01
さまざまな花が咲いている、美しい庭園。
一人の子供が、声を押し殺して泣いている。
広い屋敷で迷子になってしまったのか。あるいは、親とケンカして、自分から屋敷を飛び出してきたのか。
今となっては、その理由もさだかではない。
ただ、幼い日のアレサはとても悲しくて寂しい気持ちになり、その庭園で一人泣いていたのだった。
どれだけぬぐっても、瞳の奥からにじみ出てくる涙は止まらない。その日の彼女は、世界から自分の味方が誰もいなくなってしまった気がしていた。自分はこのまま、泣きながらたった一人で死んでいくのだと思い込んでしまっていた。
そのとき。そんな自暴自棄の彼女に、話しかける声が聞こえてきた。
「あなた、ここの娘?」
「え……」
「あなた、この屋敷に住んでる、アレサお嬢様でしょ?」
「……そう、ですけれど」
声のしたほうを見上げるアレサ。そこには、明るくほほえむ一人の少女がいた。
「あたしはウィリア。ここの花壇のお世話をしてる、花屋の子だよ」
それが、アレサとウィリアの出会いだった。
「お花ってさ……なんか、女の子みたいだよね?」
「は、はぁ? なによ、急に……」
「みんなかわいくて綺麗だけど……ほんとはすごく弱くて、もろいんだよ。放っておくと、すぐにしおれて枯れちゃう。
あたしは、そんなふうにしおれちゃったお花を、もう一度きれいに咲かせてあげれる人になりたいんだ。見てるみんなが、長く楽しめるように。
お花たちが、いつまでもいつまでも、楽しく過ごせるように……ね」
そう言って、ウィリアはかわいらしくアレサにウインクする。そのときの彼女の姿は、天に向かって花弁を広げる黄金のひまわり。いや……むしろ、そのひまわりに暖かい光をそそぐ、太陽そのものだった。
その瞬間、アレサの心の中に変化が起きた。
泣きたいほどに悲しくて悲しくて仕方なかった気持ちが、あっさりと消えてしまった。まるで魔法のように。本当に、心の中のしおれていた植物が光を受け、花を咲かせたかのように。
(な、何なの……?
胸が、焼けるように熱いわ……。でもそれと一緒に……お母様が優しく抱きしめてくださっているときのように、温かい……。楽しくて、うれしくて、幸せで……。でも、少し切ない……)
生まれて初めて感じたその感覚は、アレサの心からずっと消えることはなかった。
その感覚が、他の人間が「恋」と呼んでいる感情なのだと知ったのは、それから少したったあとだった。
そんな名前がついた心の中の箱にその感情を大事にしまっておくことで、症状を少しだけ軽くすることができた。なんでもないふうを装って、今まで通りの日常生活を送ることができた。
それでも、毎晩一人になったときには、アレサはその箱を開けてしまうのだ。そして、中から飛び出してくる喜ばしい苦しみに、身を悶えてしまうのだった。
「ねえ、ウィリア」
「なあに、アレサちゃん?」
向かい合う二人。いつの間にか、場所は庭園からどこかの教会になり、二人の見た目も成長した現在の姿になっている。
「わたくし、貴女のことが好きよ……」
ここが、自分の夢の中だと理解しているアレサ。その中でなら、彼女は自分の気持ちに正直になることができる。そしてウィリアも、アレサが期待するとおりの言葉を返してくれるのだった。
「あたしも、アレサちゃんのこと……好きだよ」
二人は両手を重ね合わせ、指を絡ませる。それからゆっくりと、顔を近づける。
アレサの吐息がウィリアの顔を、ウィリアの吐息がアレサの顔を、温かい湿り気を伴ってなでる。早鐘をならすお互いの鼓動は、重なり合って徐々にリズムを合わせていく。
体と体が、一つになる。心と心も、境界をあいまいにしていく。
やがて、生まれたままの姿になった二人は、理性をこえた動物的な欲求のままにお互いを求め始めて……。
※
「ウィリア……ああ、ウィリア……あ、ああん……」
「……お……様……お嬢様……」
「そ、そこは……だめよ、ウィリア。そ、そんな……やめて……」
「お嬢様、どうかお目覚めください。お嬢様……」
「い、いえっ! やめないでっ! もっと! もっとよっ! ウィリア、もっとやって!」
「はあ……。全く、このエロお嬢様は朝っぱらから何をおっしゃっているのか……。やっぱり、いつものようにやらなければだめのようですね」
「もっと強く! もっと深く! もっと、激しく……」
天蓋付きのベッドで、枕を抱きしめて身をくねらせているアレサ。その表情はとても幸せそう……というより、だらしなくて気持ち悪い。
「も、もっと……はしたなく……い、いやらしく……で、でへ……でへへ……」
彼女を呼ぶ声も聞こえず、完全に自分の世界に入ってしまっているようだ。彼女はこのまま、いつまでたっても幸せな夢の世界から覚めないだろうと思えた。だがそこで……。
バシャーンっ!
突然大量の水をぶちまけられて、ベッドもろともアレサはびしょ濡れにされてしまったのだった。
「う、うわっぷっ! げほっ! げほっ! な、何⁉ いったい何なのよっ⁉」
あまりの衝撃に、さすがに一瞬で夢の世界から現実に引きずり戻されるアレサ。大量の水を飲みこんでむせかえりながら、ベッドから転げ落ちる。
「ぐえっ!」
そんな、貴族令嬢にはあるまじき醜態をさらす彼女を冷静に見下していたのは、長い黒髪のメイド服少女だ。クールな印象のせいか一見すると大人びて見えるが、年はアレサと同じくらいだろう。
水をぶちまけた張本人である彼女は、素知らぬふうに真顔で一礼する。
「お嬢様、おはようございます」
「ちょ、ちょっとメイメイっ! やっぱり貴女なの⁉」
「外をご覧ください。本日も良く晴れて、気持ちのいい空模様ですよ? 庭園にも、美しい小鳥たちがやってきて……」
「うるさいわよっ! そんなこと、どうでもいいのよ!」
幸せな妄想を最悪な形で邪魔されたアレサは、怒り狂って叫び散らす。
「よくもやってくれたわねっ⁉ 寝ているわたくしにいきなり水をぶちまけるとかっ! 意味が分からないわよっ! どういうつもりなのよっ! 室内で、溺れるかと思ったじゃないっ!」
「え? 意味が分かりませんか? だってこうでもしないと、お嬢様はいつまでたってもお目覚めになっていただけませんでしょう? 私としても、こんなことをしなければいけないのは大変心苦しいのです。ですが、メイドとしての『お嬢様を起こす』という自分の担当業務を全うするために、しかたなくやっているのですよ? その苦労に感謝こそされ、怒られる理由はないですね。
分かりました? 分かったら、起こしてあげた私に感謝してください。『メイメイ様、この卑しい豚に水をかけてくださってありがとうございます』って言ってください。ほら、ほら」
「な、なんでそうなるのよっ! ただ起こすだけなら、やり方なんて他にいくらでもあるでしょ! わざわざこんなことする必要ないでしょうがっ! しかも貴女、こんなことするの今日だけじゃないでしょっ! 水だけじゃなくてベッドごと火をつけたこともあったし、この前なんて、寝ているわたくしにエサを塗りたくって寝室に大量のノラ犬やノラ猫を放ったわよね⁉
絶対、楽しんでやってるでしょっ!」
「いえいえ。楽しんでいるなんて、滅相もない」アレサに怒られても、平然としているメイド。真顔のまま答える。「ここだけの話ですが……私はただ、お尻に火をつけて部屋中走り回ったり、犬猫に全身をなめまわされているブザマなお嬢様のお姿を見て、せせら笑っているだけですよ?」
「それを、楽しんでるっていうのよっ!
メイメイ貴女、自分がメイドってことが分かってるのっ⁉ このわたくしのこと、こんなふうにバカにして、ただで済むと思ってんじゃないわよっ⁉」
「はいはい。何でもいいですから、さっさと着替えと朝食を済ませて、学園に向かってくださいね? いくら奥さまが理事長をされているからといっても、これ以上遅刻や無断欠席されては、留年は避けられませんよ? ここだけの話……貴女はただでさえ、学園内外の皆様から『残念お嬢様』という陰口を言われて、笑われているのですから……」
「うるさいわよっ! 言われなくても準備するわよっ! それより今は、貴女への説教を……!」
エキサイトするアレサを無視して、淡々と、濡れたベッドをカタしはじめるメイド。
「私は、お嬢様が恥ずかしい妄想をして汚してしまった枕やシーツを洗濯しなければいけませんので、二限目から参ります。……全く、余計な仕事を増やさないでいただきたいですね」
「はあ⁉ 貴女、自分でこれだけ部屋中びしょ濡れにしといて、どの口で言ってんのよっ! 覚えてなさいよっ⁉ 絶対に許さないわよっ! こんなこと、もう二度とさせませんからね!」
そんなことを言い続けながらも、結局アレサは部屋を出て行く。お嬢様でありながら学生でもあるアレサにとっては、そのメイドの言ったとおり、学園の遅刻記録を更新してしまうわけにはいかなかったのだ。メイドは、そんな彼女に呆れたようにまた「はいはい」と雑な返事をしながら、テキパキと作業を進めていた。
それは、ばかばかしくて騒がしい、いつもどおりのサウスレッド家の朝の風景だった。