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04

 そこで突然、聞き覚えのない女性の声が響いた。


「はい、カット!」


 次の瞬間、その場のすべてのもの……アレサやトモやウィリアや、近くにいた動物や昆虫、森の木々の葉を揺らす風すらもが、等しく動きを止めてしまった。

 端的に、ありふれた表現で言うなら、そのとき世界の時間が止まってしまったのだ。


「それでは、始めます」

 その中で唯一動くことが出来ているのは、先程の声の主――いつの間にかアレサたちのそばにいた、メガネをかけて紺色のスーツに身を包んだ会社員風の女性――と……、

「よ、よろしくお願いします!」

 その彼女にペコリと頭を下げる、女神のヌル子だけだった。



「はい? 私にお願いされても困りますが?」

 冷めきった目で、不機嫌そうにヌル子を見るその女性。(便宜上、今後は彼女のことをサメ子と呼ぶことにする。)

「私はただ、『私たち』女神のルールに照らし合わせて、適切な対応をとるだけです。貴女にお願いされようがされまいが、その結果が変わることはありませんので」

 そう言ってサメ子が軽く指を弾くと、何もなかった空中に、街角でアンケートをとるときに使うような下敷付きのバインダーとボールペンが現れた。会社員っぽい風貌に異様に似合うそれらのアイテムを手に取り、サメ子は時間が止まっているアレサやトモに顔を寄せる。

 そして、ぶつぶつと何かをつぶやきながら、紙にメモを取ったりチェックをつけたりし始めた。


「……対象者は、生天目……智仁。ふむ。なるほど確かに、可能性に満ちた前途ある若者、と言っていいでしょうね……。

 ……アレサ・サウスレッドの攻撃は、角度、勢い、共に申し分なし……。彼は、文句なしに即死でした……。

 ……自分の存在価値を完全に否定されたうえで命を奪われた今の彼の心は、激しく絶望している……それも間違いなさそうです……。

 ……ただ、『決闘で負けて死ぬ』ということが、現代のこの世界において『ありきたりな死にかた』と言えるのかは少し微妙ですが……まあ、これくらいはオマケしてもいいでしょう……」


 淡々とそんなことを言ったあと、彼女は自分のなすべき仕事をし終えたらしく、そこで「はい、分かりました」と言ってまた指を鳴らした。すると、出したときと同じようにバインダーとボールペンは空中に消えてなくなってしまった。

「ど、どうでしょうか……?」

 心配そうに顔色をうかがうヌル子。そんな彼女に対して、サメ子は何の感情も感慨もなく、いたって事務的に告げる。

「今回の生天目智仁の死は、十分に悲劇的で、我々女神にとっても同情に値すると言っていいほどにあわれな死に方でした……つまり、『条件』は満たしていると判断できます。

 よってこれから彼を、私が管理する世界……すなわち、『彼がもともといた世界』に『転生し直す』ことが可能です」


 実はサメ子は、ヌル子と同じように1つの世界を統べる女神だった。それも、トモがアレサたちの世界にやってくる前にいた、彼がもともと生まれ育った世界の女神だったのだ。

 彼女とヌル子は今、「不幸にも死んでしまった」トモを再び転生させて、もとの世界に戻そうとしていたのだった。




「ああ、よかったあー」

 安堵の表情を浮かべるヌル子。

「これで、みんなが救われますね!

 私があげたチートは、この世界限定で効果を持つものですから、あらためて転生し直したトモくんはまた元通りの普通の人間の男の子に戻ります。強力すぎるチート能力で混乱していたこの世界もアレサさんも、かつての日常に元通り。すべてが丸く収まって、大団円のハッピーエンドですね⁉」

「いいえ」

 浮かれているヌル子に、サメ子は冷酷に首をふる。

「……へ?」

「みんなが丸く収まってなんかいません。少なくとも、今回の騒動を引き起こした帳本人である貴女は、元通りになんかなりませんよ?」

「え? え? だ、だって……トモくんを『もともといた世界に転生しなおす』ってことは、全部がプラマイゼロになるってことじゃないですか? だから、全てが元通りってことじゃあ……?」

「彼を元の世界に戻せても、貴女の失敗がなかったことになるわけじゃありません。プラマイゼロなんかじゃなく、大きくマイナスだったのがやっと少しだけゼロに近づいた、というだけです。おそらく貴女は、これからしばらくは上司の女神さんと一緒に関係各所に頭を下げて回ることになります。始末書はもちろん、懲罰もそれなりに覚悟しておくべきでしょうね」

「ええぇー⁉ な、何でですかぁーっ! 私、ちゃんとこの前、女神部長さんからお説教受けたんですよぉー⁉ それに、お給料だって半分カットされちゃってるのに! その上、いまさら懲罰とか始末書とか、あんまりですよぉー!」

 相変わらずこれまでの空気を読まず、コロコロと表情を変えてせわしないヌル子。そんな彼女に対して、サメ子はずっと無表情の事務的な態度だ。

「当然でしょう? 勝手に一人の人間に入れ込んで、バカみたいなチート能力を与えて、世界のバランスを崩してしまったんです。貴女は今回の件で、私たち女神の名に泥を塗ったんです。

 一回説教受けて減給になったくらいで、チャラになるわけがないでしょう? クビにならなかっただけ、喜ぶべきですよ」

「しょ、しょんなあー……」

「つきましては、私も貴女から引き継いでもらわなければいけないことがありますし、書かなければいけない書類もあるので、いったん一緒に天界(本部)に戻ることにしましょう。実は私がここにいるのは、貴女が逃げ出さないように見張る役割もありますので」

「は、はぁい……」


 そして二人の女神は、止まった時を再び動かして、自分たちの本部の事業所がある天界へと帰ろうとした。そこでヌル子が、落ち込んでいた雰囲気を自ら打開しようとしたのか、またサメ子に話しかけた。

「と、とにかく……今回は、ありがとうございました。貴女が来てくれたお陰で、アレサさんたちは救われましたから。

 で、でも……なんだかちょっと、申し訳なかったですね?」

「はい? 何がですか?」

「だ、だってこういうのって……『アレ』、なんでしょう? 貴女たちの世界だと、あんまり好まれない展開なんでしょう?」

「はあ……?」

 ヌル子の話している意味が分からず、適当な生返事を返すサメ子。ヌル子はそれには気付かず、続ける。

「ほ、ほら。物語の終盤で、こういう風に私たち神様が出てきて全部をパアッと解決しちゃうのって、確か……デウス・エクス・マキナでしたっけ? そういうのって、貴女の世界だとあんまりいいことじゃないんですよね? だから、貴女をそんなことに巻き込んでしまって、申し訳なかったなあーって思って……えへへへ……へ?」

 そこで。

 ヌル子は、サメ子がマジマジと自分を見つめているのに気が付いた。しかもその距離はどんどん近づいてきていて、今にも顔と顔がくっついてしまいそうだ。

「あ、あのぉー? えぇと……」

 なんだか理由もわからず、顔を赤らめてしまうヌル子。

 サメ子は彼女に顔を寄せたまま、

「……貴女、本気ですか?」

 と真剣な口調で言った。

「え?」

「今言ったこと……本気で考えてるんですか?」

「あ、あれ? ……だ、だって、そうですよね? これって、デウス・エクス・マキナなんですよね? ち、違うんですか?」

「…………」

 しばらく絶句するサメ子。

 やがて彼女は、

「はあぁぁー……」

 と、ヌル子の顔にかかるくらいに大きなため息をついて、

「だから貴女は、信者のみなさんから『脳みそヌル子』とか呼ばれるんですよ……」

 と言った。

「よ、呼ばれてません!」

 すかさずサメ子に反論するヌル子だが、最後に小さく、「多分……」という言葉を付け足してしまう辺りが、もの悲しい。サメ子は、そんな彼女に心底呆れた様子で続けた。


「これが、デウス・エクス・マキナのご都合主義展開だなんて、そんな言いがかりは正当ではありませんね。もしも貴女が本気でそんなことを思っているんだとしたら、今すぐ女神なんて辞めることをお勧めします。

 だって……私がこうやって生天目智仁に二度目の転生をさせることは、ここにいるアリア・サウスレッドさんの計画通りなんですから」

「え? え? え???」

 全てを見通せる女神のくせに何も理解できていない様子で、頭の上に無数のクエスチョンマークを浮かべているヌル子。

 サメ子のほうはそんなヌル子のことなど相手にせず、時の止まっているアレサの頬を自分の指でプニプニとつついていた。それは、彼女なりにアレサに敬意を現しているための行為だった。


「誰かを別の異世界に転生させるには、『条件』がある。

 たとえば……『前途有望で大きな可能性を持った若者が、ありきたりな理由であっさりと命を絶たれること』。たとえば……『そのことに本人が深く絶望し、後悔していること』。そして、それらの不幸な出来事に『私たち女神が同情していること』……。

 そういった条件が揃ったときのみ、私たちの独断で、その誰かを救うことが出来る。異世界にいる個人を、自分の世界に転生させることが出来るのです」

「は、はい。それは知ってます! だ、だから今回、トモくんがその条件に合いそうだと気付いた貴女が、ここにやって来てくれたん……ですよね?」

「そうです。それは間違いありません。

 ……ですが、実は今言った条件はすべて、『これまでに貴女が不用意にアレサさんに話してしまったこと』でもある」

「え⁉ そ、そうなんですか?」

 間抜けな顔で驚くヌル子に、サメ子は「ええ」とうなづく。

「アレサさんは、貴女がこれまでに話した内容を繋ぎ合わせることで、おぼろげながらも転生の条件を予想できていたのです。予想していたからこそ、彼女はあんな『茶番』を演じたのです。

 生天目智仁に、自分がいかに愚かで邪悪な存在であるかと言い聞かせ、彼を『深く絶望』させた。そのうえで、決闘の場という『かつてはありきたりだった方法』で、『あっさりと彼の命を絶った』。

 そうやって彼女は、貴女が言った転生の条件を満たす状況を作り出し、彼を再び『元の世界に転生し直そう』としたのです。私なんて、そんな彼女の計画に利用されたにすぎないのですよ」

「え、えー……? で、でもぉー……」

 今まで仲間からさんざんバカにされてきているからか、疑い深くなっているらしいヌル子。ダ女神なりに、何か言ってサメ子に一矢報いようとする。

「い、いくらアレサさんが転生の条件が想像できたからってぇ、本当にそれがおこるなんて、分からないじゃないですかぁ? 今回彼を転生することになったのは、たまたま貴女が来てくれたからですしぃ……。もしかしたら誰も女神がきてくれなくて、アレサさんはただトモくんを殺しちゃっただけになっちゃうことだって、あり得たわけじゃないですかぁ?

 博愛主義者の彼女が、そんな可能性の低い賭けで人殺しをするとは、思えないんですけどぉー……?」

「いいえ。彼女にとって今回の私の行動は、それほど『可能性の低い賭け』ではなかったはずです。だってアレサさんは、生天目智仁を『絶望させながら殺害』すれば、彼を転生させるために私がここにやって来ると確信していたのですから」

「ええー? どうしてそんなことが、普通の人間のアレサさんにわかるんですかぁー⁉」

「どうして? どうしてですって?

 ……だって私は、生天目智仁の住んでいた世界の女神ですからね」

「え?」

 そこでサメ子は一瞬だけ、「ふふ……」と笑った。

 それは、長い付き合いのあるヌル子でも初めて見る、優しいほほえみの表情だった。

「貴女が当然知っているように、私は、生天目智仁がかつて住んでいた世界を管理する女神です。

 そして、そんな私が管理する世界には……ある日突然生天目智仁を失ってしまい、深く悲しんでいる『彼の両親』や『妹』や『幼馴染』や『友人』がいます。それに、彼を轢き殺してしまって罪の意識にさいなまれている、『トラックの運転手』がいるはずです。

 生天目智仁が事故によって命を落とした不幸な少年であるのと同じように……彼の知人やそのトラックの運転手も、その事故によって人生を狂わされてしまった不幸な人たちには違いありません。

 そんな世界に、もしも、生天目智仁を転生し直すことができたなら……?

 生天目智仁の復活は、きっと彼ら彼女らの不幸を解消してくれます。生天目智仁を失ったことによる悲しみや苦悩を、癒すことができるはずです。

 ……だとしたら、世界の管理者である私は、動かずにはいられない。

 『女神は、自分が管理する世界のすべての生き物のことを考えている』。これも、貴女がすでにアレサさんに対して口走っていたことです。その言葉の通り、私は、自分の世界の生き物はみんな、自分の子供だと思っています。当然、生天目智仁の関係者やトラックの運転手にも、等しく深い愛情をもって見守っています。そんな彼ら彼女らが、生天目智仁が世界から消えたときから深く悲しんで苦悩しているという事実は、女神として本当に心がいたむことでした。

 だから、生天目智仁を再び世界に取り戻すことで、そんな自分の子供たちの悲しみを少しでも取り除けるのなら、『生天目智仁のもといた世界の神』は必ず動くはず……。アレサさんは、それに気付いていたのです。だからこそアレサさんは、こんな計画を実行に移すことができたのです。生天目智仁としても、このままこの世界に居座るよりは、戻れるならば元の世界に戻ったほうが普通に幸せになれそうですしね。

 全く……世界中の生きものどころか、異世界の人間のことまで考えて行動するなんて……さすが、究極の博愛主義者と呼ばれるだけはありますよね」

 いつのまにか、サメ子のほほえみはさっきまでの事務的な無表情に戻ってしまっていた。そのあまりのギャップの大きさに、ヌル子はそれを見間違いだったのかもしれないと思ったほどだった。

 気を取り直して、ヌル子は言う。

「そ、そんなことを考えてたなんて……。アレサさんて、意外とすごい人だったんですねぇ……」

「そうですよ。この方は、それくらいのことをいつも考えて行動するような、とてもスケールの大きな人です。彼女の行動はいつだって、他人やこの世界のために行われていました。生天目智仁と敵対しているときですら、彼を救うことを考えていたのですから。

 いまさら彼女のすごさに気づいたのなんて、貴女くらいのものですよ?」

「ちょ、ちょっとー! そんなこと、言わないで下さいよぉー!」

 やれやれという感じで、首を振るサメ子。

「本当に……アレサさんという方は、貴女の世界にはもったいないくらいに素晴らしい人ですよ。

 もしも彼女が今後、この世界に深く絶望して命を落とすようなことがあったら……そのときは、忘れずに私に連絡してくださいね?

 とびっきりの好待遇(チートフル)で、私の世界に引き抜き(転生)させていただきますので……」

「そ、そんなことダメですよ! アレサさんは、私の世界の大事な人なんですからっ!」

 慌てて反論するヌル子に、サメ子はいたって事務的に、「冗談ですよ」と告げた。


「だって……このアレサさんという人はきっと、今後どんなことがあっても絶望したりなんかしませんからね。どんな苦境に陥っても、どんなに思い通りにいかなくても、無様なほどに悪あがきを続けるでしょう。

 そのくらいに、諦めの悪い人ですから」

「そう……ですね……」


 そこでサメ子は、アレサのそばに近寄り、右頬をそっと手のひらで触れた。同じようにヌル子も、時の止まっているアレサの左頬に触れる。

 そして、女神の力でアレサの未来を少しだけ見通した二人は、小さくため息をついた。

「ああ……きっとこれから、アレサさんの人生には辛いことがたくさん待っているのですね……」

「ええ……。残念ですが、それは避けられません。彼女はここで決闘を行うことで私をおびき出し、生天目智仁を転生し直すことに成功した。しかし、それがこの世界にとってどれだけ意味がある行為だったかということは、当人のアレサさんしか知り得ないことです。この人は、自分から自分の功績を言いふらすような人ではありませんし……このことは、きっと誰にも知られることはないでしょう。

 むしろ今回の代償として彼女は、私の世界のトラック運転手の代わりに、生天目智仁を殺した殺人者としての汚名を背負わなくてならなくなった。そのことで、彼女が今までこの世界でつみあげてきた立場や功績も危うくなってしまうはずです。

 もちろん、彼女はそれを予想していた上で、この方法を選んだのでしょうけれど……」

「……やるせないですね」

 静かにうつむく二人。

 だが、所詮女神である彼女たちには、人間であるアレサに干渉することはできない。そのルールは、女神が二人になったとしも変わることはないのだ。


 心を痛めながらも、二人はせめて、自分たちが出来ることをしようと思った。そして、

「願わくば……これからのアレサさんの人生に、少しでも多くの幸福を……」

「願わくば……アレサさんの想いが、愛しい人に届きますように……」

 静かにそう呟くと、彼女たちは同時に、アレサの両頬に優しいキスをした。それは、世界を統べる女神たちからの、何の効果もチートもない、ただの祝福の祈りだった。




「さあ、それではそろそろ行きましょう……」

 それからしばらくの間は、感慨深そうにアレサを見ていた二人だったが、ようやく自分の仕事を再開することにしたようだ。

「はい……」

 そう言って、彼女たちは今度こそ本当に、その場を去ることにした。


「では……」

 そのとたん、ヌル子とサメ子の体が光に包まれ、空気にとけるように徐々に姿が消えていった。それと同じように、トモの遺体も光に包まれていく。彼の体は、彼の魂と一緒に、自分がもといた世界に転生を始めたのだ。

 やがて、薄くなっていた三人が完全に空中に溶けきって、姿が全く見えなくなると……止まっていた時も、一斉に動き出した。




   ※




「はあぁぁーっ!」


 全力を込めて、金属杖を振り下ろすアレサ。

 しかし、そこには既にトモの姿はなく、その杖は地面に突き刺さるだけだ。


「⁉ や、やったのね……!」

 そのことの『意味』をすぐに気付いたアレサは、脱力して、その場にガクッと膝を落とす。安心と歓びに胸がいっぱいになった彼女は右目から、そして眼帯の奥の左目から、温かい涙をボロボロとこぼしていた。



「ア、アレサ……ちゃん……?」

 広場の端で、ウィリアがつぶやく。

 その声に応えて、アレサは涙をふいて再び立ち上がり、彼女のもとへと駆け寄った。

「ウィリア! さっきは本当にごめんなさい! ケガはしてない⁉ そ、その……詳しくは言えないけれど、さっきはああするしかなかったのよ! でも、今やっと全てが終わったから……!」

 トモに絶望感を植え付け、決闘を最後まで遂行するためとはいえ、自分の想い人に攻撃を加えてしまったことは間違いない。アレサはその罪悪感で、必死に謝罪を繰り返していた。

 一方のウィリアは、

「あ……あれ? わ、私、どうしちゃったんだろ……? なんだか、頭の中がよくわからなくて……。私、トモ……くんのことが好きだったはずなのに……。でも、今は彼のこと、なんとも思えなくて……。彼がいなくなったのに、全然……でも……でも……」

 何が起きたのかまだ完全に理解出来ておらず、呆然としているようだった。アレサはそんな彼女に優しくほほえむ。

「ウィリア、大丈夫よ……。もう、全部終わったのよ……。

 ナバタメ・トモ・ヒトには、人を惑わす力があったの。貴女たちはその力で、みんな彼のことを好きだと思い込んでいただけなのよ。

 でも、彼はもうこの世界にはいなくなった。元の彼の世界に、帰ってもらったの。だから、貴女たちの心が乱されることは、もうなくなったのよ……」


 その表情は、さっきまでトモと戦っていた彼女とはまるで別人のようだ。さっきまでが血に飢えた殺人鬼だとしたら、今の彼女は、全てを包み込む慈愛に満ちた母のよう。

 しかし、それこそがもともとの彼女らしい彼女だ。今の彼女こそが、ウィリアを愛し、この世界のすべての生物を愛している、アレサ・サウスレッドだったのだから。


 彼女は呆然としているウィリアに近づき、そっと両手を背中に回して、彼女を抱きしめた。

「ウィリア……もう大丈夫。貴女は、何も心配しなくていいのよ……。貴女のことはわたくしが守って見せるから……。だって私は、貴女のことが……」

「アレ……サちゃん……」

 ウィリアも、アレサに抱きしめられながら、ゆっくりと自分の手をアレサの体に伸ばしていく。そして、


 ドンッ。


 か弱いその手で、彼女はアレサの体を押して、自分から引き剥がした。

「ウィ、ウィリア……?」

 押された勢いに流されるまま、地面に尻もちをついてしまうアレサ。そんな彼女に目を合わせずに、ウィリアは喉の奥から絞り出すような声で言う。

「……トモくんがいなくなった瞬間から、あたしのトモくんへの気持ちは、どこかにいっちゃったみたい……。さっきまで彼に夢中だった自分が嘘みたいに、彼のことを何とも思わなくなっちゃってる……。でも……でも……。彼を好きだったっていう記憶は、まだ残ってるんだよ!」

 駄々をこねるように、叫ぶウィリア。

「あたしはもう彼のことを好きじゃない……でも、『確かに彼を好きだった』って記憶は、消えてなんかいないんだよっ! だから……だから……だから…………そんな彼を消しちゃったアレサちゃんのことが、たまらなく憎いの! あたしが大好きだった人を消しちゃったアレサちゃんが、許せないよ!」

「ウィリア……」

 彼女は、アレサに背を向ける。

「だから……悪いけど、アレサちゃんの気持ちには応えられないから!」


 そう言って、ウィリアはその場を立ち去ってしまった。

 アレサは、一瞬彼女を追いかけようとしたが……すぐに思い返して、立ち止まった。

「そうね……。貴女なら、そう言うでしょうね……」

 彼女は去り行くウィリアの後ろ姿を見つめる。絶望や悲哀ではなく、さきほどの優しい笑顔のままで。

「わたくしの知っているウィリアなら……きっと彼がいなくなっても、彼のことを想い続ける。一途で、しっかりと自分を持っている貴女なら、自分の想いをすぐに変えたりしない。そんなこと、最初から分かっていたわよ……。だってわたくしは、貴女のそういうところが好きなのだもの……」

「アレサちゃんなんて、もう顔も見たくないよっ!」

 去り際に、ウィリアがそう叫ぶのが聞こえる。

 しかしアレサは表情を崩さずつぶやく。

「大好きよ、ウィリア……。きっといつか、貴女をわたくしに振り向かせて見せますから……」

 むしろ、今の状況になれたことが喜ばしいことであるかのように。


 それからも。

 ウィリアが森の木々の中に消えてからもずっと、アレサはずっと、彼女が去っていた方向を見つめていた。





 これで、この物語は終わる。

 ここから先にあるのは、もはや異世界転生やチートは関係のない、別の物語だ。

 英雄殺しの汚名を着せられて落ちぶれたアレサと、想い人を失って心に穴の開いてしまったウィリア……それから、重い後遺症を残しながらも奇跡的に一命をとりとめたメイの三人が作る、複雑で、痛々しくて生々しい三角関係の物語だ。

 それはきっと、爽快感やスペクタクルやカタルシスはもちろん、喜びや笑顔もほとんどない。あえてここで語る価値などのない、後味の悪い物語になるだろう。


 ……だが同時にそれは、その三人の心の中から生まれた真実の感情によって紡がれる、真実の物語でもある。誰かから与えられたり強制されたわけでなく、彼女たちが自分で考え、悩みながら進めていく、本当の意味での彼女たちの物語だ。

 それがどんな結末を迎えるのかは、誰にも分からない。

 恐らく世界を統べる女神ですら、結末を予期することはできないだろう。


 ただ……。

 それがどんな結末になるにしても、ここまで語られてきた物語よりもはるかに素晴らしいということだけは、確実に断言できる。

 チートや英雄がいなくても……いや、きっとそんなものがないからこそ、人はもがき苦しみ、その人生を輝かせる。だから、そうやって作られた彼女たちの物語も美しく輝く物語であることは、間違いがないのだ。

 だって……真実の心が作る真実の人生は、いつだって素晴らしいもの(ビューティフル)なのだから。


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