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マインスリーパー  作者: 田中力
2/2

音爆弾

五月の蠅はうるさい。

旧時代の人間はこう言ったもので、穏やかな耳元を脅かす存在というのは相場が決まっていた。

うなりを上げる羽音とともに、縦に横に斜めに滑り、円弧を描いて飛び回る。

音に加えて動きもやかましいとは何とも厚かましく図々しい生き物だろう。

五月には、初夏の熱が喉を焦がしてノイズが混じり、ごまかす為にも合唱を試みる。

不協和音はさらに不快に、愚鈍で淀んだ小さな命は存在感を増すばかりである。

しかし普段は思考をかき回す彼らも、起き抜けに、いや寝静まる頃に喚いたりはしない。

こうして叩き黙らせることはできたとしても、決してよみがえることはない。

けたたましく鳴る電子音が筋肉を強張らせ、脳をかち割り心臓を食い破ることもない。

ああ、うるさい!うるさいにも程がある。

スヌーズモードに切り替わったアラームは最早命を削る死神の鎌。

叩き殴りぺしゃんこにしても押し黙らずに、痛さも覚えず主の鼓膜を打ち破る。

もう仕方もあるまい、とやっとこさ起こす身体は重い。

いい加減にも爆弾解除。これが三十路独り身男の朝一番のルーティーン。

動画にでもしようものなら開始三十分は絵面も変わらず地獄絵である。


さて、寝覚めを覚えた身体であれば後は大した苦労もない。

柔軟剤の香りも忘れた薄い布団をめくりあげ、フリース素材のジャージを脱ぎ捨てソファにかける。

保温素材のカーペットに多少のざらつきを感じながら収納棚を覗き、下履きを取って浴室へと向かった。

昨日から替えなかった下着を剥いで、雑な手つきで洗濯槽に投げ入れる。

冷たい床にヒヤリとしながら扉を閉め、レバーをキュッとひねり頭から冷水を浴びる。

身体が強張り鳥肌立つ。性急に温水へ切り替えては煮え油のような熱湯にまた驚いて温度を調節する。

ようやく手元が落ち着いて、浴びた水が下へ下へとほとばしるのを感じる。

この世に生きる数多の生物がこの液体に生かされている事を実感し、じっくりと表皮ににじませる。

そうだ、こんな自分も水がなければ生きてはいけぬ。

ふと思い出したように鏡を覗く。四角い額縁に入れられたような小さなその鏡には、

「ああ……」

実際に声にも出したその発音を、象って埋めたように開いた口の穴がこちらをまた覗いていた。

レバーを締めてシャワーをとめ額縁の中を遠目で鑑賞する。

大きな隈に横切れた目、短く垂れた眉の下にはむく毛が生えている。

伸びた鼻の左右をほうれい線が薄く降り、赤茶けた唇と小さい頬髭を分けている。

濡れ髪は手分けた部分で分かたれて鋭い先から水が滴る。切ってきたのは二週間前の事である。

名画よろしくこちらを睨むその様は、さながら海草をかぶって陸に上がった哀れな海坊主だ。


兎にも角にも身支度を終え、湯上がった肉体はスーツに包まれていた。

就職祝いにケチケチと貯めたなけなしのバイト代を、切り崩して買った上下一式五万円。

深い紺のオーソドックスな見栄えで身につければいつも何か窮屈さを感じる。

濡れそぼっていた海草も今ではからっと固められ、前は額にかからず上向きである。

表面的には新進気鋭の若手社員、雰囲気的には成功の兆しも垣間見えるか。

狭い一室の鍵を取り、汚い玄関に磨いた黒靴を出して足を埋める。

あまり高くない銀時計に目をくれては、細い指で紐をほぐし二足とも結び直している。

忘れ物はないか、電車に間に合う時間かどうか。頭ではそんな事に神経と血中酸素を費やすばかり。

まさに俗物。世俗の化身。社会の歯車、プロレタリアート。

そんなのどうせつまらないわ、と口ずさみながら重い腰を上げ扉を開ける。

耳に寄生するワイヤレスイヤフォンの電子音源に意識を割いて、差し込む日差しに目を側める。

まだまだ陽光も大して強くはないというのに。

爆弾は言い過ぎでしたかね。日々を働く世界の目覚ましは私よりも働き者です。

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