第七話
上下すら分からないふわふわとした感覚。
夢と現実の間、意識が完全に浮上する前のほんの一瞬。
無機質なアラーム音が聞こえる。
それはまるで水中で鳴っているかのようにくぐもっている。
ピピピピ……ピピピピ……ピピピピ……ピピ、バシッ!
考えるより先に右手が目覚まし時計を叩いた。
もそもそと布団から抜け出し、洗面所で粘ついた口内をすすぐ。
鏡を見ながらぼさぼさの髪を撫で付けたところでぴたっと動きが止まる。
(何か忘れているような気がする)
きっと眠っている時に面白い夢でも見ていたのだろう。
そう自己完結させ、大きめのスリッパを引っ掛けた足で階段を下りた。
ジャッっと油が熱される音とコーヒーの香りがダイニングからやって来る。
母は朝食を、父は朝のコーヒーを用意するのが我が家のルーティーンだ。
「おはよ」
そう言いながらダイニングへと足を踏み入れる。
「おはようユキちゃん」
「おはよう、ひどい寝癖だな」
父のデリカシーのない指摘を無視して食パンの袋をバリッと開ける。
「あ、これ四枚切りじゃん。六枚切りがいいっていつも言ってるのに!買ってきたのお父さんでしょ?もう!」
そう言いながらユキが父を睨むと、きょとんとした顔をされる。
なんだその表情は、と思っていると、後ろから母の声が掛かる。
「何言ってるのユキちゃん、マナちゃんが四枚切り好きだからお父さんが買ってきてくれたんでしょ?」
切らすとあの子煩いからね、という母に、思わず「は?」とも「え?」とも聞こえる呻き声のような音がもれる。
言われた言葉の意味が分からない。
困惑するユキの耳に、聞きなれない声が聞こえる。
「おはよー!見て見てお姉ちゃん、新しいスニーカー!今日学校に履いてくんだ〜!この服に合うかな?」
「こら愛佳、食べ物があるところに靴を持ってくるんじゃない」
「新品だからいいじゃーん」
目の前の見知らぬ少女が、当たり前のように自分の妹の名前で呼ばれている。
当たり前のように父と会話をしている。
いつの間にか靴を置いてすぐそばまで近寄って来ていた少女が、立ち尽くすユキの顔を覗き込む。
「お姉ちゃん、どうしたの?もしかしてまだ寝てる?」
くすくすと笑うその笑い方は、九つで時を止めた妹の笑い方とそっくりだった。
父に愛佳と呼ばれた少女は、ユキの目をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「あのねお姉ちゃん、私お姉ちゃんに言い忘れてたことがあるんだ」
「い、言い忘れてたこと……?」
思わず少女の言葉を復唱する。
「私があの男に刺された時の事なんだけど」
「っ!」
ユキは息を飲んだ。
それと同時に、全身にぐっと圧力がかかる。
まるで深海からサルベージされているような感覚だ。
気が付くとそこは自宅のダイニングではなく、真っ暗で何も無い空間だった。
ユキは思い出した。
(そうだ、私マナちゃんのために異世界に行ったんだった)
先程までの幸せな夢を早く忘れるように、ユキはかぶりを振った。
見覚えのある九つの頃の姿に戻った妹が、狼狽えるユキを無視して話を続ける。
「あの日、確か空にほうき星がかかっていたの。真っ赤なほうき星が」
「え?」
「私の魂が封じられた短剣を探してって言ったでしょ?でも唯一の手掛かりを伝え忘れちゃって」
「そのほうき星が手掛かりなの?」
ようやく冷静になり始めたユキは妹に問いかける。
「そう。あの短剣は半分とはいえ妖精の魂を取り込んでいるの。きっと周りの環境や生き物に様々な影響を及ぼしているはず」
「例えばどんな?」
「それは分からない。でもきっと何かが起こっているはずなの。あの日見たほうき星は、確か数百年の周期で見られるものだったと思う。だって以前も見たことあるもの」
「つまり、そのほうき星が観測できた年付近から存在する短剣や超常現象を調べればいいってわけね?」
合点がいったとユキは頷く。
「そういうこと」
幼い妹が満足気に微笑むと同時に、ぼろぼろと暗闇が崩壊し出す。
暗闇の隙間から射し込んだ光を浴びながら、妹は姉に向かって満面の笑みを浮かべる。
「お姉ちゃん、夢に割り込んじゃってごめんね!偽物でも、ほんの一瞬でも、久しぶりに家に帰れて嬉しかった!ありがとう!」
大人びた口調と表情から一変、無邪気に笑う妹に返事をする暇もなくユキの意識はそこで途絶えた。