黒ずくめの男
※この作品は、犯罪行為を助長するものではありません。
ベッドの上で横になって、ため息を付く。何度やってきたことだろう。今日一日の嫌な出来事が思い出される。僕は偽善者だ。本当の自分を隠している。引っ込み思案で、自分から人に声をかけられない。今日もひとりだった。僕は家を飛び出した。殺してやる…。殺してやる…。その言葉だけが、頭の中で反芻される。すると、目の前に血の滴る包丁を持った男が立っていた。
それは、確かに殺人犯であり、他ならぬ自分でもあった。黒くくすんだ服に生臭い血の臭いを漂わせた姿は、僕の心の中で泣いていた何かそのものであり、その何かを具現化したもののようにも思えた。
「貴方は僕なのですか?」と、咄嗟に出た声は震えていた。黒ずくめの男は静かに頷いた。だが、そのとき僕は、恐怖というよりむしろ安堵感を覚えていた。僕がいつも殺人犯のニュースを見たときに感じる、あの安堵感だ。それは、自分が押さえつけている何かを代わりに表現してくれているような気がするというものだった。
しかし、今回は違う。その殺人犯とは僕自身なのである。そう認識した途端、血の気が引いた。膝がひとりでにガクガクと動き出す。僕は自分を落ち着かせようと試みた。不思議と冷静な自分はまだ心の中に住んでいたようだ。自分は殺人犯ではない。殺人犯はこの黒ずくめの男だ。けれどもこの男は僕だ。わけが分からなくなってきた。元来、数学を苦手としてきた僕であったが、ある数式(?)が頭の中に浮かんできた。「AはBでない。BはCである。CはAである。」
「お前は殺人犯なんかじゃない…」黒ずくめの男がしゃがれた声で言う。
「俺は、お前の住んでる世界のお前じゃない。俺はお前に俺とおんなじ道をたどって欲しくない。だから、こうしてお前の世界にやって来た。」僕は戸惑いを覚えた。
「お前は変わらなくちゃならない。この悲惨な結末を避けるために、そして何よりも、幸せになるために。」
「―――幸せに、なる、ために…」
「そうだ。そのためにはまず、自分を好きにならなくちゃならない。」
「自分を、好きに…?無理だよ!そんなの!!」
「大丈夫だ。お前ならできる。」
「は?何でわかんのさ。てか、お前、殺人犯だろ?何でそんな奴に僕の気持ちがわかんのさ!」
「お前、殺人願望あるだろ。」
「……っ。」
「あるんだな?」僕は小さく頷いた。
「あれ?」顔を上げると、そこにはもう黒ずくめの男はいなかった。不思議と胸の中がすうっとした気がした。
「帰ろ。」僕は帰路についた。東の空には満月が浮かんでいた。