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匿名探偵クラウド  作者: 彩宮菜夏
第一章 事件前
13/17

13. 張り紙

 僕も当時は小学校低学年だったから、あまりはっきりしたことは覚えていない。

 だが、最初に起こったのは張り紙だった。


 うちの近所の壁に、しわしわになった汚い紙が貼られていて、そこにこんな文字が書かれていたのだ。


『げひんな仕事をしている あたまのわるいおんなが この町に すんでいる

 こどもをつくるな こどもとはなすな はやくきえろ

 じぶんでそんな人生にしたのだから じぶんで責任をとりなさい』


 ひらがなが多いので、小学生の僕でもほとんど読めた。僕はそのまま家に帰り、母に張り紙に書かれていた言葉をいくつか言って、意味を尋ねた。

 母はそれには直接答えず、すっくと立ち上がると僕を部屋に残して出て行った。


 五分も経たないうちに戻ってきた母は、手の中からくしゃくしゃに紙を取り出して、書かれた文字をしばらく眺めて、それから僕に向かって言った。


「いい。これのことは忘れなさい。こんなもの、良生は気にしなくていいんだから。ね」


 そう言われても、どこをどう気にしなければならないのか当時の僕には意味がわからなかった。僕は女じゃないし。

 でも、そのときの母の目が今まで見たことがないくらい真剣で怖かったので、僕は黙ってうなずいた。


 その後、同じ貼り紙はうちの近所に三日に一回くらいのペースで現れるようになった。

 母は見かけるたびにそれを破り捨てていたが、貼られている場所は毎回違うので見つけるのは簡単ではない様子だった。

 それに、他の人の目に止まらないよう処分しなければならないのにも苦労しているようだった。


 日が経つにつれ、母はただの張り紙に憔悴していった。

 たかが一文書かれただけの紙切れなのだが、徐々にそれが母の心を蝕んでいっているのが幼かった僕にもわかった。

 ちょっとした買い物に出かけるときでさえ、だんだん母は周囲の目を気にするようになっていった。


 今ならその理由がわかる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 犯人がわからない。近所の誰かが、明らかに自分を指して嫌がらせをしている。

 けれど、誰がやったのかがまるきりわからない。すると、途端に誰も信じられなくなる。


 コンビニを歩いていても、僕と公園で遊んでいる時も、母は周りの様子を伺うようになっていった。

 どこかに張り紙が貼られているのではないか。誰かが今、貼っているのではないか。貼った人間が自分たちを、見ているのではないか。

 直接母のそんな思いを聞くことはなかったけれど、でも今思い返すと、ちらちら辺りを見回していた母はそんなことを考えていたに違いない。


 自分の周りの全ての眼差しを、信じられなくなっていったのだ。


 張り紙の頻度は次第に高くなっていった。母一人では回収しきれなくなり、街の人たちにも見つかるようになっていった。

 町内会でも問題になったらしく、回覧板にも「怪文書が出回っている」と注意喚起がされるようになった。


 徐々に書かれている文面は具体的に、露骨になっていき、わかる人間が見れば母のことだとわかる書き方に変わっていった。

 町内にも張り紙が誰のことを非難しているのか知れ渡るようになり、母は痩せていった。


 そんな時、助けになってくれたのが、あの駄菓子屋の加瀬さんだった。僕も母と時々、お菓子を買いに行っていたので、その頃から顔見知りだったのだ。

 加瀬さんは自分でも積極的に張り紙を見つけては、剥がしてくれていた。道で母を見かけると、はげましたりもしてくれた。

 僕にはおばあちゃんと呼べる人が親戚にいなかったから、当時から加瀬さんによく懐いていた。


 けれど母は、積み重なっていく張り紙の重みに、押し潰されていった。

 家でイライラしていたり、塞ぎ込んでいることが多くなった。小学校低学年の僕にはどうすることもできず、あの頃はとにかく、辛かった。


 少しずつ、小学校でも張り紙の噂が僕の耳にすら入るようになっていった。

 クラスメートたちは親から聞かされたのか、その貼り紙は僕の母を指しているのだ、と話して、笑っていた。僕も少しずつ、暗い気持ちになっていった。

 当時、カタルはそんな事情を知ってか知らずか、頻繁に家に招いてはゲームやおもちゃで遊ぶのに誘ってくれた。その時間だけ、僕は幸せになれた。


 その後、張り紙が貼られ始めて半年ほど経った冬のある日、母は家に帰ってこなくなった。

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