行くべきか、行かざるべきか
1.出会い
大森凌一が彼女のことを見かけたのは12月の最中だった。
大学の帰り道、いつものように駅中の本屋に立ち寄って、雑誌のコーナーをうろついていると、少し離れた所にあるテーブルと椅子が設けられたスペースが目についた。
そこに彼女がいたからだ。彼女は多くの人が横並びになっている椅子に座り、静かな佇まいで本を机の上に置いて読んでいた。
彼女の横顔を見るなり、凌一はすぐに引き込まれてしまう自分に気付いた。むろん、これまでも美しい人を見ると、つい視線を向けてしまうことはあったが彼女は凌一にとって特別だった。肩までかかった艶やかな黒髪と、透き通るように白い肌が印象的で、膝までかかった白いロングスカートが何処か控え目な印象を与えている。そして、その控え目な雰囲気が、息を呑むほど端正な目鼻立ちをさらに引き立たせているように見えた。凌一はその場に立ったまま、思わず彼女に見入ってしまった。彼女が座っている席の両サイドには、着古されたスタジャンを着た若者と、スーツ姿のサラリーマンがいた。しばらくしてサラリーマンが席を離れたが、すぐにその席は埋まってしまった。
凌一は仕方なく雑誌のコーナーに戻り、適当なスポーツ雑誌を手にとってパラパラと読み始めた。しかし、そこに書かれた文字や写真は頭の中に入ってこなかった。先ほど見かけた彼女の印象が、頭からこびりついて離れずにいた。それどころか、体全体が熱を帯びているような感覚にさえ陥っていた。
凌一はどうすることもできず、その場を離れ本屋を後にすることにした。
本屋を離れ、帰宅ラッシュで混雑した電車に乗り、みぞれ交じりの冷たい雨が降る中、自転車に乗って一人暮らしをしているマンションに帰ってからも、凌一はふと彼女のことを思い返してしまっていた。
それほど彼女は美しく、その慎ましい佇まいが凌一の脳裏に焼きつかれていた。
2.大学生活
来年で四年目を迎える都会での大学生活は、今のところお世辞にも華やかなものではないと、凌一は感じていた。授業は真面目に受けていたが、さして友人がいるわけでもなく、彼女はいない。基本的に一人で行動することが多く、ただ学校に通うだけの生活をしている凌一にとって、青春を謳歌しているとは言い難かった。
凌一は午後にアルバイトを入れている関係で、午前中に集中して授業を入れてこなすようにしていたが、ここ数日の間、精神的にも肉体的にも疲れがたまっているせいか少し具合が悪く、授業が身に入らないことがしばしばあった。体が鉛のように重いのだ。
冬になると外と室内の寒暖の差が激しくなるため、元々体の弱い自分はその影響を受けてしまい、体の調子が悪くなってしまうのだろう。
「おーい、大丈夫か?」
授業が終わり教室の外に出ると、ライオンのように外はねした茶色の長髪に、がっしりとした体型をした権田が声をかけてきた。
「おう」
「風邪でも引いたのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、何だか調子悪くて」
「バイト疲れか?」
「そうかもしれない」
凌一は権田と並んで歩きながら、そう答えた。
「顔色わるいぞ」
「ああ、でも大丈夫だよ」
「そっか」
凌一の返答に、権田は少し安心した表情を浮かべた。ダウンジャケットの上からでも分かる体の厚みに、小麦色の肌。まるで獣のような雰囲気を漂わせる権田は、ポケットに手を突っ込んだままニッと笑ってこっちを見つめた。
「お前、冬休みはどうするの。暇だったら、俺たちと遊びにいこうぜ。部会で飲みやイベントやる予定だからさ」
「あ、休みはバイトが入ってるから無理だと思う」
「ずっと空いてないの?」
「ごめん、多分無理だわ」
権田は中学時代からの親友で、高校まで同じサッカー部で同じ釜の飯を食べる仲だが、大学に入ってからはすっかり別人になり、青春を謳歌しているようだった。時折、音楽関連のイベントに誘ってくれたが、凌一には肌が合わず、断ることにしていた。
「さそってくれたのに悪いな」
「おー、別にいいよ」
陽気な表情をして権田は答えた。
青南大学内の中央広場に出ると、多くの学生たちで賑わっていた。もうすぐクリスマスや正月を控えているせいか、明るい雰囲気が漂っていた。二週間前に起きた恐ろしい事件のことなど、皆すっかり忘れてしまっているように見えた。
「そういやさ、彼女にはもう声はかけたんだろ?」
「あ、ああ」
「おー、よく実行したなー!」
権田はかなり感心した様子で、こちらを見ていた。自分の言うとおり実行してくれたことがうれしかったようだ。
二人で並んで歩いていると、遠くから権田を呼ぶ声が聞こえてきた。声の方を見ると権田の仲間たちのようだった。権田はその声に反応した後、凌一に目線を向けた。
「悪い。じゃあ、またな」
権田は陽気な表情のまま足早にその場を去って行っていってしまった。
凌一は帰りの電車の中で権田との会話を思い返していた。権田の言っていた彼女とは、藤沢由梨子という女性のことだ。由梨子とは、凌一が駅ビルの本屋で見かけた女性であり、彼女が自分と同じ大学に通っていることを知ったのは、大学の図書館に足を運んだときのことだった。
凌一は来年の卒業論文に向けて、民俗学について研究する予定を立てていた。凌一は祖父の影響で、柳田國男の書籍に影響を受けており、その資料を集めるためには大学図書館に行く必要があった。
凌一が大学図書館で再び由梨子を見たときも、遠くからでも目を引くほどキレイだった。彼女もまた調べ物をしているらしく、週に数回のペースで図書館で作業をしているようだった。女性関連に詳しい権田も、彼女の名前は知らないようだったが、凌一の話を聞いて彼女に声をかけるべきだとアドバイスしてくれた。
「そこまで気になっているなら、話しかけてみろよ」
同じ大学であること、いつも一人でいて、穏やかそうな雰囲気ならば、大丈夫だと権田は話した。
「いいんだよ別に。どう思われたって。声をかけてみることが大事だよ」
権田のアドバイスに従い、凌一は勇気を出して由梨子に声をかけた。
彼女は自分が想像しているよりもやさしく、驚くほど気さくな女性だった。由梨子は凌一と同じように本を読むのが好きで、彼女が図書館で読んでいた自助論は凌一も所有していたので気が合うと思った。
「僕もこの本好きなんですよ」
嘘を言っていると思われるかもしれないが、本当のことをそのまま話したら、
「本当ですか?」
彼女はまるで疑いのそぶりもみせず、大きな目を丸くさせて驚いてくれた。とにかくその本について思いついたことを話すと、彼女は熱心に聞いてくれた。彼女は低姿勢であり、運よく会話が盛り上がったおかげもあり、凌一は勢いにまかせて連絡先を交換してもらうことにした。今までの自分では考えられない行動だった。
「いいですよ」
由梨子はそう言って、連絡先を教えてくれた。後で知ったことだが、彼女も友人が少なく、一人でいるのを好む一方で、他者を拒むタイプの人間ではなかった。凌一にとって理想の女性といえたが、落ち着いた雰囲気を兼ね備えているせいか、思っているほど目立たない女性なのかもしれないと感じていた。
図書館での再会以降、凌一は彼女とさらに打ち解けられるようになり、たまに会っては気さくに話せる間柄になっていった。
3.カウセリング
「そんな豪華な方の文字じゃないですよ」
学校からすぐ近くの公園内で、昼食を食べながら由梨子は笑った。
「それじゃ、澤じゃなくて沢でいいの?」
凌一がメモ帳に書きながらそう言うと、由梨子は笑顔でうなずいた。彼女が笑っていたのは、凌一が『藤沢』を『藤澤』と間違えて携帯に入力してしまっていたからだった。
今日は天気が良かったので、凌一は由梨子を昼食に誘っていた。本当は飲食店で食べる予定だったが、由梨子の方から公園にしたいと言ってきたのでそうすることにした。彼女とは同じ大学だが学部が違うので、通う建物は別の場所に存在する。凌一は文系で由梨子は理系。大学図書館は理系の建物にあり、今日はその図書館に用があるという理由で、凌一は電車に乗り継いでここまで来ていた。
広々とした公園内のベンチに座って由梨子を見ると、首に巻いたストールや、フリンジの入ったカットソーはとてもお洒落で可愛らしかった。どこか控え目な色づかいも、彼女らしくて好感が持てた。
凌一が近場の弁当屋で買った弁当を開けようとしたとき、彼女が心配そうにこちらを覗き込んでいるのが分かった。
「顔色あまり良くないようですけど大丈夫ですか?」
「いや、全然大丈夫です」
凌一はそのつもりはなかったが、自分でも気づかぬうちに、疲れが顔に出しまっているようだった。この後、バイト先のIT会社で働く予定があり、そのことを考えて憂鬱になっていたのは事実だ。元々、時給が高いことと、社会経験の一貫として携帯関連の会社にWEB制作のバイトとして入ったが、そこは自分が想像するよりも酷い世界で、凌一はある種のショックを受けていた。
「疲れているように見えますよ」
由梨子は心配そうに凌一を見つめている。
「最近バイトが忙しくて」
「そんなに働いてるんですか?」
「はい。色々やらなきゃいけないから大変で」
「大変ですね」
「いや、自分で選んだことなので。休みもあるし、どっちかというと精神的にまいってるのかもしれないです」
「そうなんですか?」
「そんな気がする」
「もしよければ詳しく話してくれませんか?」
由梨子は穏やかでありながら、真っ直ぐな目で凌一を見つめていた。本気で凌一のことを心配してくれているようだった。由梨子の目はまるで彫刻のように彫が深く、見つめられると心臓の鼓動が高鳴るのが分かった。それに、こちらの心の中が見透かされている、そんなような気がした。
由梨子からは彼女が医学部に通い、精神科医を目指していることは聞かされていた。そのせいか由梨子は、人の話を聞くことが好きで、苦に思わないタイプの人間だった。凌一は本気で心配してくれている由梨子を見て、正直に心の内を話すことに決めた。
「仕事をしていて嫌になってしまうことがあって」
「嫌になる?」
「人間関係というか、僕はアルバイトで広いフロアの一番奥の席にいるから、全体を見渡すことができるんだけど。僕自身は、バイトだからそれほど多くの人とは関わらないけど、最近週五日で働くようになって、色んなことが見えてきたというか」
「五日も働いてるんですか?」
「大学の授業もそれほどないし、時給がいいですからね。後は、今勢いのあるIT会社だから、色々参考になるんじゃないかと思って」
由梨子は小さくうなずき、話を聞いている。彼女は凌一を見つめたまま、口を開いた。
「それで色んなことが見えてきてしまった」
「そうですね……」
凌一が由梨子を見ると、体をこちらに傾けてくれたまま、先ほどと変わらない真っ直ぐな目でこちらを見ていた。そんな姿を見て、凌一は吸い込まれるように自分の思いを彼女に話した。派遣社員が名前で呼ばれることなく酷い扱いを受けていること、離れた場所からでも分かる上司のパワハラ、自分だけが正しいと思い込み高圧的な態度を取る上の人間、表面的な笑顔を見せながら不都合が起こると怒鳴りだす社員、常に苛立っている女性社員。
ただの良い人は潰され、仕事ができないとみなされれば、見下される。会社に通うようになり、これまでの学生生活で味わうことのなかった現実を、凌一は由梨子に話した。
「優秀な人や、精神的に強い人なら、どんな状況でもやっていけると思うんですよ。でも自分の場合はそうじゃなくて。社会人としてやっていけるか不安になってしまって」
「そうですか」
凌一の話に、由梨子は共感するようにうなずき、真剣に聞いてくれる。凌一はそうやって言葉を吐きだすうちに、自分の心がラクになっていることが分かった。
「頭が禿げてるくせに、インテリで何を考えてるか分からない人がいるんだけど、心の中でぬらりひょんって呼んでやってて。海坊主のくせにって」
凌一が冗談を言うと、由梨子は笑顔を浮かべた。
最近、民俗学の一貫として幽霊や妖怪のことを調べる機会があったが、社会に潜む大人こそ化け物ばかりであり、凌一はよく化け物を擬人化していた。
「すごい例えですね」
凌一の冗談に、由梨子はまだ頬をゆるませて笑っていた。その表情を見て、凌一は彼女に惹かれている自分にはっきりと気づいた。凌一は由梨子に一目ぼれし、その内面に触れることで、より一層彼女のことが好きになっていた。
「というかごめんなさい。自分の話ばっかりしちゃって。弁当が冷めちゃうね」
凌一がそう言うと、由梨子は首を横に振った。
「ううん、すごく勉強になった。私はまだ社会経験をしてないから。参考になります」
由梨子の言葉に、凌一は安堵した。それにしても、こんなに何も考えずに心の内を話したのは初めてのことだった。
公園内は冬にしてはめずらしいほど青い空が広がっており、日が差し込んでいる。凌一は弁当を食べながら由梨子とファッションのことや、たわいもないことを話して盛り上がった。
4.異変
由梨子と話してから一週間が経ち、世間はもうすぐ迎えるクリスマスで賑わっていた。凌一が街中を歩いていても、煌びやかなイルミネーションが目に飛び込んでくる。大人になるにつれ、行事など意識することはなくなっていたが、季節感を感じるのは嫌いではなかった。
いつものようにバイトを終え、夜遅くに凌一が家に帰ると、酷く疲れていたのでそのままベッドに横になった。明日までにやらなければならない学校の課題が残っていたが、面倒なことをやろうという気にはなれなかった。それほど凌一は疲弊していた。
凌一は起き上がると、脱ぎ捨てていたダウンジャケットをつるし、インターネットをつけた後、帰り際にコンビニで買っていたパンとデザートを袋から取りだして食べ始めた。
以前なら、このまま図書館に通って作業をすることもあったが、それは由梨子がいたからであり、最近になって彼女が図書館に来なくなったことをきっかけに、凌一自身の足も遠のくようになっていた。
食事をしながらインターネットを見ていると、トップページには様々な最新のニュースが掲載されていた。時事、経済、スポーツ、芸能とクリックしていくが、例の事件のことは載っていなかった。
例の事件とは、今から二カ月前に起こった青南大学生行方不明事件のことである。凌一と同じ大学、学部で一つ上の女子学生が突然行方不明になったものだ。
この出来事は、いくつか気になる点があった。警察の調べでは、一人暮らしをしている女学生の部屋の中は鍵が掛けられ荒らされた痕跡はなく、荷物などは家の中にあったことが判明している。しかし、友人や両親には未だに連絡はないという話だった。
被害者の女学生は、斎藤可南子といって、凌一は同じゼミを専攻していたので、よく知っていた。直接話したことはないが、斎藤は美人と評判で、勉強ができ、上場企業の内定を決めていたことが印象に残っていた。自ら失踪することは考えにくい。考えれば考えるほど、恐ろしい出来事だと思った。
女子学生は事件に巻き込まれた可能性があるとして、一時ニュースで取り上げられていたが、日が経つにつれ、世間では事件そのものが忘れられようとしていた。
凌一がインターネットで調べると、日本では年間に10万人以上の行方不明者がいることが分かった。そんな意外な事実に驚いていると、すぐ近くに置いてあった携帯電話が鳴った。賢治からだった。
「おー、凌一。何やってんの」
「いや、家で飯食ってた」
「今から、飲み会来ない?」
「何の?」
「バイト先の人と三人で飲んでるだけど。一人コンパニオンのバイトしてる子がいるぜ」
「そうなんだ」
「どうする?」
「うーん。バイト終わりだし、時間も遅いからパスしとこうかな」
「そういや彼女が出来たんだっけ?」
「いや、まだ全然」
「告白すれば?」
「いや、そういうのはいいよ」
「純情な男だな。まー、いいや。じゃあまた今度な」
電話の向こう側からは人で賑わう声が聞こえてきている。気分を紛らわしたい状況だったが、鉛のように重たい体がいうことを聞かず、断ることにした。
「ああ、またな」
凌一はそう言って電話を切ると、再びベッドに横になった。
5.相談
朝起きると、めまいがし、いつにもまして体の疲れが取れていないことが分かった。きちんと睡眠が取れなかったせいだろうか? 生温い暖房の聞いた講義室の中で、凌一はそう感じていた。
学校の授業中も体がだるくて身に入らなかった。凌一は冬になると体調を崩すことが良くあったが、それにしても最近は特に酷かった。周囲では風邪が流行っており、熱はないものの風邪でも引いたのだろうかと、凌一は疑った。
最近、バイトのシフトを減らしてもらい、気が抜けてしまったのだろうか。いずれにしても時間の余裕ができたので、本格的に将来のこと、就職活動について考えていきたいと、凌一は思っていた。そんなことはともかく、今日は由梨子と会うことになっていたので、そのことを思うと元気が出てきた。
精神科医を目指しているという由梨子は、患者役の人がいると助かると話していたので、凌一は自ら患者役に買って出ることにしていた。
凌一は今日も、図書館に通う用があるといって、由梨子に会っていた。本当は図書館に通う必要はなかったが、彼女に会いたかったのだ。
由梨子は少し会わないだけで、さらにキレイになっているように見えた。冬の雪のように白い肌、控え目な色づかいの服装。肩まで伸び、真ん中で分けた黒髪は相変わらず似合っていた。端正でオリエンタルな彼女の側にいると、体が熱くなってくる。
それにしても――。昔から女性にはトラウマめいた思い出しかなく、勝手に恐怖心を抱いていたが、同じ学校とはいえ由梨子のようにやさしく、気さくな女性がいると、世の中に対する見方も変化していく。
由梨子もそんな凌一を信頼してくれたのか、この日は彼女からある相談が持ちかけられていた。相談の内容は、ここ最近、悪質な嫌がらせを受けているという話だった。
「例えばどんな?」
身を乗り出して凌一がたずねると、由梨子は少し困った様子で答えた。
「ここ最近になって、家の郵便ポストに大量のチラシが詰め込まれていたり、自転車が何回もパンクさせられていることがあって」
由梨子からは、それ以外にも携帯電話や自宅の電話の留守番電話に、数百件のいたずら電話が吹き込まれているという話も聞いた。
由梨子は学校から比較的近い、東京都下にあるマンションに一人暮らしをしており、警察には相談したが、今の状況ではまだ動けないという話だった。
「それで、ちょっと気になっていて」
不安げな表情で、由梨子は言った。
凌一は言うまでもなくストーカーの仕業だと思った。凌一には少し歳の離れた姉がいるが、一緒に住んでいた頃、男性につけ狙われた経験があり、男が思っている以上に女性が様々な被害を受けているのは良く知っていた。由梨子の場合は、その容姿を考えればなおさらのことだ。その話を凌一が由梨子にすると、彼女の表情は和らいだ。
大学構内の自転車置き場に行くと、所々に傷のついた由梨子の自転車があった。大学でパンクされたことはなく、既にパンクは修理済みだと彼女は話した。
凌一はそんな彼女の様子を見て、言葉を選びながら続けた。
「やっぱりこういう場合、もう少しだけ様子を見てみて、やめないようなら引っ越すのが最善だと思います。実際のところ、それが一番の解決法だと思うし、最悪の状況も考えておかないと」
凌一の脳裏に、数ヶ月前に起こった女子大生行方不明事件がよぎっていた。もし、犯人が同一人物で、彼女に接近していると思うと身ぶるいがした。本音を言えば、明日にでも引越しをして欲しかった。
「やっぱり、そうですよね。引越し」
由梨子は納得するように答えた。由梨子も引越しのことを考えていたことが分かり、凌一は安堵した。とはいえ、現実的にすぐ引っ越すことは簡単ではなく、多少なりとも時間はかかるだろう。
「引っ越しまでの間に、もし少しでも何かあったら、ウチを利用して下さい。少し前まで姉貴と住んでいて、一部屋余っていて。あと、僕が相談したことの証明者になるので、もう一度だけ警察に行きましょう」
そう言うと、由梨子は凌一の目を真っすぐと見つめ、笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。ごめんなさい、何か迷惑をかけてしまって」
「いや、全然」
凌一はそう言って首を振る。迷惑どころか、自分を頼ってくれていることがうれしかった。彼女を守るのは当然のことだと、凌一は感じていた。
6.疑心暗鬼
世間は冬休みに入り、あらゆる教育機関も休みに入った。これからクリスマスが過ぎ、月末には新しい年を迎える。凌一が通っていた学校や図書館も休みになり、その関係で由梨子と会う機会も減っていた。
由梨子からの連絡は、凌一が思っている以上に少なかった。凌一が色々と行動をしてくれたおかげで、一時的にいたずらも起こらなくなったのだという。
凌一は由梨子に相談されたすぐ後、彼女のマンションまで行って、その周辺の見回りを数日かけて行った。マンションの自転車置き場、ごみ捨て場、各階のフロア、それにマンションを取り囲む道路を大げさに歩いて回った。
もし捕まえたらタダでは済まさない。怒りに似た感情を持って、凌一は探索を行った。むろん、恐怖はあったが、それ以上にストーカー野郎に自分の存在を示し、脅してやりたい怒りの気持ちの方が上回っていた。
丁度、由梨子とマンションの近くで話しているとき、凌一は遠くでこちらを不審な様子で眺める男たちを発見した。凌一が手に持っていたバットを持ってその男らに猛進すると、彼らはそれに気づき走って逃げた。
凌一が追いかけていくと、男たちは大きな寮の中に逃げていった。その寮は凌一の通う青南大学の学生寮だった。中に入ろうとすると管理人に呼び止められたので、ことの説明をして強い注意を促した。管理人の方から話をしてみる、ということになり、仕方なく凌一はその場を去った。
そんな行動が功を奏したのか、それ以来、由梨子へのいたずらは起こらなくなったという。あの男たちが犯人だったかどうかは定かではないが、どこかでストーカーは凌一のことを見ており、一時的に手を引いた可能性があると思った。
いずれにせよ、由梨子は引っ越しをすると話していたが、彼女の方から凌一に連絡が来ることはなかった。
凌一は改めて考えた。結局、こちらから一方的に誘っているだけで、人が良くて断れない由梨子はそれに付き合ってくれていただけかもしれない。
今日はクリスマスだった。凌一が窓の外を見るとみぞれ交じりの雪が降っていて、その雪は積もることなく地面に溶け出していた。窓際では冷たい風が入り込み、冷気を漂わせている。
よく考えてみると、凌一は由梨子に彼氏がいるかどうか聞いたことがなかった。ひょっとしたら彼女には彼氏がいて、一緒に過ごしているのかもしれない。その可能性は大いにあると思った。
または――。そんなことを考えながら、凌一は作業を進めていた。作業とは少し前から始めていた民俗学についての卒論の作成である。
凌一が民俗学について深く調べていったとき、どうしても気になることがあった。それは『白い女』と呼ばれる、江戸時代の有名な怪談話に関してだった。
凌一は積み重ねられた書籍の中から、江戸時代にまつわる都市伝説の本を手に取り、ページをめくる。白い女と書かれた項目には以下のことが書かれていた。
「元禄十五年。生まれながらに体に障害を持ち、それに加えて己の醜い顔に悩み苦しみ、自殺を図った人物。以降、学校、仕事場において或るときは友として、或るときは恋人として成りすまし、美しい姿で若人に近づき交流を図ろうとする。女が若人に近づく理由は二つあり、それは彼らの養分をえること、そして彼らを家に招いてあの世に連れていくことである」
凌一がこの文章を読んだとき、反射的に由梨子の顔が浮かんだ。自分には関係ないと思う一方、シチュエーションが似通っていたので、少し不気味に思えた。
凌一が何より気にしていたのは自分の体の具合だった。ここ最近、酷い頭痛とめまいが続いており、体も重く、作業がはかどらない。自分の体が生気を失い、まるで使い物にならない棒であるかのような感覚があった。病院に行っても異常はないと言われ、ためしに精神安定剤を飲んでもまるで効果がなかった。特に最近はその症状が酷く、何もやる気が起こらず、体を動かすのも精一杯に思うこともあった。
自分は一体どうなってしまったのだろうか? そんなことを考えたとき由梨子の顔が思い浮かんでしまった。こうして体調を崩したのも、彼女に出会った頃からだった。
しかし、由梨子は自分から声をかけた女性であり、彼女は自分と同じ大学生である。そして、彼女の佇まいは人間の在るべき姿を模倣するものであり、異常者ではないことは凌一自身がよく分かっていた。
とにかく体が鈍く、凌一は作業をやめてベッドの上に横たわると、近くに置いてある携帯電話が鳴った。賢治からだった。
「おー、何やってんの?」
凌一が電話に出ると、賢治は陽気な声で続けた。
「今日クリスマスだろ? 朝まで音楽パーティをするつもりなんだけど来る?」
「いや」
「どうした? 具合が悪いのか?」
「ああ、ちょっとな」
「ずっと家にいるから、そうなるんじゃねーの」
「確かに」
「外の空気を吸った方がいいぞ」
「そうだな」
「可愛い女の子も沢山来る予定だし、チケットも安くするから来いよ」
賢治の明るい言葉を聞いて、少しだけ元気が出た。確かに賢治の言う通り、無理にでも外に出た方がいいのかもしれない。
「分かった。これから行くよ」
「おお、まあ無理するなよ」
凌一は電話を切ると、ベッドから起き上がりダウンジャケットを着て部屋を出て行った。
――それから先のことは覚えていない。
凌一は外出先で倒れ、賢治の介抱によって救急車に乗せられ、病院に運ばれた。高熱があり体が弱っていたらしく、病院先で点滴を受けて意識を取り戻したという。
「おい、お前どうしちまったんだよ?」
久しぶりに会ったときの賢治の言葉が、印象に残っていた。
賢治と会ったとき、凌一の頬はやつれ、顔は青白く、まるで死人であるかのような表情をしていたらしい。
どうしてこんなことになってしまったのか。凌一は病室の中で、ぼんやりと天井を眺めながら、これまでのことに思いを馳せていた。
7.深愛
再び由梨子に会ったとき、彼女は細身のジーンズに黒いパンプスを履き、首にはストールを巻いていた。カジュアルで女性らしいそのスタイルが、凌一の目を引いた。由梨子は相変わらず謙虚な佇まいをしていたが、その秘めた美しさはこちらまで伝わっていた。
今日は冬休みのあいだで唯一、大学図書館が開かれているせいだったこともあり、由梨子の方から凌一に会いたいという連絡があった。彼女は引っ越しを済ませたらしく、そのことを凌一に報告したかったのだという。これ以上、凌一には迷惑をかけられないと思い、クリスマス前から一人で引っ越しの作業をしていたらしい。
大学図書館を出た先にある広場のベンチで、凌一は由梨子から色々な話を聞かされた。
「本当にありがとうございます」
由梨子へのイタズラはすっかりなくなり、また住居を変えたことで気分がリフレッシュできたと彼女は話した。
「でも、全てうまくいってよかったね」
凌一がそう言うと、由梨子はくしゃっとした笑顔を浮かべた。そんな由梨子の笑顔を見て、凌一は彼女への想いが抑えられなくなっていることに気づいていた。凌一は改めて由梨子と話すことに幸せを感じていた。
凌一が由梨子のことを見ていると、彼女から色々迷惑をかけてしまったお礼に、もしよければと付け加えてから、彼女の新居に来ないかと誘われた。凌一が以前、由梨子に鍋が好きであることを話していたことを覚えていたらしく、一緒に食事がしたいという話だった。
その話を聞いて、気持ちが波立つのが分かった。白い女――。あの怪談話が少しだけ脳裏をよぎったが、そんなことはどうでもよかった。自分が想いを寄せる女性と、さらに打ち解けられる機会だと思った。凌一は二つ返事でOKする。
由梨子はまだ図書館に用があるらしく、二日後に再び会う約束をして、凌一はその場を離れ、帰る方向へと向かっていった。肌寒い風が吹いていたが、自分でも体温が高まっていることが分かった。
凌一が校門の出口へさしかかろうとしたとき、後ろの方から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。振り向いたら、そこには賢治がいた。
「よう」
「賢治?」
「ちょっと、図書館に用があってな。お前は?」
「俺もだよ」
「おお、そうか」
たわいもない会話をしたあと、賢治は凌一の容態を心配してくれた。ただ、賢二にいつもの明るさはなく、少し様子がおかしかったので凌一はたずねた。
「どうしたんだよ?」
凌一がたずねると、賢治は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「いや、あのさ」
「なんだよ?」
「お前、さっき広場のベンチで一人で座っていただろ?」
「?」
「一人でずっと誰と話してたんだよ?」
「誰とって――」
背筋が凍っていくのが分かった。そして凌一は、ここで確信した。あの怪談話は本当だったことを。それとも、自分は幻覚を見ているのだろうか?
心配そうに見つめる賢治を尻目に、凌一は茫然とするしかなかった。
凌一が放心状態で自宅のベッドに横になっていると、目の前のテレビでは二日前の青南大学女子学生行方不明事件の犯人が捕まったことの詳細が報道されていた。
犯人は隣の部屋の住人の男。男は女学生を殺害し、部屋の中に遺体を隠していたことが明らかになっていた。男の犯罪はこれだけで、隣人の女子学生に好意を抱いていたことが画面内のアナウンサーによって読まれていた。
このニュースで、由梨子にいやがらせをしていた人間が、この殺人犯ではなかったことが判明した。凌一はそう感じながら、テレビを消して考えた。いや、そもそも彼女は本当に嫌がらせを受けていたのだろうか。
あらゆることが頭の中を駆け巡り、凌一は仰向けになって目をつむった。部屋の外からは灯油を運ぶ車の笛の音が聞こえてきていた。窓の隙間からは外の風が漏れ、部屋全体が冷気を帯びていた。凌一はしばらく考え、そのまま立ち上がると、手ぶらの状態で部屋の外へと出て行った。
日も暮れようとした頃、凌一は由梨子が前に住んでいたマンションのすぐ近くにある学生寮に向かった。
凌一はあの時、遠くで凌一と由梨子を眺めていた男たちに会おうとしていた。錆びついた門を開け、右手に位置する管理人室に向かい、そこで管理人に事情を説明して、男たちに会わせてもらえることになった。この学生寮は、サッカー部専用の寮らしく、建物の中にはスポーツ関係の用具があちこちに置かれていた。
男たちは手ぶらの凌一に安心し、あの時のことについて話してくれた。凌一はそこである種、自分が予測していた内容を聞かされる。
「目立つ場所で、あなたが一人で誰かと話していたから、大丈夫かなあの人って。おかしい人なんじゃないかって」
男たちの一人で、サッカーのユニフォームを着た男がそう話した。
「そしたら急に、バットを持って追いかけてくるから。やばいと思って逃げたんですよ」
虚をつかれた様子で男はそう答えた。凌一が謝ると、男たち安堵の表情を浮かべた。
「いや、別に大丈夫ですよ」
その言葉を聞いて、凌一は改めて確信した。由梨子は自分にしか見えていなかったことに――。そのことが信じられなかった。
凌一は由梨子のことを考えていた。控えめな佇まい、謙虚な物言い、カジュアルで抑えめな服、真っ直ぐで大きな瞳、端正でありながら、ときおり見せる笑顔。凌一は、それでも改めて由梨子が好きな自分に気づいていた。
その後、管理人の話で、由梨子の住んでいたマンションの部屋は、数年前に一家心中が行われた場所であり、誰も住んでいなかったことを知らされる。自転車がパンクしていたのも、郵便ポストに大量のチラシが入っていたのも、留守番電話が無数に入っていたのも、そのためだった。
その夜。自宅に帰り、風呂の中でリフレッシュした後に、凌一は改めてこれまでのことを考えた。そして、心の中で迷っていた。自分はどうすべきなのか――。部屋の中は、高めに設定し直したエアコンの暖房で熱気を帯びていた。
凌一は由梨子に強く惹かれていた。その外見の美しさだけでなく、内面の美しさに。謙虚な佇まいに。その気持ちはいっそう強くなっているといってもよかった。目をつむると彼女のやさしい笑顔が浮かんできた。
そんな彼女であれば、話せば分かってくれるだろう。凌一はもう一度由梨子に会いたかったし、彼女の家に行って話し合う必要があると感じていた。
それでも――。凌一の頭に『白い女』の話が頭をよぎり、賢治にかけられた言葉が蘇ってきた。理性では分かっていたが、それでも心と体が彼女を求めていた。もう一度会いたいと思った。どんな状況であれ、自分にとってここまで人を好きになったことはなかったからだ。この先、自分は一体どうすればいいのだろうか。
薄暗く、熱気を帯びた室内で、凌一の心は揺れ、葛藤していた。
行くべきか、行かざるべきか――。
目の前のカーテンを見ると、隙間から明りが漏れてきているのが分かる。ベッドの近くに置いてある置時計を見ると午前四時を過ぎていた。
(了)