プロローグ
2044年、第三次世界大戦終結から15年。ここは、魔法技術が高度に進化した世界。魔法とは、2003年に、シカゴ大学が初めて発見した情報素子〈エレメント〉を操る技術のことである。
エレメントとは、それまで物質の最小構成単位として存在していた素粒子よりもさらに小さい物質である。エレメントにはこの世界を構成する物質の情報が記録されている。
そして2006年には、ランダムに抽出したエレメントから任意の物質を生成することに成功する。
2014年には、人間の意思でエレメントを操ることに成功する。かつて、人間は脳の10%しか使っていないと言われてきた。また、同時に残りの90%も使ったら人間はどうなるのだろろうかとずっと考えられてきた。そして、2014年にシカゴ大学情報深層物理学の第一人者でエレメントを初発見した、ルーチャー=ワイルド氏と脳神経学教授の正岡士郎氏の共同研究の末、人間の脳を活性化する術を発見する。そしてそれがエレメントと密接に関係していること、脳の稼働率をあげることでエレメントを、科学装置を用いず人間の力だけで操ることができるという事がわかった。この発表は以降の歴史を大きく変えていくことになる。これはまさに歴史の転換点と呼ぶにふさわしいものであった。
かつてSF作家である、アーサー=クラークは以下のような言葉を残した。
「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」と。
無から有を生み出す技術、御伽話のような事が現実になった。それはまさに魔法であった。人々はエレメントに関わる技術一般を「魔法」、そして、魔法を行使する者たちのことを「魔法使い」と呼ぶようになった。
しかし、科学技術の発展はいつだって戦争と密接に関わってきた。そして、「魔法」も例外ではなかった。2014年の発表以降、世界中が軍事転用のための研究を加速させていった。そして2020年ごろ発生した中東紛争では、歴史上初めて戦闘に魔法が使われたのだった。魔法使いの利点は、なんといっても弾薬補給が必要ない点にある。こうすることで軍事費削減に直結し、長期的な戦争継続が可能となった。
2024年、中国の台湾侵攻を皮切りに世界中で紛争が拡大。そのまま第三次世界大戦へと突入する。この時、世界の主要兵器は魔法を行使する、「魔法使い」になっていた。
第三次世界大戦は約5年半続いたが、最終的には東側諸国の敗北によって幕を閉じることになった。その後、各国は自国の復興と魔法のさらなる研究に乗り出していた。
しかし、第三次世界大戦の終戦後も世界各地で紛争は続いていた。
そして、日本も例外ではなかった。日本は西側諸国の一員として戦闘に参加し、戦後は戦勝国となった。しかし、そんな日本本土にも戦争の爪痕は深く残っていた。
そんな日本がさらなる魔法技術の発展と研究、魔法使い育成のために太平洋沖に新しく人工島を建設した。
魔法開発機構自治区魔法学園都市、アトランティシア。国立魔法開発機構が魔法使い育成と研究のために西洋諸国の援助と共に建設したこの人工島は、かつてプラトンが自身の書に記した伝説の古代都市、アトランティスを参考にして作られた。
島は円状で、半径約50キロメートル。幾重の環状用水路と陸地が交互に存在している。
そしてアトランティシアには、数十の高校が存在しており、魔法技術を専攻する生徒約1万人が通っていた。学校ではメインの魔法学の他、通常の科目も存在する。
島中央には、統括委員会本部が入る中央統制センタービルが建っている。
統括委員会。このアトランティシアにおいて最高権力を保有する組織。アトランティシアはこの統括委員会の自治区であり、国家権力から逸脱した超法規的区画であった。さらに統括委員会、そして直轄の武装組織である風紀委員会の許可がなければ上陸することはできない。移動手段は、航空機の他に、潜水艦用の海底ドックがある。
そして、今、海底ドックにつながる海底トンネルに潜水艦が一隻近づきつつあった。
潜水艦の内部では、海底トンネルの侵入に向けて乗組員の声が飛び交っていた。
「海底トンネルまで残り300メートル。統括委員会並びに風紀委員会からの侵入許可を確認」
「了解した。進路そのまま、第二船速」
「進路そのまま、第二船速。ヨーソロー」
潜水艦は海底トンネルを抜け、海底ドックへと侵入する。
「海底ドックに侵入」
そしてしばらく海底トンネルを航行したのちついに海底ドック直下に到達する。
「メインタンク、ブロー。浮上する」
そして潜水艦は海面に浮上したのだった。
「接岸準備」
艦長は接岸の準備を指示すると、後ろに立っていた女性に振り返った。
「岬監査官、長旅お疲れ様でした。無事アトランティシアに到着しました」
その言葉に黒い艶やかな髪を後ろで纏めた女性、岬沙耶は頷く。
そして岬が艦を降りると、岸には一人の少女が立っていた。
「岬監査官ですね? お待ちしておりました」
赤髪の少女がお辞儀をする。岬も同じように礼をする。
「防衛省情報局中央監査室監査官の岬沙耶よ」
岬が自己紹介すると赤髪の少女も自己紹介をする。
「私は統括委員会の灘燈です。この度は、園路遥々このアトランティシアまでようこそおいでくださいました。立ち話もなんですからどうぞこちらへ」
灘はそういうと歩き始めた。岬も彼女の後をついていく。
そしてあらかじめ登録しておいた指紋認証と歩容認証、虹彩認証、固有魔力振動波認証と四重のセキュリティシステムを経て中央シャフトへと辿り着いた。二人はさらに上降シャフトに乗り最上階の統括委員会の委員長室へと向かう。
「四重のセキュリティ、しかも最新式。これほどのものはうちでもそうそう見れませんね」
岬が灘に話しかける。
「お手数をおかけします。この島に上陸する分にはこれほどではないのですが、何せこれから向かうは本島の心臓部ですから・・・・・・」
上昇してから数十秒で地上へと出た。シャフトの側面はガラス張りでアトランティシアを一望する事ができ、岬はその眺めに圧倒された。そして1分ほどで最上階へと辿り着いた。
中央統制センタービル最上階、統括委員会委員長室。その前まで到着した灘は扉をノックした。
「監査室の岬沙耶さんをお連れしました」
「入れ」
灘が扉を開けて岬に入るよう促した。委員長室は長方形で一番奥にはガラス張りの壁を前に執務机が置かれていた。そしてその机に座っている彼こそ、このアトランティシアで最大の権力を有する統括委員会会長。三つ編みの白い髪、オッドアイをした人物。美少女と呼ばれれば100%信じるであろうその容姿。男とは思えない可憐さを持ち合わせていた。
そしてこのアトランティシアにおいて最強と呼ばれる魔法使い
「初めまして、岬さん」
白鷺楓は岬を見ると席から立ち上がった。身長はそんなに高くなく、165センチ程だろうか。
そしてその隣には、白髪の混じった初老の男性が立っていた。
「岬さんこちらにおかけを」
初老の男性が促す。統括委員会顧問の烏丸美嘉だ。そして後ろでコーヒーの用意をしているのは副会長の亜雁凪であろう。凪は淹れたてのコーヒーを机に置くと、岬に耳打ちした。
「ボクの淹れたコーヒーを飲める人間なんて滅多にいないんだよ? 味わって飲みなよね?」
「凪、お客様にはそれ相応の礼儀を持って対応しなさい。と、何度も言っているのだがな」
美嘉が肩を落とす。
「わかってるって、美嘉」
「うちの凪がすいません。ですがこういう性格なので……」
楓がわずかに苦笑いする。
「わかっています」
岬は笑顔で答える。楓はその様子を見て頬を緩める。
「それでは、改めて。統括委員会、委員長の白鷺楓です」
「防衛省情報局中央監査室監査官の岬沙耶です。今回はアトランティシアにおける監査任務のために参りました。確かにここアトランティシアは超法規的自治区です。ですが、国連の魔法技術制限協定に違反していないかなどの確認は行わなければなりません。ですが、監査任務にあたってまずは楓委員長にご挨拶を、と」
「わかってますよ。そこら辺はこっちも慎重にやっておりますので。あまり心配はいりません」
楓は顔色ひとつ変えずに言葉を返す。
「ええ、私もそのことに関してはあんまり心配していません」
「あなた用の魔法共鳴装置〈ネメシス〉の最終調整がまだ終わっていないのです」
「それは……」
「現在早急に調整中ですので明日までにお渡しできるかと……」
「明日……今日中というのは難しいですか?」
「ご不便をおかけします……確かにこの学園都市において生身で生活するのは死ににいくようなものですからね。その気持ちは十分理解できます」
このアトランティシアの特異的な部分。魔法の効率的な学習と発達の為に生徒間の魔法戦闘が容認されている。しかし、死んでしまっては元も子もないのでこのアトランティシアでは、すべての生徒がネメシスという魔法装置を装着して生活している。
魔法共鳴装置〈ネメシス〉。この装置はリング上であったり、ネックレス状であったり、さまざまな形があるのだが、その用途は装着者の保護である。
その装置を説明するには、まず固有魔力振動波について説明する必要がある。固有魔力振動波とは、人体が常に発しているエレメントの振動波であり、一人一人に固有の波がある。
そしてネメシスと、統制タワービルの最上部に設置された増幅装置が連動することにより、固有魔力振動波との魔力共鳴を発生させる。このことにより、現在個人では、数分が限界の魔法防壁をオートで常時発動が可能となるのである。
魔法防壁は、その名の通り魔法の防壁であり、攻撃を防ぐ盾としての役割を持つ。その本質はエレメントレベルでの認識阻害。エレメントの本質が「情報の波」であるならば、対象の波の逆位相をぶつければ、波を打ち消すことができる。しかし、実際に対象の固有魔力振動波を瞬時に解析して対象にぶつけるのは不可能に近い。であるならば、ランダムな波をぶつけてしまえばいいのではないか。そうすれば、打ち消すことはできずとも波の振幅を極限にまで小さくすることができる。そのような理論から魔法防壁は、すなわちランダム化されたエレメントの膜であると言える。
しかし、意図的にエレメントの振動波を乱すのは容易ではない。それを可能にしているのが、高高度人工演算システム「エデン」の存在だ。エデンの膨大な演算領域とその演算スピードがこの魔法防壁を現実のものとしているのだ。
つまり、ネメシスの効果はこのアトランティシア内に限る。
そんなこんなでこの学園都市では生徒間の戦闘が頻繁に起こっているである。そのため学園エリアに足を踏み入れる際は、ネメシスの着用が義務付けられているのだ。
「それにしても、どうやらとても忙しそうですね」
岬は執務机に積まれた大量の書類に目を向ける。
「ええ、もう少しで新学期ですので。新入生を迎える準備でどこも大忙しです」
楓は肩を竦める。
「では、長居するわけにはいきませんね。私はこれで失礼します」
そういうと岬は席を立つ。すると灘が近くに寄ってきて岬を促す。
「では、休憩室まで私がお連れします」
「ああ、よろしく頼む」
美嘉が頷く。
そうして岬は、灘に連れられて部屋を出ていった。
それを確認した美嘉は楓に話しかける。
「ここまでする必要はあったのか? ネズミを易々と潜らせる必要が」
その言葉に凪も同調する。
「そうだよ、今ここで首を掻っ切ればよかったじゃん」
その言葉に楓はコーヒーを一口飲んで口を開く。
「いや、奴らがこのアトランティシアについてどれだけ情報を得ているか知る必要がある」
「なるほど……あれも不憫だな。触れてはいけないものに触れようとしたんだ。その逆鱗に触れるのは必然の事……」
灘は、監査官である岬沙耶を来客用の休憩室まで案内する最中だった。すると後ろから声が聞こえた。
「あの、その前に少しトイレに行きたいんですが……」
それを聞き、灘は岬をトイレに案内する。
「岬さん、ここが 」
灘が後ろを振り返ろうとした途端、頭に大きな衝撃を受けそのまま、崩れ落ちた。灘は薄れゆく意識の中で必死に言葉を紡いだ。
「岬……さん、どうし……て」
そこには倒れた灘を冷たい眼差しで見下ろしていた岬の姿があった。
「計画通り、ね」
岬は、意識を失った灘をトイレの個室に隠すと、そのまま何事もなかったかのようにトイレを後にし、休憩室とは逆方向へと進み出した。
岬は、メインシャフトで地下50階の特一級警戒区画へと向かった。センタービルの地下50階より下には、島全体の電力が集約する中央集電区画、ライフラインや増幅装置、その他システムの一括管理を行ったりする「エデン」などの特別防護指定の重要システムが集約されている。そのためここに入れる人間は、ごく一部に限られている。
そして岬は、指定の時間になるまで身を潜めた。
そして夜十一時ごろ、アトランティシアに近づく数隻の艦影があった。それらは、アトランティシアの第一警戒ラインを超え、領海内に侵入した。
中央統制センタービル40階にある戦闘指揮所〈CIC〉では、風紀委員と統括委員が慌ただしく動いていた。
「正体不明の艦隊、第一警戒ラインを超え、尚も接近中です!」
「警告はしたの?」
「はい、現在も呼びかけていますが応答ありません。敵味方識別信号も反応なし!」
「解析完了しました! ワルシャワ同盟軍と思われます!」
その言葉に風紀委員会委員長の不知火蓮水は、顔を顰める。ワルシャワ同盟軍は第三次世界大戦で敗北した東側諸国を中心にして結成された武力集団だ。
「ワルシャワ同盟……」
「状況は?」
その時、美嘉が司令部に到着した。蓮水は、美嘉の方へ体を向ける。
「美嘉さん、楓委員長は?」
「不在だ、指揮は俺が取る」
美嘉はメインモニターを確認する。
「ワルシャワ同盟か?」
「はい、間も無く第二警戒ラインも突破されます!」
「総員に達する。第一種戦闘配置! 各学校に非常呼集かけろ! 警戒中の風紀委員にも連絡を取れ! 魔法防壁展開! 対水上戦闘用意!」
司令部の灯が赤色灯に切り替わる。美嘉の号令ですべてのオペレーターが一斉に慌ただしくコンソールを操作しだす。
「もし、奴らが最終警戒ラインを越えれば奴らを沈める」
その言葉に蓮水はハッとする。
「威嚇射撃ではダメですか?」
「蓮水、わかっているはずだ。アトランティシアは、日本のみならず西側諸国における魔法開発の一大拠点だ。突破されるわけにはいかん」
その言葉に蓮水は一瞬逡巡したが、覚悟を決めた眼差しで美嘉を見る。
「……了解しました」
CICには、緊張が立ち込める。第三次世界大戦の終結から15年経っているとはいえ、未だ、西側諸国と東側諸国の対立は激しく、各地で小規模な武力衝突も続いている。
そしてこのアトランティシア周辺でも時々ワルシャワ同盟軍による越境行為が行われていた。
しかし、ワルシャワ同盟軍の艦隊がここまで領海侵犯をしてくるのは、初めてであったことから、美嘉は第一種戦闘配置を命じ、撃沈も辞さない強行姿勢に出たのだった。
その頃、特一級警戒区画に潜伏していた岬が動き出していた。区画内は突然の戦闘配備命令で混乱を極めていた。
そのため、「エデン」の中核に潜り込むことは容易かった。そして外部制御コンソールに自分のデバイスを接続させる。
『権限を確認。防衛省中央監査室監査官、岬沙耶。認証成功』
デバイスから電子音声が聞こえてくる。岬はデバイスを操作して「学園生徒情報」と記されたフォルダを開き、「統括委員会委員長兼ミソア高等学院中央幹事会幹事長白鷺楓」を選択し、開く。すると
「これは……」
そこに表示されていたのは『NO AUTHORITY』。
「これは一体どうゆうこと⁉︎」
岬は混乱する。監査官の権限は最高位のものであったはず。たかだか生徒の情報を見るのには、十分過ぎるはずだ。なのにそこに表示されていたのは、『権限なし』の文字だった。
岬は何度も試したが、結果は同じだった。岬の首を汗が伝う。その時、後ろで溜息が聞こえた。
「はあ。全くとんだネズミが紛れていたものだよ」
岬が振り返るとそこには、楓が立っていた。それに岬はさらに混乱する。全く気が付かなかった。美咲の背筋に何かヒヤリとしたものが走り抜ける。
「何故あなたがここに⁉︎ CICにいるはずじゃ?」
「ああ、それに関しては美嘉に任せてあるからね……さて、休憩室に向かった君がなぜこんなところにいるのか言い訳でも聞かせてもらえるかな? 岬沙耶さん、いや李紅花さん?」
その言葉に岬、いや、李紅花は体を硬直させる。
「全くワルシャワ同盟の工作員が防衛省にも紛れ込んでいたとはねえ。それも情報局。これはキツく言っとかないとね〜」
楓はゆっくりとガラス窓の外に見えるエデン本体に目をやる。李紅花は自分たちの作戦が失敗したことを察する。そしてその次の瞬間、彼女はここからどうやって脱出するかを考え始めた。
「まさか私の正体がバレていたとはね。一体いつから?」
「初めっからさ。君が監査官としてここに派遣が決まった時から。それにこのタイミングでのあワルシャワ同盟軍による領海侵犯。それも君たちの作戦の一部なんだろう? おそらくこの混乱に乗じて逃げる予定だったのだろうけど……」
その言葉に李紅花は、不愉快そうに顔を歪める。
「ならなぜ、あの場で捕まえなかった?」
「君らがどこまで知っているのか知りたかったからさ。でも今ので大体わかった。君がここまで辿り着けたということは、あらかじめこの施設の構造を知っていたということ。ここら一体の構造を知っている者はそんなに多くはない。いったいどこから情報が漏れたのかなあ?」
「教えると思う?」
「別に教えてもらおうなんて思ってないさ。さほど興味もないしね」
楓は余裕の笑みを見せる。隙だらけだ。武器も持っていない様子。これならば殺すことはできなくともここから逃げることはできるはずだ。何せ、数ある工作員の中でも自分は選ばれた存在だからだ。第三次世界大戦では、敵の魔法部隊を壊滅させた事だってたくさんある。
だから、たとえ相手があの統括委員会委員長だとしても、逃げ切れるだろうと踏んでいた。
まあ他にもそう判断した理由はあるのだけれど。
だが、まだだ。せっかく本人が目の前にいるのだ、話してくれるかどうかは別にして探りを入れるのは無駄じゃないはずである。
「はあ、どうやらここまでのようね。でも最後に教えてくれるかしら? あなた一体何者なの?」
「何者も何も統括委員会の委員長だけど?」
「惚けないで。上から命じられたのは、あなたの正体を掴むこと。あの諜報部がたかだが情報収集の為に私を使ったことは一度もなかった。それになぜ上層部はこの後に及んであなたの調査を始めたのかしら? 理由は簡単。あなたがこの学園都市に来るまでの経歴が全くつかめなかったからよ。奇妙よねえ。確かにあなたは有名人よ。でも、ここまで過去を辿れないなんてことがあり得るのかしら? しかも私たちがこれほど時間をかけなければ見破れない程巧妙に、ね?」
「失礼なことを言うなあ。どこにそんな証拠があるんだい?」
「誤魔化しても無駄よ?」
この話を聞いたとき李紅花は一つの可能性を見出していたのだ。本来、たかだか情報収集のために李紅花は、動くような人間ではなかった。しかし、自分の仮説が正しいのか、どうしても確かめたくなった。だからわざわざ敵の懐に飛び込むというリスクを冒してまでこの任務を引き受けたのだ。
「人気者は困るなあ」
「あくまでシラを切るつもりね?」
「シラを切るもなにも俺はただの委員長だよ」
おそらくこれ以上聞いても答えは返ってこないだろう。そろそろだろうか。
李紅花は胸ポケットに入っていた銃に手を入れ、魔力を込める。これは、魔法補助デバイス型でレミントン・デリンジャーをベースにした拳銃だ。
魔法補助デバイスとは使用者の魔法行使を補助する装置のことである。もっと簡単に言えば、おとぎ話に出てくる「魔道具」と同義と捉えていただいて遜色ない。多くの魔法使いが魔法を行使するとき、この補助デバイスを用いることで魔法の行使が楽になる。今回李紅花が使用した拳銃は、魔法で弾丸を作り出すことができる。つまり、弾丸がなくとも永遠に撃ち続けることができるのである。本当はもっと強力な魔法を使いたいところだが、ここら一体のエレメントの流れが乱れていて、正常に魔法の発動ができるかどうかは怪しい。おそらく、エデンの本体が近くにあるせいだろう。この高高度人工知能の演算システムには、エレメントと量子コンピュータ―を組み合わせた技術が使われている。この新技術のおかげでエデンは量子コンピュータ―の数千倍もの速度での演算が可能となった。しかし、その弊害として付近一帯のエレメントを不安定にしてしまうのである。正確には、エレメントを構成している情報パターンが常に変化してしまうのである。この異常状態の中で自力での魔力行使はほぼ不可能だ。
それを事前に知った上で、拳銃を懐に忍ばせておいたのだ。それにこの場において魔法を行使することは例え彼であっても困難だろう。であるならば、CQBの心得がある自分の方が有利と判断したのだ。
拳銃を握り術式を構築しながら、楓に向けて狙いを定める。この間1秒未満。この速さについてこれる者などいないはずだ。いないはずだった。しかし、引き金を引こうとしたその瞬間、腕が血飛沫を上げた。
「う⁉︎」
李紅花は、痛みで鈍い声を上げる。腕の力が抜け、拳銃が甲高い金属音と共に地面に落ちた。何が起こったのか、一瞬理解が追いつかなかった。しかし、すぐにわかった。空気で切られたのだ。たった今彼が使った魔法は、対象の物質を刃に変えて放つことができる魔法だ。対象が鉄なら鉄の刃が、氷なら氷刃が、炎ならば炎の刃ができる。そして、空気なら空気の刃が。
しかし、この魔法の中でも特に難しいとされるのが、空気から刃を作り出すことだ。極限まで圧縮させて刃の形にするのだが、空気は個体ではなく気体であり、形を固定するのがとても難しい。だから初めは、空気が形を維持できず霧散してしまうのである。
ただ、刃が空気である以上、目視で避けるのは極めて困難であり、その分戦略的アドバンテージを高く取れるので強力ではあるのだが。
だが、それぐらい彼女にもできる。しかし、エレメントの乱れたこの場で難易度の高い魔法をノータイムで行使できたこと、発動の前兆や軌跡を見きることができなかったことが彼女を驚愕させた。
「まさか、この状況で魔法が使えないとでも思ったのかい?」
その瞬間、李紅花の足が吹き飛ぶ。バランスを保てなくなり、李紅花はその場に崩れ落ちる。神経まで切れているのだろう、全く足が動かない。完全に相手の実力を見誤っていた。
確かに彼がエレメントの乱れた空間内で魔法を行使できるかどうかのデータはなかった。
しかし、彼女は勝手に出来ないと決めつけていた。それは無意識から来る恐怖を紛らわせるために自分の都合のいいような結論を導き出していたからではないか。逃げられると言う都合のいい解釈をしていたのではないか。
「本当に……あなた、何者? こんなエレメントが乱れている中で正確に魔法を使える人間なんて私だって数える程しか見たことないわ!」
「それは君の経験が薄いだけじゃないのかい?」
「舐めないでくれる? 私は、あの『シベリア事変』を戦い抜いてきたのよ?」
「へえ? 君すごいじゃん! こんなところじゃなかったら少しは面白い戦いができそうだったのにね」
楓の挑発的な言葉に李紅花は激昂し、左手で瞬時に銃を掴む。
「舐めるなクソガキいいい‼︎」
しかし、またしても引き金を引く前に彼女の左肩を鮮血が迸る。間髪開けずに両足からも鮮血が迸る。痛みで顔を歪める。
楓はそんな李紅花を嘲笑うかのように見下ろす。
「はあ、そろそろ終わりにしようか。苦しめるのもあんまり好きじゃないしね」
その言葉を最後に李紅花の意識は暗転する。彼女の意識が途切れる瞬間、彼女は楓の目を見て確信する。やはり、あの仮説は正しかったのだ、と。
「ああ、やっぱり、ね……」
彼女の意識が戻ることは永遠にない
地に落ちた首を少しの間眺めていると、後ろから気配がした。
「凪、か」
「どうやら終わったようだね……もうこんな事はしないと思ってたんだけど……」
凪は静かにそう告げた。それを聞いて楓は苦笑いをする。
「それでも必要な事なんだよ……それより、少々めんどくさいことになったようだよ」
「どうしたの?」
凪は顎に手を当てる楓の様子を訝しみ尋ねる。
「何か嫌な予感がする」
「どうゆうこと?」
「あの女、データベースにアクセスして俺の情報を探ろうとしていた」
「楓のことを⁉︎」
「そう。それに情報によるとワルシャワ同盟の内部でかなり大きい動きがあったらしい」
「大きい動き?」
「詳しくはわからなかったみたいだけど、上層部が一新された可能性がある」
そこまで聞いて凪は一つの可能性を思い浮かべていた。
「まさか『定命の神導者』が⁉︎」
「多分、ベルフェゴールの仕業だろうね。ついにワルシャワ同盟までも手中に納めたというわけさ」
楓は一人の仮面の男を思い浮かべる。モルタリアを率いる男。トンガリ頭巾にエジプトのウジャトの眼を思わせる目元からラインの伸びた仮面をした男。
そこで凪が一つの疑問を呈する。
「でも分からないなあ、ベルフェゴールは楓の正体を知っているのにどうしてわざわざ楓のことを?」
「そこまでは分からない。ベルフェゴールに命じられたのか……或いは……とにかく今重要なのは、奴らがこのアトランティシアの中核まで忍び込むことができたということ」
「そうなるね……」
「どうやら奴ら本格的にこのアトランティシアに手を伸ばして来たみたいだね」
凪は、今まで自分の中に流れ込んできた情報を整理するのに精一杯らしかった。そこで、楓は再び口を開く。
「『滅びの詠唱譜』を掌握できない現状、アトランティシアの持つ魔法技術を狙うのは定石だろうね。それに『三種の神器』の最後の一つを持っているのは俺だからね」
事態が予想以上に険しいことを知ると、凪の顔はより深刻なものへと変化していった。
「このままあいつらを好き勝手させたら……」
「そうなれば、最悪だよ。人間種は再び奴らの奴隷に成り果てる。レムリア文明の再来というわけさ」
楓の声からは珍しく焦燥感が滲み出ていた。
「全てはあの仮面野郎のシナリオ通りになるわけかよ」
凪が戯けて笑う。
「すでにモルタリアの手はアトランティシアに入り込んでいるだろう。どうやら警戒を引き上げる必要がありそうだね……」
楓の目に映るは暗雲。アトランティシアという名の巨島は今、まさに嵐の夜へと突入しつつある。春の兆しが訪れ始めたこの学園都市に今、巨大な悪魔が忍び寄ろうとしていた。
ベルフェゴールはその仮面の奥で不敵に笑う。
再び人間という種をあるべき姿へと戻すために