ぎているときなのでしょう。
命君のように。
弥生ちゃんの聖なる微笑み。声も鈴が鳴るようで可愛いんだよな。
「これが人間の身体か。存外悪くないな」
まるで春風を呼んでいるような優しい声だ。俺の声はでかいだけだからな。
俺は目を瞑って弥生ちゃんの声音を堪能する。
「おい! そこの人間!」
はぁ……なんという贅沢。このまま弥生ちゃんの声だけ聞いていたいよ。
「貴様!」
何かが爆発する音が聞こえて俺は目を開けた。電柱が真ん中からぽっきり折れて三歩先のアスファルトに突き刺さっていた。ちびりそうになりながら、恐る恐る弥生ちゃんのほうを向く。
——そこにいたのは紛れもなく弥生ちゃんだった。
折れた電柱に左手を突き出し、掌からは白煙が上がっている。
紫色の瞳をして俺を睨めつけていた。
おかしいな。弥生ちゃんの瞳は黒かったはずじゃ……。
「余は魔王ヘルグラッジ」
「はあ?」
思わず頓狂声が出た。
弥生ちゃんって中二病だったんだ。
「余はこの小娘に転生した。これからこの身体に住まわせてもらうぞ」
言って弥生ちゃんはその清楚な小顔を不気味に歪めてみせた。
「いやちょっと待って。何言ってるのかさっぱりだよ弥生ちゃん! 転生ってラノベの話?」
これ「ビックリカメラ」とかそういう企画かなぁ。
ひょっとしてなかに誰か入ってる? でも声は確かに弥生ちゃんだし、背中にチャックとか付いてないし……。
俺は弥生ちゃんの背中を指でなぞる。
「余の背中を勝手に触るな人間風情が!」
「ぷおぅっ⁉」
弥生ちゃんの小さな剛拳が頬にめり込み、俺は錐揉みながら二十メートルほど吹っ飛んだ。
弥生ちゃんって華奢な体つきだと思っていたけど実は怪力だったのか。女の子って見かけによらないな。
「始末してくれる」
弥生ちゃんは左手を天にかざして火の玉を創り出した。紅蓮に燃えさかる火球だ。
ここにきて俺はようやく察した。理解した。
これ弥生ちゃんじゃない。——別の誰か。
「ひっええええええええええぇぇぇっ‼ 魔王なんたらかんたらさま! 俺が悪かったです! どうか怒りをお収めください~っ‼」
俺は五体投地して魔王さまにひれ伏した。
■ ■ ■
——気を取り直して。
俺は細い路地をつかつかと速足で歩く魔王さまの後方を歩いていた。
「ククククク……命。余の機嫌の取りかたを知っているとは面白い奴よ。余は人間に土下座させるのを好むのだ」
「は……はあどうも」
魔王なんたらかんたらは胸を張って堂々と歩いていく。魔王ってのは覚えているんだけど、いかんせん名前がはっきりと解らない。かといって今更訊くとまた怒りだすかも知れないし。うーん……。
魔王が歩みを止めた。俺もぶつかりそうになりながらなんとか止まる。
「ここにマナを生成する木を植えることとしよう」
そう言って元・弥生ちゃんの魔王はぶつぶつと詠唱した。すると路地の真ん中に東京タワー並みのどでかい木が植わってわさわさと枝葉が繁る。大きな雲に覆われたかのように辺り一帯が暗くなった。あの、一言いいっすか。はっきり言ってそこ邪魔。近隣住民の皆さんの日照権とか色々アウトです。
「この木は大気中の二酸化炭素を魔法エネルギーのマナに変換してくれる優れものだ。感謝するがいい」
俺は顔を引きつらせながら、
「す、すごいなあ~……」
と感嘆してあげた。
「クククそうだろうそうだろう。ところで日陰ができたとはいえ今日は暑くないか」
魔王は弥生ちゃんの綺麗な手を団扇代わりにしてぱたぱたと顔をあおぐ。
「ま、まあ確かに暑いかも……?」
「そもそも転生前、この小娘が厚着過ぎたのだ」
「……は?」
魔王はブレザーの襟元を摑んで左右に強く引っ張った。ブレザーはボタンを飛ばしつつびりびりに破け、下に着ていた真っ白なブラウスが姿を現す。
「おまっ……! なんてことしてんだよ!」
「何がだ? 少し涼しくなったぞ?」
魔王はドヤ顔でこちらを見た。
いやいやこんな状況でドヤられても。
「しかしまだ暑いな」
「ちょっと待てそれ以上はヤバい!」
魔王がブラウスの襟を持ち、左右に引っ張った。俺の制止も聞かずに無残にもブラウスのボタンが弾ける。
白い双丘がぷりんと俺の前に晒された。
へえ。ブラジャーは白だったんだ。大きさも形も俺好み……って違う!
「ふう。これで涼しくなった」
「あのな魔王! お前いい加減にしろよ! めっちゃ嬉しいことしやがって……! でも見せたくないんだよなあ……」
魔王は不敵に微笑んだ。
「ヒャヒャヒャ……まあそう言うな。余は魔王ヘルグラッジ。あらゆる常識は通用せんわ」
「ヘ、ヘルグラッジ? ああそう。それがお前の名前ね。じゃあヘルグラッジ! こんな白昼堂々ブラジャー丸出しで歩くのは人間の、特に男どもの目に毒なの! ちょっと鞄で隠しといてくれる?」
「その程度のことは知っている。人間どもの目に毒なのは喜ばしいことよ」
「なんでそこで喜ぶんだよっ! それに弥生ちゃんの声でヒャヒャヒャとかいう変な笑いかたするなっつうの!」
俺が足を踏み鳴らしたとき、近くを通りがかった小学生のオスガキどもが騒ぎ出した。
しょうがない。ここは一旦場所を移すとしよう。
■ ■ ■
陽も傾いた頃、羞恥心の欠片もないヘルグラッジを連れて俺は自分の家(と言ってもアパートだが)に帰ってきた。弥生ちゃんはお嬢様育ちで大きなお屋敷に住んでいるのだが、白い双丘を晒した状態で一人帰す訳にもいかない。それに俺が見張っていないとヘルグラッジが何をしでかすのかまるで解らんのだ。
「命よ。貴様は勘違いをしているぞ。余には神崎弥生の記憶は残っている。その上で色々申しているのだ」
「へいへいそーですか」
細い共用階段を二人で上り、一つ玄関ドアを通り過ぎた俺は、自宅の玄関ドアを開けた。
「ここが貴様の部屋か。狭い・臭い・汚い・ショボいと四拍子揃っているな」
「うっせーよ」
おんぼろの玄関ドアを開けつつ、俺はぶつくさ文句を言うヘルグラッジを部屋のなかに入れる。そこへ小さな影が走ってきた。
「にーちゃんおかえりーっ!」
どたどたと俺たちに駆け寄ってきたのは弟の真琴。今年十歳になる真琴は黒いショートカットの下にある女の子みたいな顔を無邪気に綻ばせている。半袖にハーフパンツ姿だ。
「わわわ! 誰その綺麗なねーちゃん⁉」
真琴が頬を赤らめ、ブラジャー丸出しのヘルグラッジを見て後ずさった。口はぽかんと開いたまま。うぉーい真琴、お前もオスガキだなぁ。真琴の目には毒どころか猛毒だ。
その様子を察したヘルグラッジは薄笑いを浮かべて土足でフローリングに上がると、
「クヒャヒャヒャ! 余の姿がよほど気になるらしいな。どこが気になる?」
「え……! ぇ……と……」
「おいヘルグラッジ! 靴脱ぎやがれ! んでもって人様の弟に何を訊いて——」
摑みかかろうとすると、ヘルグラッジの人差し指からピンク色の光線が発射された。
俺は右手を挙げたまま動けない。
「これが今の貴様の姿だ」
ヘルグラッジが鞄から手鏡を取り出し、俺の目の前に差し出した。
俺は右手を挙げたままハニワ姿になっていた。なんじゃこりゃーっ‼
「にーちゃん……! ゴメンでもちょっと面白いかも……ぷぷっ……」
(てめえヘルグラッジ! 真琴も薄情だぞ薄情‼)
ハニワになった俺はごとごとと揺れるのみ。
そうこうする間にヘルグラッジは真琴をぴたりと壁に追い詰めた。脚をがばちょと開いて、スカートのなかを見せつけるようにヤンキー座りをする。あれじゃ真琴からぱんつが見えちまうだろうが!
「答えよ貴様。余のどこが気になる?」
「ぇ……と……」
既に真琴の顔は真っ赤だ。湯気まで出ている。……ヘルグラッジ許すまじ!
「お、おっぱいと……ぱ……ぱんつ……ガハッ!」
目を点にしてそれだけ言うと、真琴は鼻血を噴射して息絶えた。あいつけっこうエロガキだったんだな。でも十歳であの拷問に耐えろというほうが無理か。ヘルグラッジは悠然と立ち上がる。
ここでようやく俺にかかっていたハニワの魔法が解けた。真っ先に愛する弟に駆け寄り、がくがくと揺する。
「真琴! しっかりしろ真琴! 教えてくれ! ぱんつは何色だった⁉」
「ふにゃああぁ……し、しろ……」
「よっしゃああああああああ‼ もう俺はいつ死んでも悔いはないっ!」
白目を剝き、ぱくぱくと口を開閉する弟の前で俺は高らかにガッツポーズした。
■ ■ ■
とりあえずヘルグラッジに靴を脱がせ、母ちゃんの女もののポロシャツを着せた俺。学習椅子をぐるりとヘルグラッジに向けた。まだ頭の上にヒヨコが回っている真琴を胸の前に抱いて腰かけ、ヘルグラッジを眺める。
丸いちゃぶ台の前の赤い座布団に座ったヘルグラッジが団扇を使ってぱたぱたと胸元をあおいでいた。
「今日は暑いな」
「ヘルグラッジお前そればっかだぞ」
俺はガサツな魔王にそう突っ込みを入れていた。
彼女が自宅に。
世間一般の男なら躍り上がって喜ぶシチュエーションのはずなんだが……俺は喜べない。
こんな色気のない奴と一緒にいて何が喜ばしいんだか。
またヘルグラッジの座りかたがオッサン臭いんだもんなー。だってあぐらかいてるし!
「〈マーキス〉はもう少し過ごしやすい気候だったぞ」
俺は片眉を上げて、
「まーきす……? なんだよまーきすって」
ヘルグラッジは例の「ヒャヒャヒャ」という腹の立つ笑いかたをすると。
「余が支配していた世界だ。一年じゅう程よくひんやりしていたものよ」
「へえ。お前が支配していた世界ねえ」
ヘルグラッジはあぐらをかいたままちゃぶ台の上に頬杖をついた。
「フッ。〈マーキス〉が懐かしいものよ」
不敵に笑うヘルグラッジを俺は半眼で見ていた。
「あの小さな仏壇は……誰がおっ死んだのだ?」
ヘルグラッジが指差したのは、寝室のタンスの上に置いてある桐でできた茶色の仏壇。
くっ……目ざとい奴め。
嫌な奴に嫌なことを突っ込まれてしまった。
俺は真琴を抱いたまま立ち上がると仏壇に歩いて行く。
「……これはな。父ちゃんの仏壇だよ」
「クク……貴様の父か」
「そう。父ちゃんの仏壇。もういいだろそれだけだ——」
「ただいまっ!」
高く元気な声とともに玄関ドアが勢いよく開いた。
「やっはーい! 二人とも母さん帰ってきたよ……ってあれ? 今日はお友達呼んでるの?」
やばい。母ちゃんがパートから帰ってきやがった。
俺が玄関に急ぐと、黒のショートカットにぱっちりとした目を持つ俺の母ちゃんが小柄な身体を折りたたんでしゃがんでいた。いまだ後ろ姿だけならナンパに誘われることもある俺の自慢の母ちゃんは、俺のよりひと回り小さいヘルグラッジのローファーをしげしげと見つめている。
「ちょっと母ちゃん!」
「——これ女物のローファーよね? ということは……! おめでとう命‼ あんたついに彼女ができたんだねっ!」
母ちゃんは俺に抱きつき、ぎりぎりと締め上げてきた。
「いててててて!」
俺は真琴を床に落とさないように抱く両手に力を込める。
俺と母ちゃんの間に挟まれた真琴はけっこう苦しそうだ。
「あれ? 真琴なんであんた目ぇ回してんの」
「いや、これはその……かくかくしかじかわたわたと言ったところで」
その時母ちゃんがちゃぶ台に頬杖をついているヘルグラッジに気付き、歓声を上げた。
「綺麗な子じゃない! 命にはもったいないよぉ!」
「ヒャヒャヒャ……そうか」
「あ、あれ? なんか笑いかたにクセがあるね」
……この親には全部言うしかないだろう。
■ ■ ■
とっぷりと日が暮れ、丸型蛍光灯の白い光が部屋を満たす。
俺たちはちゃぶ台の周りに円卓の騎士みたいにして座っていた。母ちゃんがやや呆れ顔で口を開く。
「なるほどね命。あんた彼女ができたはいいけどすぐ魔王さまに転生されて取られちゃった……そういうことなんだ。あ~あ情けない」
「俺が悪いのかよ⁉」
「そりゃそうよー。彼女を転生から守るのは彼氏の義務! これ憲法に書いてあるから!」
ずびしっ! と俺を指差す母ちゃん。そんなこと憲法に書いてあったかなぁ。
いっぽうでヘルグラッジは不敵な笑みを崩さない。こいつすべての元凶のクセに! 弥生ちゃんの身体を返せ!
「で、そのヘルグラッジねーちゃんは何をしたいの?」
さっき目を覚ました真琴がヘルグラッジを問い詰める。ナイス真琴! さすが俺の弟だ。
ヘルグラッジは例の腹立たしい笑い声を上げ、
「そうか聞きたいか。簡単なこと。余の目的はこの世界に災いをもたらし……支配することだ!」
場が凍りついた。
ヘルグラッジだけが平然としていた。
「……と言いたいところだったがな。まだこの世界は大気中のマナが薄い。これでは余の力の半分も出せんだろう。世界征服はしばらくお預けだ。野暮用もあるしな」
「……野暮用?」
俺が訊き返すと、ヘルグラッジは俺たちを食い入るように見てきた。いままでとは雰囲気が違う。真剣だ。
「話した通り余は勇者に敗れた。そして更にその前、余の部下をこちらに転生させていたのだが……貴様ら知らぬか? 余がこの〈地球〉に転生する直前のことだ」
俺たちは一斉にかぶりを振る。
「知らねえよそんな奴!」
ヘルグラッジが初めて残念そうに眉尻を下げた。
「そうか……無事転生できているといいのだが」
「部下思いなこって」
俺がからかい気味に言うと、ヘルグラッジの機嫌を損ねたらしい。
ヘルグラッジは寝室にある茶色の仏壇のほうに目をやる。
「命の母よ。あれは誰がおっ死んだ? 余は貴様らと相互理解を深めたいのだが」
これは端的に言ってマズい。
「あぁ、あれは伸樹っていう人の仏壇よ。この子らの父さんにしてあたしの主人なんだけどね? 真琴がお腹のなかにいる間に交通事故で亡くなっちゃって。あれは悲しかったなぁ……で、その時この子看護師に『こうしたら絶対助かる』って言われて千羽鶴まで折ってたからさ。もぉ大ショックで人間不信になっちゃって働き手もいなくなって借金だらけで最悪~みたいな……あれ? ちょっと喋り過ぎたかな?」
ちょっとどころじゃねえよ! 人の知られたくない過去をぺっらぺらと喋りやがって!
ヘルグラッジの誘導尋問に簡単に引っかかっちゃってさ……俺の母ちゃんは相変わらずチョロすぎる。
母ちゃんが唇に弧を描かせてちゃぶ台の上に身を乗り出した。
「あたしからも質問いい……? あんたが魔王っていう証拠は?」
「母ちゃん⁉」
挑戦的に訊いた母ちゃんだったが、俺はろくなことにならない予感がした。
これまで俺の頬を殴り紅蓮の火球を創り出し、真琴に至っては色仕掛けで戦闘不能にされてしまった。こりゃ母ちゃんも酷い目に遭わされるんじゃあ……!
「まだ信じられないと申すか……よかろう。余の魔術を見せてやる」
清楚な顔に下品な薄笑いを浮かべてそう言ったヘルグラッジは、すっくと立ち上がると目を瞑った。左手を前に差し出し、人差し指と中指を立てて念じ始める。
「ヘルグラッジ! お前今度はなにする気だよ!」
「魔王の名において命ず。声なき声よ。我が力に応え給え。万世の摂理を捻じ曲げ今こそここに顕現せよ……《追懐の霊威》!」
薄暗い寝室の仏壇が眩く輝きだした。
『お、おーい……。みんな聞こえるか?』
忘れもしない温和な声が聞こえてきた。
この声は……大好きだった……父ちゃん!
「父ちゃん⁉ え、ちょっと待って理解が追いつかないんだけど……!」
「ノブ⁉」
「ひっ⁉」
真琴だけは怖がって俺の脚に抱きついてきた。こいつは生来臆病だし、聞いたことのない人間の声が突然仏壇から聞こえてきたのだからしょうがない。
それよりも大変なのは母ちゃんだ。両手を口に当てて涙を流している。
いままでどんなにつらい時も笑っていた元気な母ちゃんが泣いているなんて。それは初めて見る母の泣き顔だった。
「ノ……ノブ……どうして……!」
『天国で平和に暮らしていたんだが、よく解らんうちに魔王さまに呼ばれたらしい』
俺たちはヘルグラッジがあらゆる摂理から外れた存在であると改めて実感した。
——これが魔王の力。
「にーちゃん怖いよう……!」
真琴も別の意味で泣き出しそうだ。
「大丈夫、怖くないぞ。あれは俺たちの父ちゃんだ」
真琴の頭を撫でながら、光り輝く仏壇を見て言う。
『命。真琴。そして……歩美。久しぶりだな。命にどうしても伝えたいことがある。死人に言われても響かんかも知れんが……人を信じることを恐れずに強く生きてくれ』
「ほう。貴様の母は歩美という名前だったのか」
「……」
ヘルグラッジに何も言い返さずに俺は。
「無理だよ……! 絶対に……無理だよ……!」
『命……』
「父ちゃん……死んじゃったじゃん……!」
「ヒャヒャヒャつまらん。実につまらん男だな貴様は」
俺はヘルグラッジの胸ぐらを素早く摑んだ。
「おい‼ つまらないとはどういう意味だ言ってみろ‼」
ヘルグラッジはけらけら鼻で嗤いながら、
「言葉通りの意味だ。過去に囚われ別の可能性を探ろうともしない。これをつまらんと言わずして何と言うのだ?」
俺は拳を握りしめた。
「それが……! それが人にかける言葉かあっ‼」
「殴りたければ殴れ。貴様の思い人の顔がどうなってもいいのならな」
——殴れなかった。
俺は拳をヘルグラッジの鼻先で寸止めすると、勢いを殺せずヘルグラッジが座っていた赤い座布団を殴りつけた。悔し涙がぽたぽたと垂れ、座布団の上に斑点ができる。
「……ご苦労だった命の父よ。もう帰っていいぞ」
『解った。帰るよ。……お前たち。空の上からだがずっと見守ってるよ』
仏壇の放つ輝きが消え、寝室に薄暗さと静寂が戻った。
戻った瞬間に俺の腹がぐぅと鳴る。そういえば晩メシまだ食ってなかった。
母ちゃんはまだ泣いているし、真琴はそれどころじゃないくらいに怯えている。
「今晩俺が用意するよ。冷食になるけどいいかな?」
「そう……? ありがとう命」
ヘルグラッジの分まで用意しなければならないのが癪だ。
「ヘルグラッジお前の分焼きおにぎりでいいだろ——」
「余は寝る」
「はぁ?」
ヘルグラッジは寝室に入っていった。こいつ晩メシも食わずに寝るのかよ。
「ヘルグラッジちゃんもう寝るの? じゃあパジャマはあたしの使いなさいな。お布団敷いたげる」
「よろしく頼む。マナが薄い状態で魔術を使うのはなかなかに疲れるのだ。一刻も早く休みたい」
「俺がお前を殺しに寝込みを襲うかもよ……?」
口の片端を上げてそう脅すと、ヘルグラッジに口の片端を上げ返された。
「先ほども言った通りこれは貴様の思い人の身体だ。思い人がどうなってもいいのなら殺すがいい。ヒャヒャヒャ無理だろうな……。まぁ恋人同士よろしく頼む」
「……誰が……てめえなんかと!」
こんな奴俺の彼女じゃない……! 俺はこれからこいつの彼氏をやっていかなきゃいけないのか⁉
こいつは……魔王だぞ…………。
命君の非日常の始まり始まり~。
いやぁめでたい!
「全然めでたくねえよ!」(命談)