零距離恋愛でなかなか会えませんが、二人は幸せです。
日付なんて気にしたら負けだが、たしか、2017年2月14日だ。
その日はちょうど、一週間分の食材を買い込むべくスーパーに足を運んでいた。すると店に入ってすぐのところに、まるでこれを買わないなんて人間じゃないですよ、と言わんばかりに豪華にディスプレイされたチョコレートの山が置いてあった。
サイコロ状の生チョコレートに、満月みたいな生トリュフ。トゲトゲのナッツチョコに、定番の板チョコレート。ああ、はいはい。今日はバレンタインデーでしたね。つい先日まで恵方巻を売っていたのに、素早い商売展開ですね。スーパーのカートをカラカラと押し、夕食の食材をポイポイとカゴの中に放り込みながら、片隅でそんなことを考える。
自分はそんなに甘いものに興味はなかった。ただ、これほどまでにアピールされると、何故か食べたくなるのが人間の不思議なところだ。買わないけれども。
男である自分がバレンタイン専売コーナーに足を踏み入れようものなら、まるで女性専用車両の入ったかのような威圧感を周囲の女性から受ける上、レジで店員さんから、女子からチョコレートを貰えないから自分で買うんですねぇ、なんて可哀想な視線を向けられることになるので、絶対に買わない。別に恥ずかしいとか、そういうんじゃない。どっちかって言えば、ポイントカードをお持ちですか? と毎回問い掛けられて、いいえ、拙者は持ち合わせてはおらぬ、と丁重に返答しなければならない面倒臭さにあれは似ている。実際、そんな科白は言わないけれども。
自分でもよく判らないコトを考えながら、チョコレートの代わりに、近所にある有名な洋菓子店で、ちょっぴり高級なチョコレートケーキを二つ買って帰宅する。バレンタインにチョコレートを買ったら負けな気がするのに、洋菓子店でケーキを二つ買って帰ると私生活が充実している感が醸し出せて勝ちな気がするのはなんでだろう。いや、そう思うのは俺だけか?
「ただいま」
家の中にそんな独り言を放り投げてから、俺はいそいそと靴を脱いで中に入る。右手に持っていたレジ袋と、左手に握っていたケーキの紙箱をダイニングのテーブルに置くと、買ってきた生鮮食料品をせっせと冷蔵庫に投入する。買ってきた豚肉のパックをフリスビーを投げるみたいにくるくると回転させながら冷蔵庫に仕舞うのがすごく愉しいが、こんなことをしているから後で実際に使う時に何が何処に行ったか分からなくなってすごく困るんだ、たぶん。
「もう十七時か」
素直に五時って言えば良いのに、俺はアナログ時計の針を見ながら、わざとそう呟く。別に誰が聞いているわけでもないのに。しかしながら、聞いていないイコール人が居ない、ではない。実際のところ、隣の部屋に人はいる。
俺は、ダイニングから見て隣の部屋にあたるリビングに視線を流す。家の中は時が止まっているみたいに静かだったが、十畳ほどのリビングには、すやすやと寝息を立てている一人の少女がいた。
温かそうな白いパイル生地のセーターに、丈の短いキュロットスカート。セミロングの黒髪はとても綺麗で、それ以前に自分の家で女の子が無防備に寝ているというシチュエーション自体が卑怯極まりない。まるで寝込みを襲って下さい、と誘っているみたいだった。
「……」
陽を浴びていない陶磁器のような白い素肌。カーペットの上にさらりと流れている、絹のような艶やかな黒髪。綺麗だな。素直に、そんな感想しか出てこない。読書感想文だったら、赤点を頂いてしまいそうだ。俺は美術品でも見るみたいに、たっぷりと三十秒ほどその少女の寝姿を瞳に映す。ずっとずっと見てきたはずなのに、けれども彼女を見飽きることなんて無い。それこそ、いつまでも眺めていたくなる。こんな気持ちを抱くのは、①彼女を見るときか、②えろい本を見るときか、③えろい時の彼女を見るときだけだ。いや、ちょっと待て。今のはナシだ。訂正しよう、①番は削除……と思ったが、やっぱり訂正しない方が主人公のポジショニング的に良い気がしてきた。まあ、もう手遅れ感がすごいけれども。
――早く起きないと、襲ってしまいますよ? お姫様。
俺は何気ない気持ちで彼女に近づき、その傍に腰を下ろして彼女の寝顔を見つめる。そしてそのまま、引き寄せられるかのように、彼女の頬にそっと口づけを落とす。その肌はとても柔らかくて、そして少しだけ、ひんやりとしていた。
悠久にも感じられる、三秒間。
俺はその感触を唇にたっぷりと覚えた後。
ゆっくりと、彼女の頬から顔を離す。
正確には、離そうとしたところで、
「……やらしい」
何時からなのか、彼女は薄目を開けていた。起きていたらしい。
しっとりとした声が投げ掛けられて、俺は離そうとしていた顔を、そこで金縛りに遭ったみたいに立ち止まらせる。
彼女のとろんとした瞳は開かれ、こちらと視線が絡み合う。
図らずも彼女の上に四つん這いになっていた俺と、それをぼんやりと見上げてくる彼女。
彼女の声色は、別段に非難した様子もない。穏やかな口調で紡がれた科白。最初から起きていたのだろうか。こちらが焦っている様子を、心なしか口許を緩めて、愉しそうに見つめている気がした。
「きみは今日もえっちだね。言えば、させてあげるのに……」
潤んだ瞳で見上げてくる蠱惑的な彼女の声に、俺は顔が紅くなる。
体勢的にはこちらが上で、襲う形になっているのもこちらの方なのに、少女の艶っぽい微笑みと声色に、俺はまるで心臓をツンツンとつつかれているような錯覚に陥ってしまう。
「まぁ……わたしをオトすには、並大抵な殺し文句じゃダメだけどね?」
彼女は横たえた身体のまま、ゆっくりと右手を伸ばして、その指先で俺の頬をそっと撫でてくる。くすぐったいような、心地良いような感触。その柔らかな物腰と眼差しは、まるで子供を宥める母親か、面倒見の良い姉のよう。そんな姿にしばし見惚れた後、そう言えば、と。
俺はチョコレートケーキを買っていたことを思い出す。
「俺の姫君は殺し文句をご所望のようだ。けれど、自分の恋人に惹かれるのは当たり前だろう? 俺はキミのことを愛している。その無垢な心も、蠱惑的な身体もね」
「あはは、甘い言葉をありがとう。でも、53点かな」
「駅前の有名な洋菓子屋で、高級チョコケーキを買ってきたんだ。もちろんキミの分も用意してある。しっとりと濡れたチョコレートが、甘くてふわふわの生地に何重にもサンドされていて、フォークを入れた途端、サクッと音を立て、口に入れた時にはカカオの濃厚な香りがさぞかし贅沢に広がることだろう。舌に乗った時の、あの蕩ける感触。たまらないだろうな」
「ご、53万点に跳ね上がった!?」
なんて甘い科白なんだ、と。甘いよぅ、甘すぎるよぅ、と。昔の芸能人のネタみたいなコトを何故か悔しそうに呟きながら、やがて、こほんとわざとらしく咳払いをしてみせると、そのまま先程と同じ体勢で身体を横倒し、目を閉じて寝た振りを続行する。
「お姫様は甘い言葉に陥落しました。テイク2をさせてあげよう。もうちょっと過激なことでも許可……ああ、でもここから先は、18禁かな? ノクターンノベルズ行く?」
「……メタ発言はやめてもらおうか」
高嶺の花です宣言をした後の、なんと激しい心変わりだろう。世界の半分の支配権を提案してくる魔王のような決断ぶりだ。だが彼女も、お土産にケーキを持ち出されては、機嫌を良くするしかないらしい。俺と彼女は数秒してからお互いに顔を見合わせ、屈託のない笑みをくつくつと浮かべる。
「さすがだね。切り札を用意した上での、破廉恥行為かな?」
「さて、何のことやら」
「あはは……まあ、許してあげよう」
カーペットから身体を起こそうとしている彼女に気が付き、俺はそっと手を差し伸べる。どうやら眠気は完全に覚めていたようで、彼女の表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。
俺は、そんな彼女に改めて言葉を掛ける。
「おはよう、結衣。とりあえず、夕御飯にしようか」
一人暮らしの俺の家に転がり込んでいる、愛しい恋人。
結衣、それが彼女の名前だった。
冬も真っ盛りということで、今夜の夕御飯は鍋物にした。豚肉で作った肉団子と豆腐、長ネギとキノコ類を投入し、今年は不作で高価になった白菜は少量にして、その分は豆苗とレタスで代用する。レタスを鍋に入れる習慣は今まで無かったが、やってみると、意外とシャキシャキして美味かったので、最近ではレタスは定番になっている。冷蔵庫に仕舞う時にボーリングボールみたいにレタスを投入したのが案の定悪かったのか、少しだけカタチが歪んでいたけれど、切ってしまえば同じようなものだ。
「さて、あとはこれで五分ほど煮込みますか」
沸騰して吹き零れないように火力を弱めに調整すると、俺は腰に手を当てながら、コンロの前で一息吐いた。食材を切るのは結衣の領分、仕上げをするのが俺の領分だ。
結衣は幼い容姿とは裏腹に大の酒好きで、結衣は一足先にリビングのテーブルに着いて、梅酒の入ったグラスを傾けてもう既に一杯やっていた。アルコールが入ったら眠くならずに済むという理由で結衣は二十歳の誕生日を迎えた直後から、毎晩ちびちびと梅酒を愛飲している。
最近では自家製の梅酒を作ることにも目覚め、それを俺に試飲させることに、なぜか至上の喜びを感じているようだ。ただ、薦めてくれる酒が美味しいならまだしも、残念ながら彼女の作る梅酒の味は飲んだ者の口をただちに水鉄砲か噴水にしてしまう。たぶん入れる調味料が何かしら間違えていると思うのだが、好きこそ物の上手なれと思い、今のところ敢えて何もアドバイスしていない。ただし、そろそろアドバイスをしないと俺の味覚がバイオハザードすると思うので、近日中に彼女のしょぼくれた顔が上映される予定だ。
「前から思ってたんだが、結衣は何かを目指すと一直線だよな。時には回り道というか、余計な知識というか、雑学みたいなものも仕入れてみてもいいと思うんだが」
俺は遠回しに助言をしてみたつもりなのだが、彼女はにこやかな笑顔で、
「それすると、わたしの利点が消える気がする。わたしってほら、雑味なしですから」
「どこの珈琲の話をしているんだ」
どうやら黒ヤギさんに手紙が届くのは、かなり先になりそうだ。
俺が肩を竦めているのを他所に、彼女はとても嬉しそうに二本目の梅酒――市販の缶酒だ。自分で作ったやつは何故か自分では飲まない――に手を伸ばしていた。ぷしゅ、と小気味のよい音が響き、金色の液体がしゅわしゅわと音を立ててグラスの中に吸い込まれる。見ているだけで、梅の芳醇な香りが漂ってくる気がした。
「わたし、お酒はすっごい好きだけど、アルコールには割と弱いんだよね」
「そうか」
「飲みすぎてバッドエンドもあるから、適度に止めるとよろしいぞ?」
「よろしいぞ、って、メインヒロインにあるまじきルートなんだが」
鍋が沸騰しないようにコンロの前に立って見張りながら、俺はその片手間で、何か面白い番組でもやっていないかと、テレビのリモコンを持ってチャンネルを適当に変える。日曜日の七時頃は、ほとんどがバラエティ番組のようだ。まあ、どれでも良いか。
我が家では賑やかしのために、食事中でもテレビを点けるタイプの家庭だ。
「ちなみに適度に酔わせて口八丁で言い包めると、ベッドエンドもあるかもよ?」
「なんだ、その新手のエンディングは」
リモコンを持っているところに、そんなことを言われたものだから、俺は思わず反射的に振り向いて、結衣の方にリモコンを向けてしまう。リモコンを向けられた彼女は目を瞬かせた後、自らの躯体をわざとらしく両手で抱き締め、
「うふふ、夜のわたしにリモコンを向けても、えっちな放送はし・て・な・い・ぜ?」
「……酒に弱いという伏線は回収できたようだな」
多忙で忙しい読者にも安心の回収速度だ。いや、こんな事を言っていたら、彼女のメタ発言に文句が言えなくなるな。やめておこう。潤んだ瞳と赤らめた顔を携えている彼女を見つめながら、俺は息を吐いた。まあ……酔った彼女は、とても艷やかで魅力的だったが。
夕食の鍋を二人で美味しく頂くと、雑炊もそこそこにデザートタイムに突入する。
俺は紙箱からチョコレートケーキを二つ取り出すと、それをデザート皿に移していく。片方を結衣の前に置くと、彼女は天使のような微笑みを浮かべた。
「これ、結衣のぶん」
「わぁい」
結衣はしばし、様々な角度からケーキを鑑賞すると、やがてテーブルに置いてあったケーキ用のフォークを右手に持ち、一ピースに切られたケーキの尖ったところにフォークを入れた。
「えへへ。盆と夏休みが一緒に来たみたいだ」
「……ゆい、知っているか? 大抵の人は一緒に来るんだぜ?」
盆と正月、が正解だ。用語は正しく使わないと、今回みたいに暴発する事になるんだ。
言葉を返しながら、俺も自分のチョコレートケーキに手を付ける。すっと切り込みが入る表層のチョコレートと、ふわっとしたスポンジの感触。交互に重ねられた茶色のコントラストは美しく、フォークを入れただけでもこのケーキが高級品であることを実感させられる。
俺はチョコケーキを食べ終えると、ふと、結衣の方を見た。彼女も同じタイミングでケーキを食べ終えたようで、その後はアルコールが回ったのか、頬を火照らせ、その瞳は艶っぽくとろんと潤んでいた。意識は半分宙に浮いているようで、身体は熱を帯びたのか、エアコンが強く効いた部屋で、暑そうにセーターの襟元を持ってぱたぱたとしていた。
その光景は、やはり扇情的で、魅力的だった。パイル生地の白いセーターに彼女の躯体はとてもフィットしていて、ボディラインが露わになった彼女の胸の膨らみはとても大きくて、やわらかそうで。自分は何も酔っていないはずなのに、雰囲気だけで酔わされてしまう。不思議な気分だった。無意識のうちに息を呑み、彼女の胸元に視線が釘付けになってしまって――
「そんなにわたしの胸が気になる?」
「……」
「わたしのはなし、きいてる?」
彼女の呼びかけに、はっと我に返る。
「な、何を言ってるんだ。その程度、効くわけないじゃないか!」
「そっちこそ、何を言っているのかね?」
にやにやと笑みを浮かべる彼女の言葉に、ようやく現実に戻ってくる。そして現実に戻ってきてから、自分がすごい聞き間違いをしていたことに気付く。
『効いてる?』じゃなくて、『聞いてる?』だったようだ。
自分のとんでもない失態に、俺は思わず顔を抑えた。
夕食後、俺がテレビの前でゲームをしていると、食器の後片付けを終えた結衣が、腰に付けている桃色のエプロンを外しながら、リビングの方にやってきた。
「何のゲームしてるの?」
結衣は興味深そうに小首を傾げて、俺を見つめてくる。
俺はコントローラーで画面を操作しながら、結衣に意識半分で言葉を返す。
「対戦型格闘ゲームだな。プレイヤー同士が操作するキャラクターが戦って、先に相手の体力をゼロにしたほうが勝ちってルールだ。うちの会社の先輩チームが作ったやつでな。ここ最近ではゲームセンターで一番人気らしいから、ちょっとプレイしとこうと思って」
「そういえばきみって、ゲームを作っている会社の人だったね。そういう立場で考えるとゲームをするのも勉強熱心、って意味になるのかな。……わたしもやってみていい?」
そう言いながら、ちょこんと正座をして空いているコントローラを手に持つ結衣。別に断る理由もなかったので、俺はゲームモードを切り替えてから、結衣に操作方法を説明する。
「結衣はあんまりゲームをしないから、ちょっと難しいかもしれないが……この青いボタンがパンチで、この赤いボタンがキック。で、この緑のボタンで相手を投げられる」
「ほほう……それで、『ちぎっては投げ』はどうやったら出ますか?」
「出ねえよ」
キャラクターをちぎって投げられたら、それは格闘ゲームじゃなくてホラーゲームだ。
俺がツッコむよりも先にゲームが開始されたので、そのまま黙っておく。
「わたしのパンチでお前の身体を微分してやるぜ? 積分してやるぜ?」
「そのパンチを使えば、三次元の人間が二次元に行けるな」
数学教師も卒倒するような科白。結衣は随分とノリノリのようだ。
画面上で、ふたりのキャラクターが間合いを見図りながら距離を詰めてゆく。結衣の操作する女性キャラクターは、まるで牽制するかのようにパンチを空で切りながら進んでくる。
「それにしても、わたしの操作しているこの女性キャラクターは随分きわどい衣装を着ているね」
「ああ……売上を上げるために、そういう演出がゲーム業界に一定数必要なのは認める」
「ゆるい服装だから胸元は大きく開いてるし、大きなスリットの入ったロングスカートからは太腿も見えてるし。現実だったらこの状態でジャンプしたら、いろいろ丸見えになるよ?」
「まあ、ゲームだから」
「男性諸君は、ゲームをプレイしながら下半身がマツタケ不可避というわけだね」
「……」
結衣の操作するキャラクターが俺のキャラクターに攻撃を仕掛けてくる。結衣が変なことを言ってくるものだから、思わずガードが疎かになってダメージを食らう。
「あ、きみの場合はシイタケ不可避だっけ? ごめんごめん」
「なんで謝る!? そして何故俺はそんなに過小評価なんだ!?」
俺はツッコミながら、結衣の方を思わず見てしまう。
一方の結衣は、忙しそうにコントローラーを操作していた。パンチやキックのボタンを巧みに操作している。あ、もしかしてやられてる? 俺は慌てて視線を画面に戻すが、俺の操作するキャラクターは、いつの間にか体力がゼロになって倒れていた。結衣の勝ちだった。
「わたしって、結構才能あるんじゃない? あるんじゃない?」
「盤外戦術すぎるだろう……」
セミロングの黒髪を手で優雅にかき上げながら、結衣はにやりと笑みを浮かべていた。
ゲームが終わった頃には、結衣はとろんとした眼差しを浮かべていた。
眠たそうにちいさく欠伸をしながら、こくりこくりと船を漕いでいる。
「……横になるか?」
「うん、そうだね」
俺の言葉に、結衣はのそのそと隣の部屋に歩いてゆく。隣の洋室は結衣の寝室だった。
ドアがぱたんと閉じられるのを見届けると、俺は時計で時刻を確認した。時刻は午後九時を少しまわったぐらいだった。彼女が起きたのは、夕方の五時ぐらい。実質、四時間ほど起きていたことになる。
「今日は、結構長く起きていられたか」
あとで、結衣の身体も拭いてやらないとな。
俺はぽつりと呟くと、しばし天井を仰いでから、シャワーでも浴びることにした。
結衣は普通の人間と違って、ある病により、長く起きていることが出来ない。
幼少期の頃は、普通の人間と同じように八時間程度の睡眠時間だったが、中学校に上がった頃には十二時間睡眠となり、高校生になった頃には十六時間の睡眠状態が日常化。結衣はもう一般的な学生と同じ生活は送れなくなった。
睡眠時間という表現を使うと、ただ起きればよいではないか、という風に聞こえるが、これは医学的に睡眠時間と定義されているだけで、実質的には昏睡時間と表現したほうがよい状態にある。つまり脳の何らかの異常らしいのだが、詳しいことは何も解っていない。
身体そのものは一切健康であるにも拘らず、歳を重ねるごとに増えてゆく睡眠時間。病院も数多く回ったが、脳に特別な異常は見られず、治療の術は無いのだという。その一方で、彼女の人生は、睡眠時間という大きな空白に押し潰されてゆく。
実際に活動できる時間は細切れになり、その合計時間も六時間になり、五時間になり、四時間になってゆく。本人の意志では起きる事が出来ず、徐々に奪われてゆく時間。いずれは、活動できる時間がなくなり、彼女は永遠に、その生命を眠ることに費やすだろう。それが一年後なのか、五年後なのかは、誰にも判らない。
日常生活に支障を来す不治の病。入院して療養に専念するという選択肢もあったが、彼女はそれを頑なに拒んだ。恋人である俺の家で生活することを望み、俺もそれを受け入れた。
呪いをかけられて永遠の眠りに落ちる少女。まるで童話の眠り姫のようだ。けれど、結衣は自分がそんな状態に陥っている事を理解しながら、その心は極めて落ち着いていた。日々削られてゆく時間を肌で感じながら、それでも僅かな時間を全力で愉しんでいた。
もし自分が同じ立場だったら、これ程までに平静でいられただろうか。自分はただ、静かに寝息を立てている彼女の頭を撫でてやることしか、出来なかった。
結衣は起きている間は、主に医学の勉強をしている。別に専門の学校に通っているわけでもなければ、医者になれる訳でもない。にも拘らず、彼女は熱心に医学書を読んでは毎日勉強をすることを欠かさない。
以前俺は、結衣が自分の病気を調べるために、自身で医学書を読み漁っているのかと心配したものだが、よくよく確認してみると、その中身は精神医学や麻酔医学、予防医学に果ては小児医学までと、明らかに自分の病気とは関係のない範囲の医学書までをも取り揃えている。
例えば、自分の余命が宣告されたら何をしますか、という問いをされると、自分は回答に困るタイプの人間なので、彼女が一体どういう心境で医学を勉強しているのかは分からないが、おそらくは何か大きな理由があって、その貴重な時間を割くに値する目的が在るのだろう。
「うん? わたしがどうして医学書を読んでいるのか知りたいの?」
「ああ……いや、何となくな。熱心にしてるものだから、気になって」
ある日の夜、俺は思い切って質問を投げ掛けた。
結衣にとって、結衣の人生に限りがあるように。俺にとっても、結衣と一緒にいられる時間には限りがある。だから、俺は疑問に思ったことは、素直に口にすることにしている。恥ずかしいと思うような事でも同じだ。きちんと伝える。後悔しないように。
「シンプルに、漫画のブラックジャックに憧れていた、とかか?」
「わたし、ブラックジャックは読んだこと無いなぁ。名前は知ってるけど。昔の漫画だったら、そうだなぁ……あれだったら知ってる。北斗神拳の。心に七つの傷を持つ男、だっけ?」
「たぶん違う。それだと只のトラウマ野郎になる」
胸に七つの傷を持つ男が正解だ。まあ、だから何だという話ではあるが。
結衣は少し考えるように顎に手を当てて、何かを考えるような素振りを見せる。
「わたしね、一日のほとんどを眠っちゃってるんだけど、夢を見ることはあるの」
「夢?」
結衣の言葉に、俺は静かな口調で問い返した。
彼女は神妙にこくりと頷いて、続きを語り始める。
「例えば、昨日はレストランに行く夢を見たかな。とても美味しそうな洋食のお店だったよ。メニューも沢山あって、上から、店長のおすすめ、店長のおまかせ、店長のきまぐれ、店長のきやすめ、だったかな。それでわたしはグラタンを頼んだのだけれど――」
「シリアスに語り始めようとしているところ悪いが、突っ込ませてもらう」
店長シリーズ四つの最後のやつは、そもそもメニューじゃない。
あと、そのグラタンの話の続きは、たぶん医学と関係ない。
「あはは、医者になりたくなるような夢を見たって言いたかっただけだよ。……でも、夢っていうのは後で考えると、明らかにおかしい物があったりするものだよ?」
「まあ、それは分かる。俺だって、結衣が出てくる変な夢を見ることもあるし」
ぼそりと呟いたつもりだったのだが、結衣はこちらの消え入りそうな声を正確に認識し、ずずず、と競り寄ってきた。目をキラキラさせながら、上目遣いにこちらを見つめてくる。
「わたしの出てくる夢とか見てるのっ? 見てくれてるの?」
「いや、まあ」
「どんなのか聞きたいなっ!」
「悪い……ちょっと恥ずかしい夢だから、口にするのは憚られる」
男性というのは、とても女性には言えないような性的な夢を見ることもあるのだ。
場合によっては現実では考えられないほどに倒錯的であったりするし、その感情の昂ぶりだけで肉体は達してしまうことだってある。
ましてや、恋人などに直接話せるような内容では……
「仕方ないなぁ。じゃあ、諦めるよ。後で感想文だけ提出すること。いいね?」
「諦めてないだろう、それ」
感想文って何だ。中学生の夏休み以来書いてないぞ。
それから半年後の、2017年9月26日。
事態が急変したのは、それから約半年が経った頃だった。もともと一日数時間しか起きられなかった身体は肉体的に弱っていく一方だったが、脳の衰弱も日に日に増してゆき、次第に数日経っても目覚めない事が日常化してゆく。最終的に結衣は病院での生活を余儀なくされた。一日のほとんどを眠ることに費やし、起きていられる時間はほんの僅かとなった。
「結局、こうなっちゃったか」
ベッドに横になったまま、彼女は白い天井を見つめ、淋しそうにぽつりと呟く。
俺も仕事帰りに毎日病院に見舞いに来るが、彼女の覚醒とタイミングが合うのは一週間に一度、あるかどうかだった。今では言葉を交わす機会すら、偶然に恵まれないと得られない。
「こんな調子だと、あと何回きみと会えるか、分からないね」
「そんな悲観的な事を言わないでくれ。結衣らしくない」
そう言いながら、俺は結衣のベッドの隣に座って、そっと頭を撫でる。彼女の肌は陽に当たらないせいで冷たいほど真っ白になっており、点滴で必要な栄養を摂取する身体は弱々しいほどにほっそりとしている。肉体的には何の問題もないので、歩こうと思えば歩けるし、走ろうと思えば走れるのだが、彼女はたまに散歩をする程度で、それ以外の時間は、まるで気を紛らわせるかのように、ひたすら本を読むような生活を続けていた。
俺が来た時だけ、静かな病院の個室で、こうして不安を言葉にする。
「ねえ」
「ん?」
「もしわたしが目覚めなくなったら、他の女の子と付き合っていいからね?」
「……」
こちらに顔を背け、窓の外を見つめながら結衣は言葉を零す。
それが彼女にとって本心かどうかは判らないが、少なくとも、もしそれで素直に頷くような男だったら、最初から彼女の傍にいたりなんかしない。
「ご心配なく。俺は自分の意志でここにいるんだ。結衣のことが好きだからな。それに俺は負けず嫌いなんだ。前に格闘ゲームで負けたままだから、このままにはしないぞ?」
まだ覚えてたんだ、と。結衣は苦笑しながら、こちらに顔を向けてくる。
「きみって、負けず嫌いだったんだね。でも、惚れたほうが負け、とも言うよ?」
独特な言い回しは、彼女特有のものだ。
俺も釣られて苦笑しながら、彼女と眼差しを交差させる。
「惚れた方が負けか。確かにそんな言葉もあるな。でも仕方ないだろ? 大の負けず嫌いの俺が、初めて負けてもいいと思えた相手なんだから。結衣はこの広い世界の中で、唯一俺に勝てる女性だ。愛してるよ、結衣」
俺の科白が空気を響かせた後、結衣専用の個室である病室には、しん、とした静寂が訪れる。
「……」
「……」
「きみ、顔真っ赤だよ?」
「うるさい。こんな科白を真顔で平然と言えるやつは、この世にはいない」
むしろ恋愛小説で決め台詞放ったつもりがスベるとか、俺もびっくりだよ!
「あはは」
結衣はちいさく笑いながら、そういう彼女も頬を紅く染めていた。
まったく。結衣は相変わらず、素直じゃないところがあるんだよなぁ。
仕方がないから、俺も反撃に転じることにする。
「そうそう、結衣に記念日のプレゼントがあったんだ」
「……うん? わたしの誕生日は先週来たし、もうプレゼントも貰ったよ?」
小首を傾げる結衣を横目に、俺は鞄からごそごそと青色の箱を取り出した。そのまま青い箱を開けて、中からちいさな輪っかを取り出した。銀色に輝く輪っかには、光を反射させて輝く透明なダイヤモンドが付けられている。
「誕生日は先週だが、記念日なら確かそのはずだ。結婚記念日。……合ってるか?」
そう言うと俺は、結衣の左手をそっと持ち上げ、その薬指にリングを嵌めた。
「……」
「……」
「結衣、泣きそうな顔してるぞ?」
「も、もうっ!」
目に涙を浮かべながら顔を赤くする彼女に、俺はぽかぽかと叩かれた。
今日から彼女は、俺の嫁だ。
いつかわたしが眠り続けても、きみは、最後までわたしの夫でいてくれる?
もちろんだ。
わたしの事、忘れたりしない?
ああ、忘れない。
もしわたしが何かの拍子で目覚めたら、きっと迎えに来てね。
わかった、約束する。
わたしの記憶は、ずっと止まったままになるのかな。
なに、ゲームと同じだ。結衣の気が向いた時に、また続きから始められる。
うん、そうだね。
ああ、そうさ。
そろそろ眠くなってきた。
お別れか、辛いな。
でもわたし、きっといつか目覚めるから。
目覚めないと、俺でも泣くかもしれないぞ?
あはは、それは我慢してよね。
そうだな、もう夫だからな。
うん、でもいつか会えるような気がする。
それは楽しみだ。
だからその時は、かならずわたしを迎えに来てね。
ああ、何度でも約束する。
絶対だからね?
そう言い残して、彼女は静かに眠りについた。
必要なのは、大きめの耐熱ボール。牛乳とバターを中に入れ、電子レンジで少し温める。レンジから耐熱ボールを取り出すと、今度は砂糖とドライイーストを追加して、フォークでかき混ぜながら強力粉を入れる。次第にそれらは白い生地へと姿を変えるので、あとはそれを形成して丸くし、オーブンシートを敷いた耐熱皿に並べ、適度に温度調整を繰り返しながら、二五〇度のオーブンでおよそ十分焼けば出来上がりだ。
完成するのは、中はふっくら、外はこんがりの丸パンである。
「さて、どうかなぁ」
日曜日の昼下がり。ホームベーカリーを使わずに、電子レンジでパンを作ってみたいと唐突に彼女が言い出したことが事の発端。結衣は桃色のエプロンに厚手のミトンを付けて、レンジの中から恐る恐るとオーブンシートを敷いた耐熱皿を取り出してゆく。耐熱皿に並んでいるのは、こんがりと焼かれた五センチ程度の美味しそうな丸パン。ただ、そのどれもが、ふっくらという形容詞とはおおよそかけ離れた、ぺちゃりとした丸パンになっていた。
結衣はそれを見ると、表情を曇らせながら、隣にいた俺に言葉を掛けてくる。
「生地の発酵不足だったのかなぁ。思ったより膨らんでないよね?」
「そうだな。膨らんでないな。イースト菌の調整が足りなかったかも知れないな」
俺が応えると、結衣はちいさく溜息を吐いた。
「まあ、初めてだから仕方ないね。食べればそれなりに美味しいと思うよ。ところで……」
「ん?」
彼女はふと何かを思い出したかのように、こちらに上目遣いの視線を向けてくる。
「この膨らんでない丸パン……まるで結衣さんのバストみたいだな、とか言いたげだね?」
「思ってない。思ってないから」
唐突な視線によるアッパーを、俺は身体を捻って辛うじて避けた。
どちらかといえば、結衣の胸は膨らんでいるほうだ。
いや、そうではなくて。
喉まで出掛かった文句を辛うじて飲み込みながら、俺は肩をすくめる。
「まったく。どこからそんな科白が出てくるんだか」
「わたし、ノリは良い方ですから」
結衣は自慢げに胸を張る。実際、彼女の胸は豊満であった。
「小学校時代はみんなからも、絡みやすい性格だって言われたんだよ?」
そんな結衣の様相に、俺は目を丸くして彼女を見つめ返した。
「絡みやすいというか……結衣の場合、絡まりやすい?」
「絡まりやすい!? わたし、ややこしい系!?」
耐熱皿を持ったまま、はうっ、という表現が似合いそうな表情で固まる結衣。
やがて視線を落とし、アンニュイな表情で意味深な言葉を呟く。
「そうかぁ……わたし、ややこしい系だったかぁ。鞄の中に仕舞い込んだまま放置して、いつの間にか絡み合って団子になってるイヤホンのケーブルみたいだったかぁ……」
「いや、誰もそこまで言ってない」
「でもでも、ケーブルを適当に束ねていると、いつの間にか固結びになってることって多くない? あれ、戻すの面倒じゃない? というか、どういう仕組みで出来るんだろうね?」
「……」
「仕組みといえば、HPってアルファベットを見ると、ヒットポイントの略なのか、ホームページの略なのか、ゲシュタルト崩壊を起こすことがあるんだけど、あれってわたしだけかな?」
「結衣、それ以上話が脱線すると、また絡まるぞ」
「えっ!? いまわたし、ややこしい感じになってた!?」
わざとらしく驚く結衣の言葉に、俺は大げさにこくりと頷いてみせた。
数秒して。
やがて二人で、ちいさく笑った。
日付なんてどうでもいいが、西暦2018年2月14日現在。
彼女は今でも、一日に三十分だけ起きている。
たった、三十分。
だけどそれは。
何よりも大切で、とても愛しい、かけがえのない三十分で。
「いま焼いたパンは、明日ふたりで試食するとしよう」
すやすやと寝息を立てている彼女を抱いて、俺は静かに、そう囁いた。