02
アレサの母親が理事長をつとめるサウスレッド学園は、城下街の中でも特に中心部に近い、国王の城などの多くの重要施設が隣接する地区に位置していた。
生天目智仁の世界なら、国立の小中高エスカレーター式学園とでも言うところだ。
建設から間もないころはそこは、施設、人材、カリキュラムなどのあらゆる面で、文句なしの最高の教育機関だった。有名な政治家や将軍クラスの騎士も数多く輩出し、王家の子供たちも通うような、超一流の名門校だったのだ。
そんなサウスレッド学園が急激にその評判を落とし始めたのは、今から4、5年前ごろ。
その原因は定かではなかったが、中等部を中心に生徒の質が著しく落ちたことが影響しているという噂が、まことしやかにささやかれていた。そしてそれが、ちょうどアレサが中等部に在籍していた時期と重なることに何らかの相関関係を見出す者も、少なくはなかった。
その噂の真偽のほどはともかく。
現在では、その学園のブランドとしての価値はほぼないとまで言われるようになり、没落していたのは確かだった。
「全く、やってられませんわっ!」
そんなサウスレッド学園の廊下を、ズンズンと音がしそうなくらいに力を込めて進んでいくアレサ。周囲にいる他の生徒たちが、モンスターでもやってきたかのように、彼女を避けて道を開けていく。
「何でわたくしが、こんな目に合わなくちゃいけないのよっ! 全然納得いきませんわ! 理解不能ですわっ!」
歩きながらあまりにも大きな声を出しているので、通りすがりの生徒たちが自分に話しかけられたかと思い、彼女の方を振り返る。しかし、彼女の視線がこちらには向いていないことを確認すると、「彼女のただの独り言」だと認識して、ほっと胸をなでおろすのだった。
「貴女のせいで、わたくしのバラ色の人生が狂ってしまったんですわっ! 貴女がとんでもないことをしなければ、あいつがこの頃世界にやって来ることなんてなかったし、昨夜の内にわたくしとウィリアは結ばれていたはずなんですわ!
そ、そして……わたくしたちは同じベッドの中で……で、でへ……でへへへ…………」
もちろん。
普通ならばこんな公共の場で、こんなに大ボリュームで、こんな残念な独り言を言っている人間を、看過できるはずがない。この光景が、ただの独り言を言っている状態だと、認識されるはずがない。
しかし、アレサの日ごろの行いと、学園にとどろく彼女の名声のおかげで、その状況はすんなりと周囲に受けいれられていたのだった。
「あの残念お嬢様なら、普通だな」と……。
「……とにかく!」
そんな周囲の目になど気付かず、アレサは誰もいない方向に向かって、その独り言を続ける。
「貴女のせいでわたくしは、明らかに不利益を受けているのですわっ! ですから貴女も、ちゃんとわたくしに協力していただきますからねっ⁉」
ただ、今回に関して言えばアレサがそんなえげつない独り言を言っていたのにはちゃんとした理由があった。実はそこには、アレサにしか姿の見えなくなった、ヌル子がいたのだ。
(もちろん、理由がなくてもアレサがいつもこのくらいの奇行をしていたのは、確かなのだが)
『で、ですからぁ! 女神である私は、この世界には直接干渉できないんですってばぁ! 既にこの世界の住人になっちゃってるトモくんのことは、この世界の皆さんでなんとかしていただかないと……』
「だぁかぁらぁっ! なんでわたくしたちが、貴女の失敗のしりぬぐいをしなくちゃいけないのよっ! 貴女がうっかり能力与えすぎちゃったんだから、貴女が何とかするのが筋でしょうがっ! これ以上わたくしたちの恋路を邪魔するようなら、神じゃなくって悪魔って呼びますわよっ⁉ 国中の教会に忍び込んで、昨日貴女から聞いたことを聖書に追記してやりますわよっ!」
『や、やめてくださぁい! 私の失敗を、信者のみんなにバラさないでくださぁい!』
※
昨日の夜、アレサの枕元に現れて、ことの顛末を話したヌル子。
あのあと彼女は、アレサに対して「ある依頼」をしてきた。
『アレサ・サウスレッドさん。どういうわけだか貴女は、トモくんの魅了にかかりにくい体質みたいです。それが、性的指向が男性ではなく女性だからなのか……。それとも、女性的な繊細さが著しく欠けているからなのかは分かりませんが……』
「ちょっと!」
『まあ何にせよ。現時点で貴女は、トモくんに対する有力な抑止力になってくれそうだと判断しました。
この世界では、いまや彼は最強です。もしも彼が本気を出せば、国の一つくらい簡単に滅ぼすことができてしまいます。それはもちろん、剣術や魔法などの武力という意味もありますが……実は一番怖いのは、あの魅了能力です。あの能力があるかぎり、人間はもちろん、エルフだろうがドワーフだろうがモンスターだろうが、それが女性であるかぎり無条件でトモくんに夢中になってしまいます』
「間抜けな女神もね」
『ま、まあ……それはそうなんですけど。こ、こほん……。
と、とにかく……そんな強力な魅了で、もしも彼が世界中の女性をメロメロにしてしまったら……。本来恋人になるなるはずだった男女が結ばれず、世界中で子供が生まれなくなって、この世界の出生率はガタ落ちになる。子供が生まれないということは、この世界の生命自体がいなくなってしまうということ。待っているのは、世界の破滅です。ですから、魅了に耐性を持っているらしいアレサさんには、そんなことがおこらないように彼を見張って欲しいのです』
「はぁ!? な、何でわたくしがそんなことしなくちゃいけないのよ!」
『だ、だってぇ……ただでさえチートの件で、私は上司に目をつけられちゃったんですよぉ? そのうえさらに、トモくんがこの世界を滅ぼしちゃったりしたら……もう責任問題ですよぉ! 給料半額どころか、私、女神クビになっちゃいますよぉお!』
「だ、だからっ! 元はといえばそれは貴女の自業自得ですわよねっ⁉ 貴女があいつに余計なことをしたのが、すべての問題の元凶でしょうが! だったら貴女が何とかしなさいよっ!」
『そ、そんなイケズなこと言わないでくださいよぉ……』
今にも泣きだしそうな顔で、ヌル子は自分勝手なことをのたまい続ける。
『い、一応トモくんからは、魅了能力に関する記憶を消してあります。さすがに、自分が全ての女性から好かれる能力を持っているなんて知ってしまったら、彼の理性が吹き飛んで大変なことになりそうだったので……。上司から許可をもらって、最低限そこだけは神の力を使わせてもらいました。
だからトモくん的には、自分が女性を魅了しているという自覚はないでしょう。きっと彼としては……この世界にきたらやけにモテるようになったなー、くらいにしか感じていないはずなのです。
ですが、私が出来るのはそこまでです。あとは、アレサさんに頑張ってもらうしかないのです』
「あ、貴女ねっ! 勝手にそんなことを言って……」
『まあ私個人としては、彼がこの世界でチート無双して一大ハーレムを築き上げるところも、ちょっと見てみたい気もしますけど……うふっ』
「……ああーもうっ! この、ダ女神がぁーっ!」
※
そんなわけで。
純度100%、正真正銘混じりっけなしのダ女神であるヌル子は、様子を見るために昨日からちょくちょくアレサの前に現れるようになっていた。
ただ、彼女の姿も声もアレサにしか感じることができないような状態になっていたため、彼女と受け答えするアレサは独り言を言っているように見えてしまっていたのだ。
「ああ、もおうっ! なんでわたくしが、こんな災難に巻き込まれなくちゃいけないんですのよっ!」
そんなダ女神は、勝手なことを言うだけ言っていつの間にかどこかに行ってしまったようだ。アレサは今は彼女との会話ではなく、本当の独り言を始めている。怒りで相当興奮しているようだった。
「あのダ女神のやらかしたことなんて、そんなの、わたくしには全っ然関係ないですわっ!
わたくしにとって大事なのは、この、いつも通りの学園生活よ! 毎日毎日ウィリアと同じ教室で、朝から夕方まで過ごすという……もはや同棲といっても過言ではない……実質結婚生活とさえ言えるこの生活が、何より大事なのですわっ!
だから、あいつが自分の魅了能力でハーレムを作ろうが、なにをしようが……」
アレサとしては、ヌル子の言いなりになどなる気はなかった。そんなことより、彼女には大事なことがあったのだ。
「で、でも……」
しかし。
その「大事なこと」のことを考えると、ヌル子の言葉を無視することもできないのだった。
「もしもそのハーレムの中に、わたくしのウィリアが……。あの、かわいくて汚れを知らない、純真無垢なウィリアが……。
プリティでピュアピュアで……キラキラしたスマイルがわたくしのドキドキハートをキャッチしてやまない、あのお姫様が……。あんな野蛮で嫌らしい男に囚われてしまったりしたら……。汚らわしいハーレムの一員にされて、アレやコレや、いかがわしいことをされてしまったとしたら……。
そ、そんなの、耐えられませんわっ!
待っててね、ウィリア! あんな、ダ巨乳のダ女神に言われるまでもなく、わたくしが貴女を守ってあげますからねっ!
貴女にいかがわしいことをしていいのは、わたくしだけ! 貴女を幸せにできるのは、この世界でわたくしだけなのですわっ!
二人のスイートな未来を抱きしめて……YES、ストーキング! GO、タッチ! ですわ!」
そんな残念な妄想を垂れ流すうちに、やっとアレサは、自分の教室の前にたどり着いた。既に開始を告げる鐘は鳴ったあとで、一限目の授業が始まっているはずの時間だ。
しかし、そんなことお構いなしとばかりに彼女は教室の扉を勢いよく開けた。
「おーほっほっほ! お待たせしましたわね、ウィリア! わたくしが、やって来ましたわよ!
今日も貴女に会えてうれしいわっ!
昨日は邪魔が入ってしまってわたくしの気持ちを言えなかったけれど……今、ここでその続きを言うわね? わたくし、実は貴女のことが……」
彼女は教室の他の生徒や教師たちのことなどお構い無しで、教室に入るなりいきなり愛の告白をしようとする。しかし……。
幸いなことに、と言えばいいのか。
そのときのアレサの奇行を気にする者は一人もいなかった。そのとき教室にいた者たちは、文字通り、アレサのことなど眼中になかったのだ。
「ねーねー? トモトモが来た世界って、どんなだったなのー? あたちに教えろなのー」
幼い子供のような見た目の、ノームの少女が……。
「ふぅーん……キミ、意外と悪くないじゃん。今日さ、ウチに遊び来なよ? 二人きりで、い・い・こ・と♥️……してあげる」
娼婦をやっていると噂のある、スタイルのいいクラスメイトが……。
「ちょ、ちょっとあなたっ! 転校初日から女子生徒とこんなにくっついたりして……汚らわしいわよっ⁉ は、離れなさぁーいっ!」
ツンデレな、エルフの学級委員長が……。
さらに、それ以外のたくさんの女子生徒たちが……昨日まで空席だったはずの席の周囲に集まっていた。
「な、なんだよ、お前ら⁉ あ、あんま、ベタベタくっつくンじゃねーよ! これじゃ授業になんねーだろ!」
そこには、転生者のトモがいたのだ。
「な、な、な……」
トモを指差し、ワナワナと肩と歯を震わせるアレサ。
「な、なんであなたが……こ、ここに……? この、わたくしとウィリアの、愛の巣に……?」
「ん?」
彼女の気もしらず、トモはのんきな調子で彼女に手を振る。
「おー、誰かと思ったら、昨日夜の公園にいたおじょー様じゃん! あんたも、ここの生徒だったんだなー?」
「なんなのー? トモトモってー、アレサの知り合いなのー? じゃあじゃあー、あたちとアレサ、どっちが好きなのー?」
「へー……キミ、昨日の夜におじょー様と公園で会ってたんだー? 初対面のおじょー様といきなり屋外で……なんて。見た目によらず、意外と過激なプレイが好きなんだね……。じゃあ今夜は、私がもっとヤバイやつを……♥♥️」
「だ、だからあなたたち、もっと離れなさいってばっ! 学生同士でいやらしいことするなんて、委員長である私が許さないわよ⁉この転校生は、私が責任をもって管理するんだから……」
「あー、だからどいつもこいつも、勝手なこと言ってンじゃねーって! ほら、おじょー様もそんなとこで突っ立ってないで、こいつらになんとか言ってくれよっ!」
言い寄る少女たちと、そんな彼女たちにタジタジのトモ。
しかし、そうはいっても全力で抵抗していないところを見ると、やはり少しは嬉しいという気持ちもあるようだ。元の世界で恋人ができなかった彼にしてみれば、それは当然と言えば当然のことだろう。
ただアレサは、そんなふうにトモが普通に学園にいることが、かなりのショックだったようだ。
「い、いや、だから……。なんであなたが……この学園にいるのよ……? そ、そんなの、おかしいでしょうが……。こ、ここは……関係者以外は立ち入り禁止で……」
「え? ああ。そのことなら、大したことじゃねーよ」
相変わらずアレサの様子に気付いていないトモは、のんきに返す。
「今朝俺が、おじょー様が手配してくれた宿を出て街をブラついてたら、道端でスリにあってるオバサンがいたんだよ。で、俺そういうの見て見ぬ振りとかできないからさ。スッたやつ捕まえて、そのオバサンの前に突きだしてやったんだよね。
そしたら、なんかそのオバサン、たまたまこのガッコーの理事長だったらしくって。俺が『この世界のこと何も分かんないんすよねー』って言ったら、『じゃあ私が学校に行かせてあげる』なんつって。さっそく今日から転校生として、ここに通うことになったってわけ!」
「理事長のオバサンって……そ、それ、わたくしのお母様じゃないのよ……」
「あ、そうなの? へー、それってすげー偶然じゃん」
「な、何てことなの……。あなた、他の女やウィリアばかりでなく、わたくしのお母様にまで、手を出すなんて……」
「ん? なんかよくわかんねーけど、あんたも同じクラスなんだな? じゃあ、今日からはクラスメイトつーことだよな! あらためて、よろしくな!」
そんなことを言って、トモはまた昨日のように爽やかに親指を立てる。アレサは今にも卒倒しそうで、それにリアクションを返すことさえできなかった。
そして、そんなアレサにトドメを差したのは……やはりウィリアだ。
「あ、あの……トモくん……」
積極的に言い寄る少女たちとは対照的に、控えめにトモの服の袖を引くウィリア。
「おう、どうしたウィリア?」
自分を取り囲む少女たちの間から顔を出し、そんなウィリアに笑顔を向けるトモ。
そんな二人の様子に、アレサは更なるショックを受ける。
(こ、こ、こんのエロ猿……いつの間にウィリアのことを、呼び捨てにしてやがってますのよっ! その名前はこの宇宙で一番神聖で一番気高くて一番尊くて……あなたなんかが、気軽に呼んでいいようなものじゃないんですわよっ⁉)
ウィリアは、しばらくの間は恥ずかしそうに何かを言いあぐねていたが……。
「あ、あの……これ! よ、良かったら、後で読んで下さい……!」
「⁉」
やがて、トモにピンク色の封筒を渡した。
「あ? 何だよこれ? ウィリア、おい?」
ウィリアからもらった手紙を、さして価値のないもののように、顔の前でヒラヒラと振るトモ。アレサはそんな彼のもとに素早く駆け寄り、その「手紙」を奪い取った。
「ん? おじょー様まで、何だよ突然? その手紙、何が書いてあるか知ってんのか?」
「……」
無言のアレサ。だがもちろん彼女は、その手紙の中身を知っていた。
それはおそらく、アレサが何よりも欲しかったもの。これまで何度となく渇望し、それが叶わなかったものだ。
ウィリアの愛がこもった……ラブレターだ。
(そ、それを、こんな男に……。その価値も分からない、他の女に言い寄られてヘラヘラしているような、こんな男に……。
もう、我慢の限界ですわっ!)
そう思ったら、アレサは勝手に動いてしまっていたのだった。
「……ナバタメ・トモ・ヒト!」
背すじを伸ばして、ビシィっとトモの方を指さすアレサ。
「え?」
「あ、アレサちゃん?」
トモ本人も、他の少女も、ウィリアも、みんなキョトンとしている。
しかし彼女は気にせずに、
「わたくしと、勝負なさいっ! ウィリアを賭けて、あなたに一対一の勝負を申し込みますわっ!」
と続けた。
「は?」
「へ?」
「えー……」
それは、アレサの「残念お嬢様」伝説に、新しい一ページが刻まれた瞬間だった。