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ロンディオンから列車で8時間。
ウィクトーリア最北端までは線路が施設されているが、国境を越えてアーヴェイロン、それも人類生存圏の最北であるケイナーンまで行くにはさらに馬車に揺られて5日の旅になる。ウィクトーリアと違って舗装のされていない道は揺れも激しく、また速度も出せないために長い時間を移動に費やすことになった。
「こんな、未開の土地にお嬢様が行きたいとおっしゃった時は意識が遠のくかと思いました。それに馬車の揺れで今も臀部に痛みがあります。野蛮人どもはこの揺れでも気にならない鈍感な精神をしているのでしょうね。私はお嬢様の美しい白い肌がこの揺れの衝撃で赤くなっていないか心配です」
「確かにあの揺れはウィクトーリアでは経験のない出来事でしたが……。マリアリア、貴女がわたくしのことを思っていってくれるのはありがたいわ。でも、ここはウィクトーリアではなくアーヴェイロン。そう大きな声で見下すことをいうのはやめなさい。それとわたくしの臀部はこの程度ではびくともしないわ」
アイギナはマリアリアと呼んだ妙齢の女性を窘める。
彼女は実家がアイギナのアーヴェイロン行きを許可するにあたってつけた条件だ。
護衛兼世話係であるマリアリアはアイギナが乳飲み子である時からずっとそばにいる姉のようであり、友人のような存在だ。
アイギナとしてはマリアリアがついてくることに異論はなかったが、時折垣間見る過保護すぎる言動が不和を招くのではないかと心配の種でもあった。
「もし神に寵愛されし生きる伝説たる完璧なお嬢様に難癖をつけてくるような蛆虫がいたらこのマリアリアが存在を消し飛ばしてやりますのでご安心を」
「マリアリア、わたくしは何一つとして安心できる要素が見つけられないわ……」
アイギナは過保護すぎるマリアリアに溜め息をつく。
彼女が心配してくれうのは本当に嬉しいのだ。だが、そのうれしさがありがた迷惑となってしまうことがあるのも事実である。
ウィクトーリアではアイギナ自身の立場もあって突っかかってくるようなものは皆無に等しかった。
なのでマリアリアの過保護さが発揮されたとしても問題になることはなかった、
だが、ここは異国の地だ。常識が違う、文化が違う。
ウィクトーリアでは問題のなかったことも、ここでは問題となることもあるのだ。
そして、ウィクトーリアの身分はアーヴェイロンでは通用しない。
ここではアイギナという一人の少女としてしか見られないのだから、問題は起こさないに限る。
それとなく伝えても無駄なので直球でマリアリアにそれを伝えれば。
「いいですかお嬢様。お嬢様の完璧さを理解しない野蛮人がいけないのです。こんな未開の土地でお嬢様のすばらしさを理解するのは難しいでしょう。虫が人間の営みを理解することはあり得ません。なればこそ、人間はゴミ虫を見つければ叩き殺すのです。虫に理解を求めることがおかしいのです。お嬢様のすばらしさを理解しないものはすべて虫。そう、虫なのです……ふふふ」
「もういいわ、マリアリア……」
アイギナ自身はアーヴェイロンを文明レベルの低い未開の国、などとは思っていない。
だがウィクトーリア人の多くが他国。そのなかでもアーヴェイロンを見下しているのは知っていた。
アイギナはそれを快いものとは思っていないのだが、ウィクトーリアでの世間一般では違う。
ウィクトーリアではマリアリアのような人間が大多数を占めている現実に頭を悩ませている。
これから向かうアーヴェイロン。そこはラインと呼ばれる人類生存圏の最北だ。もっとも過酷な国である。そこはラインに一切面していないウィクトーリアの人間が知る由もない過酷な環境だろう。
ウィクトーリア人はアーヴェイロンが陥落したとき、どうなるのかを知らないのだ。
「お嬢様がた、もうすぐ着きますよ。……それと悪いことをいいませんがケイナーンではその野蛮人というのはやめたほうがいい」
「御者風情が口を慎め。そして事実を受け止めなさい」
「マリアリア、やめなさい」
「私は構いませんがね。ウィクトーリアがアーヴェイロンよりも発展したお綺麗な国ということはこの仕事をしていればわかりますから。ですが……ここから先では命にかかわりますよ」
「はっ! ご忠告どうもありがとう。虫のさざめき程度には気に留めておくわ」
「……わたくしの侍女が申し訳ありません。ご忠告痛み入ります」
それから間もなく、馬車が止まる。
「ここがアーヴェイロン最北、人類生存圏の最北端ケイナーン、その防人たる狩人たちの巣。ギルド本部です。ようこそ地獄の入口へ。侍女の方、くれぐれもどうか口にはお気を付けてください」
「ありがとうございます」
先に降りたマリアリアの手を取って馬車を降りる。目の前には3階建ての大きな建物。
入り口部分には威圧的なモニュメントがある。Dg資源の研究をしてきたアイギナにはそれがなんなのかがわかる。そしてそれがどういう意味があるのかも。
「はっ、悪趣味な立体物ね……。センスのかけらもない」
「マリアリア、黙りなさい」
「お嬢様」
「いいから黙りなさい。これからしばらくは口を開かないこと。これは命令です」
「……かしこまりました」
アイギナはぶるりと体が震える。
Dg資源研究所の職員は井の中の蛙だ。ウィクトーリアの人間は無知な人間だ。
これを見ればわかる。ここに来れば肌で感じる。
ここは本当に地獄なのだと。多くの血が流れる戦場なのだと。
ウィクトーリア人は大きすぎるものの全容がわからずにその末端を見て吠えるちっぽけな犬にすぎないのだと。理解した。
ドクターオーウェンはなぜ気づかなかったのだろうか。それがふと気になった。
「ようこそ、ケイナーンへ。長旅でお疲れでしょう。私はこのギルドの取り纏め、ギルドマスターという役職に就いているアレックスと申します」
だがその疑問は禿頭の偉丈夫が声をかけてくることだ霧散した。筋骨隆々で如何にも戦いに赴く人間という容貌と、かしこまった格好をしているというミスマッチ。
これが彼の普段の恰好ではないということをすぐさま理解する。マリアリアは命令通り口を開かないが雰囲気が彼の姿を下に見ているのが分かる。
マリアリアを一瞥して、余計なことを言わないようにと視線だけで念押しする。
「お出迎えありがとうございます。ウィクトーリアから参りました、わたくしはアイギナ・ヴィグナ・アルトヴァイスと申します。こちらはわたくしの侍女のマリアリア」
マリアリアは頭を下げることもしない。アイギナは何度目か分からないため息を心の中だけで吐く。
マリアリアはウィクトーリアではいい姉であり、いい従者であった。だが、彼女は良くも悪くもウィクトーリアの人間である。
問題を起こさなければいいのだがと不安を持つのも無理はないだろう。
「ご紹介ありがとうございます。では中へどうぞ。荷物は運ばせます」
男たちが荷物を運んでいく。それを見届けるとアレックスに促される」
「ウィクトーリアから遠路遥々お越しいただいたアイギナお嬢様と、お付きの方には慣れぬ雰囲気だとは思いますが気を悪くせぬようお願いします」
予想していたよりも好意的かつ丁寧な態度に安堵した。取り繕うことをしてくれるのだから。
歓迎されないまでも、邪険にはされないだろう。
そんな打算的な考えが浮かんだ。