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「本当に行くのかい?」
「ええ」
少女は男の言葉に頷いた。
ウィクトーリアの首都、ロンディオンのDg資源研究所の一室でその会話は交わされていた。
「君ほどの優秀な人材がわざわざ野蛮人の国、それも危険な最前線に行く必要性はないと思うんだが。それにDg資源の研究なら前線から送られてくるもので十分だろう。ここほどの設備はかの国には存在しない。ここで研究を続けたほうが君の未来の為だ」
「いいえ、ドクターオーウェン。わたくしの未来は研究所に籠って手にすることはできません」
男、ドクターオーウェンはこの研究所でのDg資源第一人者だ。彼ほどDg資源について知識を蓄えているものは他にいないだろう。
彼の研究によって生み出されたものはウィクトーリアの生活を豊かにした。そのおかげでウィクトーリアはかの災厄の後でも発展をつづけた唯一の国なのだ。
「……以前わたしもあの野蛮人どもがひしめく最前線に赴いたことがある。あの時の屈辱は今でも忘れていない。彼らは私の研究に理解することはついぞなかった。かの災厄で文明レベルが下がってしまった蛮族の国だ」
「ドクターの心配はもっともです。ですが、それでもわたくしはかの地へ行きたい、いや行かなくてはならないのです」
引き留める男の言葉は少女には届かない。
決意は固く、その瞳は煌々と意志の強さを湛えている。
男はあきらめのため息を吐いた。
優秀な人材を失うかもしれないのだ。そして少女はドクターの娘よりも若い。
そんな娘を危険地帯へと快く送り出すことなど無理だ。
だが、そんな心配すらも目の前の少女は撥ね退ける。
このままここで研究を続けていれば少女ほどの人材なら成功は約束されたようなものだ。
もし、このままここにとどまるというのなら男の後継者にしようとすら思っていたほどだ。
「はあ、わかった。君の考えをひるがえすのがわたしには妻の楽しみにしているティータイムのケーキをやめさせるよりも難しいということがね」
「ドクターの奥様は甘いものが好きなのですね」
「ああ、そろそろ歳だから甘いものは控えろと何度言ってもクリームたっぷりのケーキに、たっぷりのジャムをこれでもかと入れた紅茶を飲むんだ。一度無理にやめさせようとしたら包丁を自分の首にあてて『わたしの楽しみを奪うというのならこの場で死にます!』と叫んだときの妻よりも、今の君の瞳は強く輝いていた」
ひどく疲れた顔をしてそう語る男の顔は諦め色が滲んでいた。
少女は男の顔を見て男の妻の話が真実なのだと察し、表情を崩す。
「それで、いつこちらを発つのだい。向こうはウィクトーリアよりも文明レベルが低い。ここで当たり前のものは存在しない。それなりの準備をしていかなければ後々後悔することになる」
「わかっていますよ、ドクター。なので準備も含めて一月のちにこちらを発とうと思っています」
「そうか、ならちょっと待っていなさい。……これを持っていくといい」
そうして少女が渡されたのはギルドへの紹介状だ。
男の署名が入った紹介状だ。
「わたしの名はかの地でそこまで有効ではない……が、邪険にされることもないだろう」
「ありがとうございます、ドクター」
「いや、いいんだ。このくらいしかわたしにできることはなさそうだからね」
そういって男は姿勢を改めた。
少女もまた男に倣って姿勢を改める。
「君は優秀な人材だ。それを手放すのは惜しい。だが、君はここをきっと鳥かごのように感じているのだろう。ここは君にとっては、君を束縛する籠なのだろう」
「ドクター、そんなことは」
「ない、とは断言できないだろう」
「すみません」
「いや、いいんだ。だが、最後に一つだけ聞きたい。君にとってここでの生活は、君の目指す物の糧となっただろうか?」
「ええ、ドクター。無駄だったことは何一つしてありません」
男は小さく「そうか、なら……いい」とだけ呟いた。
しばしの沈黙。その沈黙は感傷に浸る僅かな時間だ。
それを振り払うように、男は告げる。
「君の先行きに幸があらんことを。達者でな、アイギナくん。君がもし戻って来ることがあれば、その時は声を掛けてくれ。君の為の席を空けておく」
「ありがとうございます、ドクター」
一月後、ウィクトーリアから一人の少女が旅立った。
少女の名はアイギナ・ヴィグナ・アルトヴァイスという。




