03
それから、数時間後。
「むにゃむにゃ……。ああ、ウィリア……。ダメよ……。そこはもっと……乱暴にしてくれなきゃ……」
本人の部屋で、本人を目の前にしても、アレサは自宅と全く変わらない残念な寝言をこぼしていた。
腐ってもお嬢様である彼女は、基本的には早寝早起きの規則正しい生活を送っている。だからなのか、勉強会が進んで夜もふけてくると居眠りをすることが多くなり、ついには完全に熟睡に入ってしまったのだ。
この部屋の主としては、勝手にやってきておかしなことを言い続ける彼女を、部屋からつまみ出す絶好のチャンスと言えそうだったが……。
「すぅ……すぅ……」
当のウィリアも、アレサの隣で安らかな寝息をたてていたので、それはできずにいた。
六畳一間の部屋の中央をカーテンを渡して二等分し、備え付けのベッドがあるほうには部屋の主のウィリアとアレサと、メイドのメイ。
反対側には、トモがクッションを並べて寝ている。
最初こそ、「今日は徹夜で勉強会だ!」などと意気込んでいた四人だったが……結局、睡魔には勝てなかったのだ。一応年頃の少女であるアレサやメイに夜道を帰らすのも危険ということもあり、「徹夜の勉強会」は結局、そのままただの「お泊まり会」になってしまったのだった。
夜空には、大きな赤い月と無数の星々がきらめいている。辺りに街灯などは何もなく、それらが今の唯一の明りだ。
時刻は、すっかり真夜中と言える時間帯。人間はおろか、あらゆる動植物も活動を停止して眠っているのではないかと思えるような完全な静寂が、世界を支配していた。
そんな中、漆黒の部屋の中をゆっくりと動く者があった。
アレサの家のメイドの、メイだ。
彼女は、そよ風のように滑らかな動きで、少しの音もたてずに、部屋の外のベランダに出る。そしてベランダの木製の手すりに体を預けると、おもむろに懐から取り出した金属の管を口にくわえた。
「ふぅ…………」
メイが息を吹き掛けると、装飾を抑えたシンプルなその細い管の先端が、うっすらと青く光る。管の中にある魔法石が、彼女の呼気に反応しているのだ。
それは、回復魔法を付与した魔法石が入った、回復アイテムの一種だった。
管を口にくわえて息を吐くと、その呼気に反応して、管の中の魔法石の効果が霧状のエネルギーとなって現れる。そして、その魔法の霧が使用者の呼気と混ざりあう。そのあとで使用者が管から霧を吸い込むと、自分の息と融合した親和性の高い魔法石の回復エネルギーを、効率よく体に取り込むことができるというわけだ。
呼吸をするだけで簡単に回復魔法の効果を享受できるという利便性や、その魔法伝導効率の高さが評価され、そのアイテムは、冒険者を中心に一時は爆発的に普及した。
だが、回復量の最大値を増やすにはその分その管を大きくしなくてはならず、本格的な戦闘ではイマイチ使いづらいこと。更には、人気に便乗して品質が悪い粗悪品が出回りだしたことなどが影響し、その流行はすぐに廃れてしまった。
結局、現在では一部の懐古趣味のマニアや好事家たちの間で細々と使われる程度の嗜好品となり、昔ながらの回復飲料にとって変わるまでにはならなかったのだった。
そんな、ある意味でアンティークとも言えるようなアイテムを、まるで何十年も前からそうしてきたように、メイは自然に使いこなしていた。
「すぅ…………」
管の中の魔法石から放出された回復エネルギーを吸い込み、気持ちよさそうに目をつむるメイ。今の彼女は、なにも体力を回復するためにそのアイテムを使っているわけではない。
彼女にとってその行為には、特に深い意味はなかった。ただ、眠りにつく前にそれをしないと落ち着かない。一日の終わりを意味する、ある種のルーティーンのようなものだ。
「……ふ」
管から口を離した彼女が、何かおかしなことを思い出して、静かにほほえむ。
それは、大人びていてとても美しく、しかし……それでいてどこか、寂しそうな表情だった。
「あ……」
そこで、ウィリアの学生寮の部屋から、別の誰かが現れた。
転生者のトモだ。
「あ、あの……俺……」
一人静かに魔法管を吸う大人びたメイの姿を認めた彼は、その美しさに思わず見とれて、硬直してしまった。
そんな彼の方を振り返らず、メイは静かにつぶやく。
「……起こしてしまいましたでしょうか? 申し訳ありませんでしたね」
「い、いえ! そんなことないっす!」
まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように、ドギマギするトモ。
「ただ俺、マクラが変わるとあんま寝付けなくて! それで、ちょっと目が覚めちゃってたところに、ベランダに誰かいるのが見えたから……」
「そう、ですか……」
メイはトモに背を向けたまま、充分に間を開けて言った。
「……でしたら、よければ少し、私とお話しでもしませんか? ここだけの話ですが……あなたとは、ゆっくり二人で話したいと思っていたのです」
「えっ……」
そのときのメイの言葉は、まるでトモの本心を見透かしていたかのようだった。
浅い眠りでぼうっとしていたときに、ベランダに誰かの人影を見つけて、様子を見に来たトモ。そこにいるのがメイドのメイだと分かった時点で、その用事は終了している。であれば今は、さっさと部屋に戻るのが順当だ。
しかし彼は、月明かりの中にたたずむメイの姿に魅せられてしまって、それができなかった。彼女ともっと一緒にいたい、彼女をもっと見ていたいと、思ってしまっていたところだったのだ。
彼は、そんな気持ちを隠すようにおどけた調子で、ベランダのメイの隣に並ぶ。
「え、えー、マジっすかー? へへへ、あんたみたいな美人にそんなこと言われたら、寝てる場合じゃないっすよねー。
喜んで! 一時間でも二時間でも、付き合いますよ!」
「お上手ですね。きっと他の女の子にも、そんなことを言っているのでしょうね……」
メイはそう言って、またひと口、魔法管を吸う。月に照らされた彼女の美しい横顔が、トモの瞳に映る。
彼は照れて、つい顔を背けてしまう。
「ま、まっさかっ⁉ 俺みたいな女馴れしてない童貞が、誰にでもこんなこと言えるわけないっすよ!
い、今のは、ただの本心っすから……」
「……ふ」
メイがチラリとトモのほうに視線を向けると、彼の顔が風邪をひいているかのように赤くなっているのが見えた。
どうやら、「女馴れしていない」というセリフは嘘ではないらしい。
「だ、だいたい俺って、元の世界じゃあ全然モテなかったんすよ⁉ ツルむのはいつも男の友だちばっかだったし。女の知り合いつったら、中学生の妹か、男みたいな幼なじみがいるくらいだし……。
な、なんか、この世界の女の子は俺がいたとことは感性が違うみたいで、やたらと俺に絡んできますけど……」
困惑の表情を作るトモ。
実際、彼も今の自分の置かれている状況には困惑しているのだ。
女性にモテることになれていない彼にしてみれば、知らないうちに魅了のチートを与えられても、嬉しさよりも警戒のほうが大きい。アレサが言うように、ウィリアや他のクラスメイトたちからチヤホヤされて、ただただいい気になっているというわけではないようだ。
それが分かったメイは、彼のことを「誠実な人だ」と思った。
そして、それまでの大人びた雰囲気を崩して、クスッとかわいらしい笑みをこぼした。
「い、いや、ほんとに、わけわかンねーっすよ! こんな、イケメンでも何でもない普通の男子高校生が、なんで急にこんなにモテるよーになったのか!」
「あなたがやって来た世界とこの世界では、いろいろなことが違いますからね……」
「そ、そっすよ! だから俺も、ここに来てから分かんないことだらけで、ホントに混乱してばっかで……」
「でも、変わらないこともあるでしょう……」
「え?」
驚いてトモが顔を動かすと、いつの間にかメイも、彼のほうを見ていた。
二人の目が合う。
吸い込まれるような、深い藍色の瞳。
本当に、お世辞でもなんでもなく、メイは美人だった。トモは首から上が固定されてしまったかのように、彼女の瞳から目を反らすことが出来なくなる。
やがてメイは、湿り気の多い艶やかな唇を開いて、トモに語り始めた。
「これは、ここだけの話ですが……」